エジプト中王国 エジプト第一中間期 古代エジプト

エジプト第11王朝はエジプトを再統一した

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宮下悠史

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名前エジプト第11王朝
時代第一中間期ー中王国時代
コメント第一中間期を終わらせた。

エジプト第11王朝は最初は上エジプトの勢力でしたが、メンチュヘテプ2世の時代にエジプトを再統一しました。

エジプト第11王朝が上エジプトと下エジプトを統一した事で、第一中間期を終わらせ全国政権になったと言えるでしょう。

エジプト中王国時代はエジプト第11王朝から始まる事になります。

建築活動を活発に行うなどしましたが、末期には宰相のアメンエムハト1世の権力が強くなりました。

どの様な経緯があったのかは不明ですが、アメンエムハト1世がエジプト第12王朝の始祖となっており、エジプト第11王朝は終焉しています。

エジプト第11王朝以前

エジプト第11王朝の解説の前に、中王国時代の前の、第一中間期までについて少しだけ振り返ってみます。

古代エジプトではナイル川の周辺に人が集まる様になり、ノモスと呼ばれる都市が形成されました。

ナイル渓谷の上エジプトに22、ナイルデルタの下エジプトには20のノモスが出来ることになります。

紀元前3000年頃、上エジプトにナルメル王が現れ全てのノモスを統一し、エジプト第一王朝が誕生しました。

その後、エジプト第一王朝第二王朝と王朝が変わって行きますが、詳細は明らかになっていません。

エジプト第一王朝、第二王朝をエジプト初期王朝時代と呼びます。

初期王朝時代はピラミッドもスフィンクスも存在しない時代でした。

エジプト第三王朝から第六王朝までがエジプト古王国時代として区分される事が多いようです。

この時代にギザの三大ピラミッドやスフィンクスなど、エジプトの代表的な建造物が作られたと言われています。

エジプト第六王朝の最後の王は、ペピ二世という人物でした。

100歳まで生き、94年(64年ともされる)という長きにわたって在位していたという記録が存在します。

ペピ二世の時代にエジプトの中央集権化は崩壊し、反乱が続出したため、ファラオによって遠征軍が派遣されることもありました。

第6王朝の末期から地方の州侯の力が強大となり、混乱の時代に突入する事になります。

ペピ二世が亡くなるとエジプト第7王朝が誕生しますが、「70日で70人の王が立つ」ほどの混乱の時代であったとされています。

エジプト第7王朝からを第一中間期と呼ぶ事が多いです。

エジプト第8王朝、第9王朝と混乱が続き、最終的に上エジプトのエジプト第11王朝と下エジプトのエジプト第10王朝の戦いとなりました。

この戦いにエジプト第十一王朝が勝利し、エジプトを統一しました。

エジプト第一中間期は紀元前2118年から紀元前1940年までとされていますが、これに関しても意見が分かれています。

こうして、エジプトは中王国時代に突入しました。

エジプト第11王朝

エジプトを再統一したのが、エジプト第十王朝のメンチュヘテプ2世という人物です。

メンチュヘテプ2世はファラオを中心とする中央集権化を推し進めようと考え、建築事業などを活発に行わせました。

それでも、エジプト中王国時代は古王国や新王国の時代に比べると、王権は弱かったとする見方が根強くあります。

しかし、エジプト中王国は国力の増強に努め、文化面だけでなく対外政策にも積極的に取り組んでいました。

リビア人に対して軍事行動を行い、砂漠地帯のオアシスを掌握したほか、南方のヌビアや紅海を越えたプントとの交易も活発化しました。

メンチュヘテプ2世がテーベの西岸ディール・アル・バハリに葬祭殿を作っています。

この葬祭殿は断崖を効果的に使う斬新な手法だと評価されています。

メンチュヘテプ2世の葬祭殿は、ハーワード・カーターの馬が躓いたという偶然がきっかけで発見されたと伝わっています。

岩窟の断崖には王の彫像があったと考えられていますが、既に盗掘されたのか現存していません。

他にも、地中に王の像が12体も埋められていましたが、全て首が切り落とされていました。

何があったのかは不明のままとなっています。

葬祭殿の近くには、戦死と思われる60名ほどの兵士の遺体が埋められた巨大な墓も見つかっています。

メンチュヘテプ2世の後継者であるメンチュヘテプ3世、4世によっても活発に建築事業が行われたようです。

メンチュヘテプという名前には「メンチュ神は満足する」という意味があります。

メンチュヘテプの一族はテーベから約20キロ離れたアルマントの出身であり、メンチュ神はその土地の主神で「戦争の神」でもあります。

メンチュヘテプ2世は「二つの地に心を与える者」「上エジプトの主人」「2つの地の統一者」と即位名を3回も変えた人物として知られています。

上エジプトの主人から2つの地の統一者に変わったことには、勢力拡大が関係していると考えられます。

上エジプトだけでなく、二つの地(上下エジプト)のファラオになったと見る事も出来ます。

メンチュヘテプ2世の王像が神官たちによって担がれ、行列の中で運ばれていく場面が描かれることもあり、
このことから後世に至るまで崇拝の対象として扱われ続けたと考えられています。

メンチュヘテプ3世はルクソールの西岸のターリフ地区の西側にある岩石に自らの王墓と神殿を造営しました。

ルクソールの西岸と言えば、新王国時代の王墓が有名ですが、メンチュヘテプ2世の時代に既に王墓と神殿が造られていたとされています。

メンチュヘテプ3世の治世は短く、メンチュヘテプ4世は王名表に名前がなかった事から未確認でしたが、発掘された容器や石碑などから存在が明らかになりました。

このことを考えると、名前が記録されていないだけで実在していたというファラオは何名もいたのではないかと感じます。

メンチュヘテプ4世は、コプトスと紅海の間にあるワディ・ハンママートに石材を得る為の遠征軍を派遣した記録が残っています。

メンチュヘテプ2世は、自分の石棺を作る為の石材を欲したと考えられています。

がワディ・ハンママートの遠征軍の将となったのが、宰相のアメンエムハト1世でした。

石碑には、1万人の軍隊を率いた宰相のアメンエムハトが王の墓の石棺を調達したと書かれています。

アメンエムハト1世は宰相だけではなく、様々な重職に就任し、自らの権力を強めて行きました。

アメンエムハト1世は、父親がセンウセレト、母親がネフェルトという人物だと言われています。

センウセレトもネフェルトも王家とは繋がりがなかったと伝わっています。

つまり、アメンエムハト1世は王族ではなかったという事になります。

宰相であったはずのアメンエムハト1世は、後にエジプト第12王朝の始祖となります。

しかし、どのような経緯でアメンエムハト1世が王位に就いたのかは分かっていません。

軍事力を頼りにエジプト第11王朝から王位を簒奪した可能性、あるいは
エジプト第11王朝のファラオにより後継者に指名された可能性などが指摘されています。

また、アメンエムハト1世がクーデターを起こし王朝を樹立したという説も存在します。

中央集権化を急いだメンチュヘテプ2世の政策に反発した地方豪族が、地方の豪族がアメンエムハト1世を擁立してエジプト王朝を建国させた、という説もあるようです。

いずれにせよ、第12王朝の成立には不透明な点が多く、その正統性は弱かったと言えます。

エジプト第11王朝のファラオ

統一前

アンテフAーメンチュヘテプ1世ーアンテフ1世ーアンテフ2世ーアンテフ3世

統一後
メンチュヘテプ2世ーメンチュヘテプ3世ーメンチュヘテプ4世

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