狗奴国(くなこく)は、魏志倭人伝に登場する邪馬台国と敵対していた国です。
寒冷化により食料が不足し、古代日本では2世紀の後半に倭国大乱と呼ばれる内戦状態となり、倭人同士での戦いが繰り広げられています。
この時に、諸国は鬼神崇拝の行った卑弥呼を女王とし、多くの国が邪馬台国に服属しましたが、狗奴国は邪馬台国に従う事はありませんでした。
後に、邪馬台国と狗奴国は戦いになるわけですが、順を追って解説したいと思います。
余談ですが、狗奴国は、後の世に大和王権に討伐される熊襲と同じ民族だともされています。
中国側の記録である魏志倭人伝の呼び方が「狗奴国」で、古事記や日本書紀の呼び名が「熊襲」だと考えられています。
狗奴国は蛮族ではない
狗奴国がいつ頃に成立したのかは分かりません。
魏志倭人伝には、狗奴国の成立に関しては一切の記述がないからです。
邪馬台国と争った狗奴国のイメージは、邪馬台国に従わない文明が遅れた蛮族的なイメージではないでしょうか?
狗奴国は大和朝廷に討伐される熊襲と同じだとする見方もありますが、熊襲と同様に狗奴国も力自慢の蛮族が邪馬台国に対して反乱を起こしたイメージがあるのかも知れません。
しかし、実際の熊襲や狗奴国は多くの鉄器を有し、当時でも最先端の技術を持った国だと考えられています。
邪馬台国は魏の後押しを受けて狗奴国と戦いますが、狗奴国は少なくとも卑弥呼がいる邪馬台国と互角に戦う事が出来ていたからです。
大和朝廷に討伐されながらも、何度も熊襲が反旗を翻す事が出来たのは、最先端の技術を持った先進国の証だとも言えるでしょう。
狗奴国は、どこにあったのか?
狗奴国の記述ですが、魏志倭人伝を読むと邪馬台国の南にあった事が分かります。
しかし、邪馬台国の説は色々とあり、場所を特定できない現状があります。
同様に狗奴国も東海説があったりしており、静岡県にあったとか、纏向遺跡の南にある紀伊の国(和歌山県)にあったなど、様々な説が存在する状態です。
個人的には、邪馬台国は九州の筑紫平野の辺りにあり、現在のみやま市の辺りにあったのではないかと考えています。
女山が卑弥呼の本拠地であり、権現塚古墳が卑弥呼の墓が一番しっくり来るように感じました。
箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説もありますが、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命だと記紀に記述があります。
邪馬台国が筑紫平野にあったのであれば、狗奴国は南にある熊本平野にあったのではないでしょうか。
魏志倭人伝の記述で、官が狗古智卑狗とありますが、これが現在の菊池市にあたり菊池彦という領主がいた事も分かっています。
地名は1000年経っても9割が残っていると言われており、地名を頼りに狗奴国の場所を特定するのは優れた方法だと感じます。
余談ですが、狗奴国では王の名前よりも狗古智卑狗の方が先に出ている事もあり、狗奴国の王よりも実権を握っていたのは狗古智卑狗だったのではないか?とする説もあります。
狗奴国と邪馬台国
狗奴国と邪馬台国が敵対関係だった事が魏志倭人伝に書かれています。
卑弥呼が魏国に朝貢した理由
卑弥呼が魏に朝貢した理由ですが、魏の後ろ盾を得る事で狗奴国に対して、戦いを有利に進めようとしたからではないでしょうか。
狗奴国の男王である卑弥弓呼と邪馬台国の女王卑弥呼は、元々不和だったようでいつ開戦してもおかしくはない状態だったのでしょう。
邪馬台国の卑弥呼は、強国である狗奴国に勝つために、中華の魏に頭を下げ冊封され、親魏倭王になったとも考えられます。
当時の冊封体制では、朝貢貿易もあり朝貢した品以上のお返しが魏国から贈られる事になります。
魏の方でも倭国が朝貢する事で、遠方まで支配が行き届いている事を、国内やライバル国である呉や蜀に対して権勢をアピールする意味もあったようです。
ただし、魏国では一年に何度も朝貢されては財政を圧迫する原因にもなるので、朝貢貿易には制限を設けていた話もあります。
狗奴国が強大である為に、卑弥呼は魏に援助を求めたのが実情に近い様に思います。
狗奴国と邪馬台国の戦い
邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢したりもしますが、結局は狗奴国と戦いになります。
狗奴国が邪馬台国と戦う事になった理由の一つとして、奴隷貿易が関係している説が存在します。
魏志倭人伝の記述によれば、邪馬台国は朝貢するたびに奴隷を貢物として贈っていたわけです。
狗奴国や大和朝廷などの勢力は、倭国の人間を奴隷として中華に送る、奴隷貿易に反対であり開戦に踏み切った説もあります。
大和朝廷は魏志倭人伝に登場する投馬国(つまこく)と深い繋がりがあったとも考えられます。
神武東征する前の大和朝廷の本拠地は宮崎にあり、宮崎に残った人々が投馬国だともされています。
因みに、投馬国(つまこく)は、宮崎の都萬神社(つまじんじゃ)の辺りにあったとする説が注目されている状態です。
大和王権は、関係が深い投馬国を通して、狗奴国を援助していた可能性もあります。
邪馬台国が魏と交わりを結び狗奴国と戦おうとした様に、狗奴国も大和朝廷と同盟を結び邪馬台国と戦おうとしたのではないでしょうか。
魏と呉の代理戦争説
邪馬台国と狗奴国に戦いですが、中国の魏と呉の代理戦争だった説もあります。
卑弥呼の時代は、中国では三国志の世界であり魏、呉、蜀で激しく争っていました。
東の海に面する魏が邪馬台国を支援するのであればと、呉は狗奴国を支援した説です。
ただし、正史三国志の記述を見ると呉が狗奴国を援助した記録もありません。
さらに、呉の君主である孫権は、倭国を見つけようとして失敗した話もあります。
魏と呉の代理戦争の話は、信憑性は薄いと感じます。
張政の仲介
卑弥呼は狗奴国と戦いになると魏の帯方郡に使者を送り状況を説明しました。
帯方郡がある朝鮮半島は、魏の首都である洛陽から離れている事もあり、治安が悪かったのでしょう。
当時の帯方郡太守である王頎の先任である弓遵は、韓族の臣智の功績により討死している位です。
卑弥呼の援軍要請を受けた王頎も援助する余裕はなく、配下の張政を魏に送り込み檄文により仲裁するのがやっとだったはずです。
魏志倭人伝には、張政が邪馬台国と狗奴国に戦争を止める様に教えを諭したとありますが、両国が戦争を止めたのか?の記載がありません。
張政が卑弥呼に会う前に、卑弥呼が重病もしくは、亡くなっていた可能性もあります。
卑弥呼の死は西暦248年頃とされています。
卑弥呼の死後に邪馬台国では男王が即位しますが、国は乱れ卑弥呼の一族である13歳の台与が即位すると国は治まったとあります。
晋書に西暦266年に倭の女王が西晋の司馬炎に朝貢した話があり、朝貢した倭の女王が台与の事ではないか?とも考えられています。
張政は台与には、「よく国を治める様に」と教えを諭し中華に帰った話があります。
狗奴国と邪馬台国はどちらが勝ったのか?
狗奴国と邪馬台国のどちらが勝ったのかですが、狗奴国優勢で終わったのではないかと思います。
魏から禅譲を受けた晋ですが、291年八王の乱が起こり、中華の地は異民族も入ってきて大混乱になります。
激しい内乱状態の西晋では、邪馬台国への援助は不可能でしょう。
中華皇帝の後ろ盾を失くした邪馬台国は弱体化し、狗奴国も邪馬台国を滅ぼす事まではせずに戦いは終わったように思います。
邪馬台国近畿説と狗奴国
邪馬台国近畿説や大和説では、狗奴国の位置が東海地方や関東だとされる事が多いです。
卑弥呼の時代を見ると、邪馬台国の卑弥呼が三国志の魏に朝貢しただけではなく、狗奴国の卑弥弓呼とは戦争状態だった事が記録されています。
考古学的に邪馬台国の時代を考えると、地方の文化が割拠している様な状態であり、倭国内で文化が統一されているとは言えません。
こうした事情を考えると、邪馬台国と狗奴国は隣接する地域紛争だったとも考える事が出来るはずです。
仮に邪馬台国と狗奴国が離れた地域の戦争であったならば、日本全体にもっと交流した感じがあってもいいとも考えられます。
それらを考慮すると、邪馬台国と狗奴国の戦いは地域内紛争であり、九州の中での争いと考えた方がしっくりと来るはずです。
倭国内で文化が一体感を見せるのは庄内式土器の末期から、布留式土器の時代であり、邪馬台国時代では地方政権が割拠していた状態だと言えるでしょう。
空白の4世紀と呼ばれる時代に倭国内で統一感が出て、5世紀の倭の五王の時代では大和王権が日本列島に多くの影響力を与えた事が分かっています。
狗奴国の滅亡
先に狗奴国が熊襲だという話をしました。
狗奴国が熊襲であれば、記紀の記述があり景行天皇の時代にヤマトタケルが熊襲征伐を行っています。
ここで興味深い記述があり、熊襲を貢物を大和朝廷に納めなくなった事で、大和王権は熊襲討伐に踏み切っているという事です。
貢物を奉らなくなったと言う事は、過去には熊襲は貢物を大和朝廷に納めていた事になります。
熊襲としては、邪馬台国の脅威が去った事で大和朝廷に貢物を送らなくなったのですが、今度は大和朝廷が攻めて来たのかも知れません。
神功皇后が摂政をしている時代に熊襲は討伐されますが、これを持って狗奴国は滅亡だとも考えられます。
余談ですが、神功皇后は土蜘蛛征伐で、山門の女酋長である田油津媛(たぶらつひめ)を討った話があり、これを持って邪馬台国は滅亡という説があります。
それを考えれば、狗奴国も邪馬台国も揃って神功皇后の攻め滅ぼされた可能性も出て来るはずです。