古代オリエント

カッシート人がバビロン第三王朝を築いた

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宮下悠史

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名前カッシート人
時代メソポタミア文明
場所メソポタミア地方
コメントバビロン第三王朝を築いた民族

カッシート人はバビロン第三王朝を立てた民族です。

バビロン第三王朝は別名としてカッシート王国と呼ばれています。

カッシート人は最初は、バビロン第一王朝に日雇い労働で来ていた民族だとされています。

しかし、メソポタミア地方が混乱しバビロン第一王朝が滅ぶと、バビロンの地には海の国第一王朝(バビロン第二王朝)が立ちました。

カッシート人もカッシート王国を建国しており、バビロニア北部に勢力を持つ様になり、最終的にバビロン第三王朝を建国する事になります。

カッシート王国はバビロンを首都とした王朝の中で、歴代最長の統治期間を誇りました。

カッシート王国の時代にペルシア湾沿岸のディルムンも支配下に加えていた事が分かっています。

しかし、大カタストロフ海の民が暴れまわり、ウガリトやヒッタイトが滅亡しますが、その後にカッシート王国もエラム人により滅亡しています。

カッシート人の起源と民族的背景

カッシート人は、資料によってインド・ヨーロッパ語族になっていたり、正体不明となっていたりすることもあり、その起源は正確には分かっていません。

メソポタミアの東にあるザグロス山脈の付近にいたという説もあります。

カッシート人の中にはインド・ヨーロッパ語族の名前に近い者がいた事が分かっており、インド・ヨーロッパ語族であるとも、アーリア系であるとも言われています。

インド・ヨーロッパ語族はコーカサス山脈の北にいて、紀元前2000年頃に大移動を始めたとされています。

カッシート人は、「メソポタミアの北部からザグロス山脈に入ってきた」という説と、「イラン方面からやってきた」という説があります。

最近の研究では、ザグロス山脈にいたカッシート人の一部に、少数のインド・ヨーロッパ語族が入っていたという主張がなされました。

メソポタミアは移動しやすい地形であるため、民族が入り乱れることも多かったようです。

バビロン第一王朝期のメソポタミアとカッシート人の流入

当時のメソポタミアは、シュメール人ウル第三王朝滅亡後に、バビロニア地方を統一したバビロン第一王朝の時代でした。

バビロン第一王朝と言えば、ハンムラビ王のハンムラビ法典が有名です。

カッシート人達は、バビロンに日雇い労働者として来ていました。

カッシートという言葉の意味は「日雇い労働者」だとされています。

カッシート人は初め日雇い労働者として、バビロンに入り込み、後に大農場の手伝いや傭兵として活躍したとされています。

彼らは、日雇い労働者や傭兵をやっているうちに、バビロンの文化を吸収したり、戦いのやり方を覚えたりしていきました。

サムスイルナ期の混乱とカッシートの初登場

バビロン第一王朝は、ハンムラビの死後に弱体化してしまいます。

これはハンムラビの子であるサムスイルナの時代に、反乱が多く発生したことが要因であると考えられています。

サムスイルナの7年にあたる1740年に、カッシート人がバビロンを攻撃したとされています。

これが、歴史に登場するカッシートの最初の記述だという主張もあります。

出稼ぎに行っているうちに、バビロンの豊かさを知り、武力で豊かさを奪い取ろうとするカッシート人の部族が出たとも言えます。

バビロンとカッシートの戦いは、バビロン側の記述だと、バビロン軍がカッシート人を撃退した事になっています。

一方で、バビロン軍が敗北し、カッシート軍が勝利したという説もあります。

カッシートと戦った後も、バビロンの領内で反乱が勃発していたという事実から、「バビロンがカッシート軍に惨敗した事で、バビロンに従っていた都市が反乱を起こした」とする説もあるようです。

カッシートとの戦いで、バビロン側は武威を見せつけるはずが、逆に脆さを露呈してしまったという説です。

当時のバビロンでは、徳政令が何度も出ている事から、社会的な混乱は間違いなくあったと言えるでしょう。

バビロンに勝利したカッシート王国は、この時にバビロンから独立したと考えられています。

しかし、カッシート人の都市が独立しても、カッシート人はバビロンに出稼ぎに行っていたという話もあります。

カッシート人は、バビロンにとって大事な労働力だったためです。

海の国第一王朝の成立とバビロニアの分裂

バビロニアの混乱は続き、紀元前1732年頃には、バビロニアの南部で、海の国第一王朝がバビロン第一王朝から独立しました。

海の国第一王朝が、バビロン第二王朝と呼ばれる事になります。

海の国第一王朝に関しては、情報が非常に少なく、残念ながら分かっている事がほとんどありません。

しかし、バビロン第一王朝と海の国第一王朝の戦いで、バビロン側の傭兵として、カッシート人が参加したと考える人もいます。

バビロン第一王朝は、勢力を回復したり弱体化したりを繰り返しながらも、なんとか存続していました。

しかし、小アジアでヒッタイトが強大化すると、その軍事力の前に一撃で滅ぼされてしまいます。

ヒッタイトは強力な鉄の武器を持っていたため、青銅の武器しか持たないバビロンでは太刀打ちできなかったと言われています。

紀元前1595年にヒッタイトはバビロン第一王朝を滅ぼすのですが、バビロニアを占領する事はせず、略奪だけを行い小アジアに帰国してしまいました。

バビロニアの地が空白地となり、群雄割拠の時代となります。

それを制したのが、海の国第一王朝、別名バビロン第二王朝です。

カッシート勢力の拡大とアッシリア

カッシート人は、バビロン海の国第一王朝に譲ったものの、北方ではそれなりに勢力があったとされ、メソポタミア北部にあるアッシリアと境界線を定めたという話が伝わっています。

カッシート人は、アッシリアと境界線を決める事が出来るほどの勢力を、メソポタミア中部に持っていたという事になるでしょう。

紀元前1500年頃になると、ヒッタイトは衰えて、ミタンニ王国が勢力を伸ばし始めました。

この頃のオリエントの主役は、エジプトとミタンニ王国の二大勢力でした。

カッシートのバビロン奪取

紀元前1475年になると、カッシート王国は南下を始め、遂にバビロンの地を手に入れる事に成功します。

バビロニア地方の盟主がカッシート王国になったわけです。

カッシート王国は別名バビロン第三王朝とも呼ばれています。

バビロンは第一王朝から第十一王朝まで続くのですが、カッシート王国は、地味でありながらも歴代最長を記録した王朝となりました。

カッシート王国の制度と内政改革

カッシート王国では封建制が取られており、カッシート王は、功績があった臣下にクドゥルと呼ばれる境界碑を与えて、土地の所有を認めたとされています。

クドゥルは、紀元前14世紀から紀元前7世紀頃まで続き、土地の所有を認める重要なものでした。

それまでは、土地の所有などに関して曖昧な部分が多かったようです。

ただし、カッシート王国が戦いに敗れた場合は、宝物だけではなく、クドゥルまでもが戦利品として奪われたという話もあります。

例えば、イラクで見つかっているクドゥルは、カッシートから略奪したものであるとされています。

カッシート王国が誕生した紀元前1475年から紀元前1400年頃までは、カッシート王国は比較的平和だったのではないかと考えられています。

ただ、それは外の国々との争いが無かっただけということであり、バビロニアも裕福とは言えなかったようです。

バビロニアはバビロン第一王朝ヒッタイトに滅ぼされてから群雄割拠状態のイシン・ラルサ時代に突入し、バビロンを始めとした多くの都市で、慢性的な食糧不足が起きていたとも言われています。

さらに、海の国第一王朝の残党とも戦いを繰り広げていました。

カッシート王国の首脳部は、破壊されてしまった用水路の再建を考え、新規の灌漑事業を始めるなど、国の復興に尽力したのではないかと考えられています。

国際関係の拡大

カッシート王国は、安定の為に隣国のアッシリアとの友好を継続していました。

しかしながら、紀元前15世紀の後半になると、ミタンニ王国が全盛期を迎え、アッシリアも傘下の諸侯になったとされています。

この時代は、北のミタンニ、南のエジプトが強大な勢力を有していました。

エジプトでは、トトメス3世がシリアやパレスチナへと勢力を伸ばし、ミタンニを破って大きな戦果を挙げたとされています。

カッシート王国は、第十五代・カラインダシュの時代にエジプトと従属同盟ではなく、対等に近い同盟を結んだようです。

自国の王女をエジプトのファラオに嫁がせるなどし、お互いを兄弟の国と呼んでいました。

カッシート王国は、アッシリアがミタンニの従属国となってしまった後も引き続き友好を結んだという話が伝わっています。

アッシリアはミタンニの属国ではありましたが、バラバラだった部族が団結して、まとまって行くことになります。

カッシート王国の全盛期

エジプトの支援を受けたカッシート王国は、都市を復興させ、東ではエラムの首都であるスーサを陥落させるなど、大戦果を挙げます。

スーサを陥落させた、第十八代カッシート王であるクリガルズ1世は、自らを「世界の王」と称しました。

さらに、カッシート王国では新首都であるドール・クリガルズを建設したとされています。

この頃がカッシート王国の全盛期と言えるでしょう。

ミタンニの崩壊

エジプト新王国とミタンニ王国が争っている間に、小アジアのヒッタイトが再び強勢となり、ミタンニの東部にあるハラブを占領します。

ヒッタイトの脅威により、ミタンニ王国は宿敵であるはずのエジプトと同盟を結ぶことになります。

ミタンニが王女をエジプトに差し出し、エジプトは黄金でミタンニ王国を援助しました。

ミタンニ王国は、エジプトの援助を受けてヒッタイトと戦ったとされています。

エジプトはミタンニだけではなく、カッシートにも黄金を贈りました。

記録によれば、エジプトは90トンもの黄金をカッシート王国に届けたそうです。

カッシート王国の方でも、砂漠に砦を作り、半遊牧民たちを駆逐し、エジプトとの交通路を確保したという話が伝わっています。

黄金の量が莫大なだけに、カッシート王国でも盗賊に奪われないよう必死だったことが分かります。

しかしながらエジプト王アクエンアテンは、ミタンニ王国との同盟は継続しなかったという話が伝わっています。

これによりミタンニ王国は、エジプトの援助がない状態で、ヒッタイトと戦う事になりました。

この時に、ヒッタイト王であるシュッピルリウマ1世はミタンニを攻撃するものの、敗れてしまいます。

シュッピルリウマ1世は、普通に攻め込むだけではミタンニは倒せないと悟り、調略や外交を駆使する事を考えます。

その結果、彼はカッシート王国と同盟を結んだり、ミタンニ王国配下の諸侯の切り崩しを行ったりしました。

ヒッタイトのシュッピルリウマ1世は、カッシート王国から妻を貰う事になります。

ミタンニの背後に位置するカッシート王国と同盟を結んだヒッタイトのシュッピルリウマ1世は、ミタンニを攻撃し、壊滅的な打撃を与えています。

ヒッタイトの一撃でミタンニは壊滅的な打撃を受け、弱小国に転落してしまいました。

ヒッタイト・アッシリアの台頭

ミタンニ王国の西部はヒッタイトが領有し、東部ではアッシリアが独立する事になります。

その後アッシリアは勢力を強めていき、ミタンニはヒッタイトとアッシリアの緩衝地帯になりました。

ヒッタイト王シュッピルリウマ1世の妻となったカッシートの王女は、3代に渡ってヒッタイトの宮廷で権力を握ったという話がありますが、一方でヒッタイトに悪い習慣を持ち込んだとして追放されたという話も伝わっています。

王女を追放しても、ヒッタイトとカッシートの友好関係は続いていたようです。

アッシリアの脅威

カッシート王国第十九代国王、ブルナブリアシュ2世の時代にアッシリアが強大になった際には、カッシート王国は、強国となったアッシリアの脅威に晒され、妻を娶ることになります。

紀元前1333年にブルナブリアシュ2世が亡くなると、アッシリアの王女が生んだ子がカッシート王となりました。

その際、カッシートがアッシリアの属国になる事を恐れたカッシート王国の大臣達が反乱を起こしたとされています。

カッシート王国の混乱に対し、アッシリアが軍事介入する事になります。

この頃には、カッシート王国はアッシリアに軍事力で全く及ばなくなっていたようです。

しかし、アッシリアではバビロンの文化が流入し、アッシリアのバビロン化が始まりました。

軍事面ではアッシリアがカッシート王国を圧倒していましたが、文化面ではカッシートの方が優れていたとされています。

カッシート王国の弱体化

紀元前1286年になると、エジプトとヒッタイト間のオリエント盟主の座を掛けた、カディシュの戦いが勃発します。

カディシュの戦いは、双方が勝利を宣言したのですが、実際には引き分けだったとも言われています。

カッシート王国は、引き続きアッシリアとは友好を結んでいたものの、この頃になると内部が腐敗していました。

25代カッシート王のカダシュマンエンリル2世がヒッタイト王に宛てた手紙の中では、自国の高官の専横について触れられています。

カッシート王国の内部では、権力闘争がかなり激化していました。

トゥクルティニヌルタ1世の侵攻

紀元前1244年にアッシリア王にトゥクルティニヌルタ1世が即位すると、急激に領土を拡げる事になります。

アッシリアが強大になったことにより、ヒッタイトは急速に力を失い、慢性的な食糧不足で国が困窮したという話が伝わっています。

過去にライバルだったエジプトと同盟を結び、食料を援助してもらったそうです。

アッシリアが強大になって行く中、カッシート王国は何を思ったか1235年にアッシリア領に攻め込む事になります。

もちろん、軍事力でアッシリアに適うはずもなく、撃退されてしまいます。

一方のアッシリアは各地への遠征が成功し、莫大な戦利品や貢納物を手に入れ、国が豊かになっていきました。

バビロン陥落

この時期に、バビロニアの東にあるエラムでトゥクルティニヌルタ1世が即位し、エラム王国が強大になったという話もあります。

エラムでは、メソポタミアよりも大きなジックラトが造られたり、新都が建設されたりしました。

しかしながら、カッシート王国にとって、北方のアッシリアと東方のエラムが強大化していくのは、非常に厄介な問題でした。

こうした中で、紀元前1225年の第28代カッシート王であるカシュティリアシュ4世の時代に、アッシリアがカッシート王国に攻撃を仕掛けて来る事になります。

アッシリアの急襲によりカッシート王国は大敗し、アッシリア王カシュティリアシュ4世は捕虜となり、バビロンのシンボルでもあるマルドゥク神像と共に、アッシリアに連れ去られる事になります。

バビロンや服属していた都市が反乱を起こせない様に、アッシリアは城壁を破壊していたそうです。

アッシリア王・トゥクルティニヌルタ1世は、しばらくの間は、バビロンの王を称していたとされています。

彼は、アッシリア地方に新都を建造するなど、絶頂期にいました。

しかし、カッシート王国は、完全に滅亡したわけではありませんでした。

カシュティリアシュ4世とマルドゥク神像が捕虜になり、バビロンの文化が大量にアッシリアに流入し、アッシリアのバビロニア化は、さらに加速したと言われています。

トゥクルティニヌルタ1世の治世の後半には、アッシリア内での権力闘争が活発となり、カシュティリアシュ4世が紀元前1207年に息子に暗殺されてしまいます。

彼が暗殺された裏にはカッシート人がいたとする説もあるようです。

前1200年のカタストロフ

こうした状況下で、紀元前1200年が訪れる事になります。

紀元前1200年は民族移動が活発になり、「前1200年のカタストロフ」とも呼ばれています。

原因は気候変動だと言われています。

前1200年のカタストロフにより、トロイア戦争で有名なアカイア人が、北方からやってきたドーリア人に土地を追われる事になりました。

アカイア人を追い出したドーリア人が、後にギリシアで戦闘民族と言われたスパルタになります。

イタリア半島にはラテン人とサビニ人が暮らす様になり、混血が始まったと言われています。

さらに、地中海では海の民の攻撃により、小アジアのヒッタイトが滅亡する事になります。

地中海の東岸にいたフェニキア人も、シドンからティルスに都を移す事になりました。

海の民は弱体化していたエジプトにも攻めて来ます。

エジプトは衰退してはいたものの、ラムセス3世の奮闘により、海の民を撃退する事に成功します。

エジプトに敗れた海の民は、シナイ半島に移動し、ペリシテ人となったとも言われています。

ペリシテ人は領土拡大の為に北上を始めます。

パレスチナの地で団結し、それに抵抗したのがヘブライ王国となります。

ヘブライ人(ユダヤ人)は部族社会でしたが、ペリシテ人の侵攻に対抗する為に、一致団結して国を造りました。

前1200年のカタストロフでは、アラビア半島にいたとも、カナン地方にいたとも言われる、セム語系民族の移動も誘発しました。

セム語系の民族が北上して、シリアに移動したアラム人となり、国を造る事になります。

カッシートの最後の抵抗

アラム人がシリアを占拠した際には、アッシリアは権力闘争などもありすでに弱体化していました。

諸説あるものの、混乱に乗じてか、カッシートのアダド・シュマ・ウツルがアッシリアをバビロンから駆逐し、再びカッシート王国が独立したという話があります。

アダド・シュマ・ウツルの治世は、カッシート王国にとって最後の安定期であったとも言われています。

彼の死後に、カッシート王が「世界の四方地域の王」を名乗ることになるのですが、国力が完全に回復した事実はないと考えられています。

エラムの侵攻とカッシート王国の滅亡

紀元前1158年になるとエラムがカッシート王国を攻撃し、カッシート王とマルドゥク神像は、またもや捕虜になってしまいます。

バビロンはエラム人によって壊滅的な打撃を受けて、ハンムラビ法典の石碑などもエラムに持ち去られてしまいました。

戦いには敗れましたが、カッシート王国は滅んだわけではありませんでした。

エラム人は自分たちの傀儡政権をバビロンに作る事になります。

この時の最後のカッシート王が、エンリル・ナディン・アヒです。

1155年に、独立を目的としてエラムに戦いを挑みますが、大敗してしまいます。

こうして、カッシート王国は滅亡しました。

カッシートは、建国から576年9カ月もの間存続し、バビロニアに成立した諸王朝の中でも最長の歴史を誇りましたが、その長い繁栄もついに終わりを迎えました。

ちなみに、カッシート王国を滅ぼしたエラム人はメソポタミアの東方に長くおり、過去にはシュメール人ウル第三王朝も滅ぼしています。

エラム人は東方のインダス文明とも根深い繋がりがあると考えられています。

滅亡後のカッシート人とその影響

カッシート王国を完全に滅ぼしたエラム人ですが、結局メソポタミアの地に根付く事は出来ずに、バビロニアを放棄する事になりました。

エラム人が去った事で、バビロニアはまたもや空白地となり、群雄割拠状態になります。

バビロンでイシン第二王朝がエラム人を破り、シンボルであるマルドゥク神像を取り戻したという話もあります。

イシン第二王朝が飢饉などによって弱体化すると、再びバビロニアは群雄割拠の状態に陥りました。

その後に続くバビロンの諸王朝は、20年ほどで終わるものや、わずか一代で断絶するものも多く、長期的な安定には至りませんでした。

それでも最終的には、ミタンニ王国の末期でも触れたように、アッシリアが初めてオリエント世界を統一することで、この時代の混乱は収束することになります。

ただ、オリエントを統一したアッシリアも、長続きはしませんでした。

その後のカッシート人は、国は失ってしまいましたが、長年に渡ってバビロンを統治した行政能力を買われたのか、紀元前9世紀頃まで行政の重要な役割を担ったとされています。

国が滅んでもカッシート人は生き続けたのです。

カッシート人のその後

マケドニアの英雄・アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の時代に、アケメネス朝ペルシアの同盟者として登場するカドゥシオイ人は、カッシート人の末裔だと考えられています。

カドゥシオイ人がカッシート人であれば、紀元前4世紀までは確認が出来るという事になります。

余談ではありますが、メソポタミア世界には、名前がよく似ていて紛らわしい民族がいくつか登場します。

バビロン第一王朝を建てたアムル人、シュメールやカッシートを滅ぼした東方のエラム人、そして前1200年のカタストロフによってシリア方面へ移動したアラム人などがその代表です。

いずれも名称が似通っているため、混同しないようご注意ください。

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