イスラム 後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝はイベリア半島に割拠した

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宮下悠史

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名前後ウマイヤ朝
建国から滅亡756年ー1013年
年表929年 カリフを名乗る
コメントイベリア半島に出来たウマイヤ朝の後継国

後ウマイヤ朝はウマイヤ朝が崩壊後に、イベリア半島で建国されました。

アッバース朝から逃亡したアブド・アッラフマーン1世により、建国されています。

後ウマイヤ朝は誕生しましたが、国内は中々治まりませんでした。

それでも、ハフスンの乱が終わった後の西暦929年には、アブド・アッラフマーン3世がカリフを名乗り、国内は安定する事になります。

アブド・アッラフマーン3世とハカム2世の時代が後ウマイヤ朝の全盛期です。

しかし、ハカム2世の死後は再び衰退し、1031年に大臣達によりカリフのヒシャーム3世が退位し後ウマイヤ朝は完全に滅亡しました。

後ウマイヤ朝の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

後ウマイヤ朝初期の不安定さとベルベル人の役割

アッバース革命がおこりウマイヤ朝が打倒され、中東ではアッバース朝が誕生しました。

アッバース朝はウマイヤ朝の領土の大半を引き継ぎますが、ウマイヤ家の王子の一人であるアブド・アッラフマーン1世はイベリア半島に渡る事になります。

イベリア半島に渡ったアブド・アッラフマーン1世は、サラの助けもあり後ウマイヤ朝を建国しました。

しかし、アブド・アッラフマーン1世の歩みは順調ではありませんでした。

後ウマイヤ朝の独立をアッバース朝は容認せず、またアブド・アッラフマーン1世に期待して協力した勢力も多かったため、情勢は不安定でした。

彼の母がベルベル系の出自であったとされることから、アブド・アッラフマーン1世はベルベル人の支持を多く得ていたとも伝えられています。

8世紀初頭にイベリア半島へ渡ったイスラム勢力の多くは北アフリカ出身のベルベル人であったとされています。

ベルベル人の起源については諸説ありますが、古代から地中海沿岸と北アフリカの間で移動・交流を重ねてきた集団であり、古代エジプト王朝の時代にはすでにアフリカ北部に定住していたと考えられています。

その後、彼らは北アフリカの沿岸地帯に広がり、農業や牧畜を営みながら発展しました。

ベルベル人は沿岸部だけでなく、サハラ砂漠のオアシスにも定住し、交易路の維持に重要な役割を果たしました。

北アフリカの沿岸地域は、カルタゴ、ローマ、ヴァンダル、ビザンツ帝国などの支配を受けた時期もあり、地中海交易の拠点として重要視されていました。

一方で、サハラ砂漠の奥地やアトラス山脈の谷間などは、征服しても利益が少ないと見なされ、多くの大国が積極的に支配しようとはしなかったとされています。

ベルベル人はアフロ・アジア語族(セム語派を含む広い語族)の言語を話す集団であり、その名称は、ローマ人が彼らの言語を理解できなかったことから「バルバルス(意味不明の言葉)」と呼んだことに由来するとされます。

この語が後に「ベルベル」という民族名として定着したと考えられています。

それでも、ベルベル人の助けがなければ、後ウマイヤ朝も建国する事は出来なかったはずです。

後ウマイヤ朝とフランク王国

政治的な駆け引き

カール大帝との戦いの前に、後ウマイヤ朝の内部では部族間の対立が起きていた事が分かっています。

こうした部族間の対立に加えて、後ウマイヤ朝と周辺勢力の政治的な駆け引きも複雑化していきました。

各勢力は状況に応じて同盟や離反を繰り返し、合従連衡が盛んに行われたとされています。

その一例として、777年、ピレネー方面にいたサラゴサのイェーメン系首領たちは、アブド・アッラフマーン1世に対抗するため、フランク王国へ支援を求める使節を派遣しました。

当時、フランク王国のカール大帝は北方のサクソン人との戦いに従事していましたが、サラゴサ側の提案を受け、イベリア半島への遠征を構想したと伝えられています。

アッバース朝からもフランク王国に共同で後ウマイヤ朝を攻める様に要請があったとも伝わっています。

カール大帝の出陣

西暦778年、カール大帝は軍を率いてイベリア半島へ進軍しました。

カール大帝はピレネー山脈を超え後ウマイヤ朝の領内に侵入する事になります。

これに対し、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世も行動を起こし、イブン・オベイドにサラゴサ攻撃を命じましたが、敗北したとされています。

オベイドを退けたサラゴサの首領フサインは、その後フランク王国への協力を拒否し、態度を翻しました。

カール大帝がサラゴサに到着した際、フサインは降伏を拒み、城は包囲されました。

フサインは捕虜となっていたオベイドの解放や黄金の提供によってフランク軍を撤退させようと試みましたが、交渉は成立しませんでした。

カール大帝がサラゴサに到着した際、フサインは降伏を拒み、城は包囲されました。

フサインは捕虜となっていたオベイドの解放や黄金の提供によってフランク軍を撤退させようと試みましたが、交渉は成立しませんでした。

フランク王国軍の撤退

フランク軍は約1か月にわたり包囲を続けましたが、兵力の消耗が大きく、さらにアッバース朝軍の接近や北方のサクソン人の動きが不穏であるとの報告もあり、最終的にサラゴサと休戦協定を結んで撤退することになりました。

ただし、最終的にサラゴサはフランク王国に大量の黄金を支払い、フランク王国の方でも北方のサクソン人の反乱もあり、カール大帝は講和し撤退に移る事になります。

後ウマイヤ朝は何とかカール大帝に帰って貰った事になるでしょう。

尚、カール大帝はフランク王国に戻りますが、途中でバスク人の攻撃を受けて、ロンスヴォーの戦いでは多くの物資を失った話があります。

フランク領へのモサラベ移住と宗教的緊張

その後もカール大帝はピレネー南部への遠征を試みましたが、多忙であったため、イベリア方面の統治は息子のルートヴィヒ1世に委ねられました。

こうした行動を見ると、カール大帝はイベリア半島の後ウマイヤ朝の制圧を諦めたわけでも無かったのでしょう。

ルートヴィヒ1世は敬虔なカトリック教徒であり、新たに支配下に入った地域で宗教的一体化を進めようとしたとされています。

後ウマイヤ朝では宗教には寛容でしたが、ルートヴィヒ1世は反対の政策を行おうとしたと言えます。

カタルーニャやアラゴンの山岳地帯には、イスラーム勢力の支配を受けていないキリスト教勢力が残存しており、これがフランク王国の南方政策を支える基盤となりました。

また、イベリア半島南部からは、イスラームに改宗せずキリスト教を保持していた人々(モサラベ)がフランク領へ移住してきました。

彼らはイスラーム社会の中で生活していたため、北方のキリスト教徒とは宗教観や社会経験に違いが生じていました。

フランク王国の将校にとって、イスラーム勢力は軍事的な敵対者として認識されていましたが、モサラベの人々にとっては、イスラーム教徒の中にも友人や信頼できる隣人が存在していました。

そのため、モサラベの一部には、宗教的対立よりも共存の可能性を重視する立場が生まれ、「セクト」と呼ばれる独自の宗教的潮流が支持を集めました。

しかし、フランク王国側から見ると、こうした立場は正統な教義から逸脱したものとみなされ、カール大帝やルートヴィヒ1世は宗教会議を通じてこれらのセクトを異端として禁止しました。

マーリク学派の台頭とコルドバ社会の緊張

カール大帝が神聖ローマ皇帝に任命された頃、後ウマイヤ朝ではアブド・アッラフマーン1世の孫にあたるハカム1世の治世に入っていました。

ハカム1世は王権の強化と統治体制の安定化を進めようとしていましたが、その過程で宗教的権威との関係が大きな課題となりました。

当時、アラビア南部出身の著名な法学者マーリクの弟子たちがイベリア半島に到来し、マーリク学派の法解釈を広めました。

彼らはコーランやハディースの規定に厳格に従う姿勢を強調し、宗教的規範に反するとみなした行為を積極的に批判したと伝えられています。

その対象は一般の信徒だけでなく、王や高官に及ぶこともあり、こうした厳格な姿勢は庶民の支持を集めたとされています。

マーリク学派の法学者たちは、社会問題が発生した際に人々から意見を求められることが多く、コルドバでは宗教的権威として大きな影響力を持つようになりました。

一部の伝承では、政治的判断においても王より法学者の意見が重視される場面があったと記されています。

当時のコルドバは、多様な民族・言語・宗教が共存する大都市であり、社会的背景や価値観の違いから摩擦が生じやすい環境にありました。

こうした複雑な社会構造の中で、宗教的権威を持つ法学者たちの役割は一層大きくなり、彼らの判断が社会秩序の維持に重要な位置を占めるようになったと考えられています。

この時期のコルドバ社会には、宗教・出自・改宗の時期などに基づく複数の社会階層が存在していました。

最上位にはイスラーム教徒が位置づけられましたが、その内部でもアラブ系、ベルベル系、そして征服後に改宗した人々(ムワッラド)といった複数の集団が区別されていたとされています。

イスラーム教徒の下位には、キリスト教徒やユダヤ教徒などの「啓典の民」が位置づけられました。

彼らはジズヤ(人頭税)などの追加的な税負担を課されていましたが、その代わりに宗教的自治が認められ、自らの教会やシナゴーグで従来の礼拝を続けることが許されていました。

これは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームがいずれも旧約聖書の伝統を共有する「啓典の宗教」とみなされていたためです。

一方、同時期の西ヨーロッパのカトリック圏では、宗教的一体性を重視する傾向が強く、異端とみなされた宗派や教義に対して厳しい対応が取られることがありました。

ただし、これは「イスラム教の方がキリスト教よりも寛容」などということではなく、それぞれの地域が持つ政治構造・法体系・社会状況の違いによるものと理解するべきでしょう。

奴隷兵の役割と818年の事件

後ウマイヤ朝の社会構造の中で特異な位置を占めていたのが、王の護衛を務めた黒人やスラヴ系出身の奴隷兵でした。

地中海世界では、権力者が身近な有力者を警戒し、政治的に中立な遠隔地出身者を護衛として登用する例が多く見られます。

後ウマイヤ朝でも同様に、外部出身の奴隷兵が親衛隊として重用されました。

ローマ帝国末期以降、スラヴ系住民は地中海世界の奴隷供給地の一つとなり、西欧諸語において「スラヴ人」を指す語が「奴隷」を意味する語と結びついたとされています。

ハカム1世の治世である818年には親衛隊と民衆が揉め、民衆たちが王宮に迫った事で、ハカム1世は軍を使って鎮圧した話があります。

後ウマイヤ朝のハカム1世の治世では、反乱もあり手を焼いた話が残っています。

モサラベ殉教者運動と宗教的緊張の高まり

後ウマイヤ朝のコルドバの818年事件から約30年が経過すると、後ウマイヤ朝の領内では新たな宗教的緊張が生じました。

この時期に台頭したのはイスラーム教徒ではなく、モサラベ(イスラームに改宗しなかったキリスト教徒)の一部に属する指導者層でした。

中心人物とされるのが、聖職者エウロヒオ(Eulogius)です。

彼は、イスラーム支配下で生活するモサラベ共同体の宗教的自覚を促し、信仰の保持を強く訴えたと伝えられています。

当時、後ウマイヤ朝では宗教政策が時期によって変化し、一部の時代には改宗圧力が強まったと記録されています。

エウロヒオの影響を受けた一部の信徒は、公の場でイスラームの預言者ムハンマドを侮辱する発言を行い、イスラーム教義を否定する行動に出たとされています。

こうした行為は当時の法制度では重大な罪とみなされ、処刑されることを彼ら自身が理解していたと考えられています。

そのため、これらの行動は後世の史料で「殉教」を志向した運動として描かれています。

ただし、モサラベ共同体全体がこの運動を支持していたわけではなく、多くの信徒は挑発的な行動に反対し、地域社会の安定を重視していたと伝えられています。

それでも、エウロヒオの影響下にあった一部の集団は活動を続け、殉教者とされる人々の数は増加しました。

最終的に、エウロヒオ自身も859年に処刑され、この運動は次第に沈静化したとされています。

ハフスンの乱

ハフスンの台頭

880年代のイベリア半島で、ハフスンが乱を起こしました。

ハフスンの経歴は、当時のイベリア半島の社会構造を理解するうえで興味深い事例です。

スペインといえば現代では闘牛やフラメンコが広く知られていますが、イスラム期のイベリア半島の文化的背景は一般にはあまり意識されていません。

闘牛(トーロ)には地中海世界の古い神話的伝統が関係しているとされますが、フラメンコの語源については諸説あり、確定した見解はありません。

その一説として、イスラーム期の農村社会において、地主層と農民層の格差が大きく、生活に困窮した人々が山岳地帯へ逃れたことが背景にあるとする説があります。

逃亡者を指す語として「フラーメンガ」が用いられ、これがフラメンコの語源とする説もありますが、学術的には確証がなく、慎重な扱いが必要です。

イベリア半島南部の山岳地帯、特にロンダ周辺は険しい地形で、中央政権の統制が及びにくい地域でした。

この地域は逃亡者や自立的な集団が活動する場となり、地元の伝承では「ロンダは追われた者の隠れ場所」として語られることもあります。

また、ロンダの南にはジブラルタル海峡とアルヘシーラス港があり、地中海交易の要衝であったため、一部の集団が密貿易や非合法な取引に関与したとする記録も残っています。

こうした山岳地帯の自立的集団の中に、後に反乱指導者となるオマール・イブン・ハフスンがいました。

ハフスンはムワッラド(改宗者)の出身で、比較的裕福な家庭に生まれたとされています。

若い頃に事件を起こして故郷を離れ、北アフリカで生活した後、後ウマイヤ朝の領内のイベリア半島に戻ったと伝えられています。

帰還後、ハフスンは親族の支援を受け、ボバストロの山頂にあるローマ時代の城跡を拠点として修復し、勢力を拡大しました。

彼のもとには、貧農、奴隷、逃亡者など、社会的に周縁化された人々が集まり、次第に共同体としての性格を帯びるようになりました。

この集団は後にムワッラドやモサラベの支持を得て、後ウマイヤ朝に対する長期的な反乱勢力へと成長していきました。

後ウマイヤ朝の苦戦

後ウマイヤ朝に対し乱を起こしたハフスンですが、統治した地域は非常に安定したと伝わっています。

反乱軍と言えば、乱暴者の集まりを連想するかも知れませんが、ハフスンが治めた地域は非常に治安がよかった話もあり、史家などもハフスンの統治には一定の評価を与えている状態です。

ベルベル人の有力者やアラブの名門であっても、ハフスンに味方したりもしており、後ウマイヤ朝の重要人物であるセビージャの有力者であるイブン・ハッジャージもハフスンに与しました。

イブン・ハッジャージは、後ウマイヤ朝の創始者アブド・アッラフマーン1世をかつて支援した西ゴート王家の女性サラの子孫とされ、そのような家系の人物が反乱勢力と結んだことは、当時の政治状況の流動性を示すものといえます。

通常であれば、後ウマイヤ朝はセビージャの動きに対して軍を派遣したと考えられますが、この時期の政権にはその余力がありませんでした。

ハフスン勢力が南部で勢力を拡大し、もしコルドバに迫るような事態になれば政権の存続が危ぶまれる状況だったため、後ウマイヤ朝は首都防衛を優先せざるを得ませんでした。

その結果、セビージャの動きに対しては実質的に不干渉の状態となりました。

後ウマイヤ朝は明らかに苦戦していました。

後ウマイヤ朝の勝利

後ウマイヤ朝では912年にアブド・アッラフマーン3世が即位しますが、この頃になるとハフスンの戦略も乱れが生じ隙が生まれる事になります。

ハフスンの兵士も後ウマイヤ朝と30年近く戦い続けましたが、決着はつかず厭戦気分も広がったりしています。

北方ではキリスト教の勢力が盛んになり、後ウマイヤ朝の北部を揺るがす様な状況になっており、こうした中でハフスンはキリスト教に改宗しました。

ハフスンは北部のキリスト教国の助けを得ようとしたと考えられますが、ハフスンの政権を支えていたアラブ人やベルベル人の求心力を失う結果となります。

後ウマイヤ朝はハフスンに対して戦いを有利に進められる様になり、912年にはハフスンも亡くなりました。

928年には後ウマイヤ朝はハフスンの乱を完全平定しています。

後ウマイヤ朝がハフスン勢力に苦しめられていた時期、914年にはアストゥリアス王国がレオンへ遷都し、以後はレオン王国として知られるようになりました。

後ウマイヤ朝のカリフ宣言

アブド・アッラフマーン3世ハフスン勢力を平定したことで、北方のキリスト教勢力との対抗に専念できるようになり、領土の再確保と政権の安定化を進めました。

これによりコルドバの政治・経済状況は改善し、都市文化の発展が促進されたとされています。

ハフスンの後継者たちを制圧した翌年、アブド・アッラフマーン3世は自身の称号をアミール(総督・君主)からカリフへと改めました。

これは、後ウマイヤ朝がバグダードのアッバース朝から政治的にも宗教的にも独立したことを明確に示すものでした。

当時、北アフリカのファーティマ朝も独自にカリフを称しており、アッバース朝・ファーティマ朝・後ウマイヤ朝の三勢力がそれぞれカリフを名乗る状況となりました。

ただし、この時期のアッバース朝はすでに全盛期を過ぎており、実質的な権威は限定的であったと考えられています。

それでも天下に三人のカリフが登場したのであり、アッバース朝を東カリフ、ファーティマ朝を中カリフ、後ウマイヤ朝を西カリフと呼んだりもしています。

後ウマイヤ朝の文化的自立とバグダードからの離脱

アブド・アッラフマーン3世の時代になると、後ウマイヤ朝内部では文化的意識に変化が生じたとされています。

それまで後ウマイヤ朝の上層部は、学問・芸術・生活様式・料理・服飾に至るまで、バグダードを中心とするアッバース朝文化を手本としていました。

後ウマイヤ朝はアッバース朝の支配から逃れて成立した政権でありながら、文化面ではバグダードを参照する傾向が強かったのです。

しかし、アブド・アッラフマーン3世がカリフを称した頃から、後ウマイヤ朝は独自の文化を形成し始めたとされています。

この時期、アッバース朝の政治的混乱によりバグダードの影響力が低下し、知識人が地方へ移動する動きが強まりました。

その結果、イベリア半島に移住した学者や文人が後ウマイヤ朝の文化的発展を後押ししたと考えられています。

アブド・アッラフマーン3世は、コルドバ郊外にザフラー宮殿(メディナ・アサ―ラ)と呼ばれる大規模な離宮を建設しました。

この宮殿は、寵姫を記念して建てられたとする伝承もあります。

工事には毎日1万人の労働者が動員され、ラバやラクダが多数使役されたと記録されています。

外交儀礼の中心化と学問都市コルドバの形成

後ウマイヤ朝のザフラー宮殿の完成後、宮殿は外交儀礼の中心として用いられ、諸国の使節がここで接待を受けました。

記録によれば、神聖ローマ皇帝を目指していたオットー1世の使節、ガリシア王国の王族、ナバラ王国の女王などがザフラー宮殿を訪れ、援助や仲裁を求めたとされています。

こうした事例は、当時の後ウマイヤ朝カリフの国際的な権威の高さを示すものであると言えます。

また、文人や学者もイベリア半島に集まりました。

この時期のイベリア半島では、古代ギリシアの哲学・自然科学・医学などが積極的に受容され、翻訳活動も盛んになりました。

こうした文化的蓄積は、後世のヨーロッパにおける学問の発展や技術の伝播に影響を与えたと考えられています。

現在のスペインには、後ウマイヤ朝時代の建築物が多く残されており、その独特の建築様式は、他のヨーロッパ地域とは異なる文化的特徴を示しています。

アブド・アッラフマーン3世ハカム2世の時代が、後ウマイヤ朝の全盛期だと言ってもよいでしょう。

社会的上昇の可能性

後ウマイヤ朝の経済活動の中で、ユダヤ人商人が重要な役割を果たしたとする史料もあります。

彼らは多言語能力を持ち、キリスト教世界とイスラーム世界の双方と関係を築きやすかったため、国際交易において一定の地位を占めていました。

ただし、特定の集団を「交易に不可欠」と断定するのは慎重であるべきで、奴隷売買に関する記録も地域や時期により異なります。

後ウマイヤ朝では、アブド・アッラフマーン3世の時代に貴族勢力を抑制するため、解放奴隷や非アラブ系の人々を官僚として登用する政策が取られました。

宮廷の高官の中には奴隷出身者もおり、社会的上昇の可能性が一定程度存在していたことがうかがえます。

アブド・アッラフマーン3世の寵姫も奴隷出身であったと伝えられています。

内部の混乱、そして後ウマイヤ朝の崩壊

ハカム2世が亡くなると、後ウマイヤ朝は急速に不安定化していきました。

後継者ヒシャーム2世が幼少であったため、実際の政治は将軍アルマンゾールが担うことになりました。

アルマンゾールは強力な政治権力を掌握し、専制的な統治を行ったとされています。

軍事面では、アルマンゾールは北方のキリスト教勢力に対して多数の遠征を行い、多くの戦闘で勝利を収めました。

一方で、国内では反対派を厳しく抑圧し、一部の文献では図書館の蔵書を焼却したと伝えられています。

アルマンゾールの統治期間中は大規模な反乱は起きませんでしたが、強力な統制の裏で社会的緊張が蓄積していったと考えられています。

アルマンゾールの死後、その子が権力を継承しましたが、やがてウマイヤ家のカリフが再び政治的主導権を取り戻しました。

しかし、ウマイヤ家内部でも対立が生じ、ムハンマド2世とスレイマンがカリフ位を争う事態となりました。

スレイマンは北方のキリスト教勢力と同盟し、ムハンマド2世に勝利してカリフ位を得ました。

この頃には、後ウマイヤ朝の実効支配はコルドバ周辺に限定されていたとされています。

政権内部の混乱が続いたことで、地方の貴族や総督が次々に独立的な行動を取り、中央の統制力が弱まったためです。

後ウマイヤ朝の混乱は深刻で、29年間に10人のカリフが交代したと記録されています。

こうした状況の中、北アフリカで勢力を拡大していたハムド朝(ハンムード家)がイベリア半島に侵入し、1016年にスレイマンを殺害してカリフ位を奪いました。

ハンムード家はウマイヤ家の血統ではなかったため、その後ウマイヤ家が再びカリフ位を奪還する動きが起こりましたが、政権の混乱は収まりませんでした。

最終的に、1031年に最後のカリフ、ヒシャーム3世が大臣たちの「評議会」によって廃位され、後ウマイヤ朝は正式に終焉を迎えました。

その後、イベリア半島には「タイファ」と呼ばれる多数の小王国が乱立し、相互に対立する時代へと移行しました。

後ウマイヤ朝崩壊後の世界

後ウマイヤ朝が1031年に崩壊すると、イベリア半島には「タイファ」と呼ばれる多数の小王国が分立し、政治的に不安定な状況が生まれました。

イスラーム勢力が統一政権を失ったことで、北部のキリスト教諸国にとっては南方へ進出する機会が広がったと考えられています。

この時期、キリスト教勢力は徐々に南下し、やがて西ゴート王国の旧都であったトレドを奪回することになります(1085年)。

トレドの占領は象徴的な意味を持ち、キリスト教側の支配がイベリア半島中央部にまで及んだことを示しました。

また、この時代にカスティーリャ王国のアルフォンソ6世は、自らを「二つの宗教(キリスト教とイスラーム)の皇帝」と称し、キリスト教勢力がイベリア半島全体に対して政治的・宗教的な主導権を主張し始めたことがうかがえます。

こうして、レコンキスタは後ウマイヤ朝の崩壊を契機に新たな段階へと移行し、複数のキリスト教王国がそれぞれの利害に基づいて南方への進出を進める時代に入っていきました。

後ウマイヤ朝の歴代君主

アミール時代

アブド・アッラフマーン1世

・ヒシャーム1世

ハカム1世

・アブド・アッラフマーン2世

・ムハンマド1世

・ムンジル

・アブド・アッラー

カリフ時代

アブド・アッラフマーン3世

ハカム2世

・ヒシャーム2世

・ムハンマド2世

・スレイマン

・ヒシャーム2世

・アブド・アッラフマーン4世

ハンムード朝

・アリー・イブン・ハンムード・アル=ナースィル

・カースィム・マアムーン・ブン・ハンムード

・ヤフヤー・アル=ムタリ

・カースィム・マアムーン・ブン・ハンムード

後ウマイヤ朝(再興)

・アブド・アッラフマーン5世

・ムハンマド3世

空位時代(ハンムード朝)

・ヤフヤー・アル=ムタリ

後ウマイヤ朝(再興)

・ヒシャーム3世

後ウマイヤ朝の動画

後ウマイヤ朝を題材にしたゆっくり解説動画となっています。

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