
| 名前 | 鮮卑 |
| コメント | 匈奴が衰えると勢力を拡大させた |
鮮卑は北方で匈奴が衰えた時に、盛んに勢力を伸ばしました。
後漢の時代に檀石槐が登場すると、鮮卑を纏め上げ強力な勢力となります。
檀石槐の死後に鮮卑は纏まりが悪くなりますが、三国志の時代に軻比能が奮戦し、西晋に対し禿髪樹機能が大反乱を起こしました。
西晋が八王の乱により崩壊し、五胡十六国時代になると鮮卑は前燕・後燕・南燕・南涼・西秦などの国を建てています。
北魏や随、唐などは鮮卑拓跋部の国であり、五胡十六国の勝者になったのも鮮卑だと言えるでしょう。
尚、鮮卑の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
鮮卑とは何者か
北斉の魏収が編纂した『魏書』巻一には、黄帝の孫が北方に封じられ、大鮮卑山を見て「鮮卑」を名乗ったという伝承が記されています。
『魏書』は北魏の鮮卑拓跋部の歴史を中心にまとめた全130巻の史書で、六世紀中頃に成立したと考えられています。
黄帝の孫が鮮卑の祖であるという話は、史実かどうかは別として、文献上に現れる鮮卑の最古の起源伝承とみなすことができます。
ただし、これは北魏の支配層が中華文明に自らを接続するため、黄帝神話を取り入れた結果と考えられています。
古代中国の北方遊牧民といえば匈奴が最も有名ですが、北方には匈奴のほかに東胡・楼煩など複数の勢力が存在していました。
中華諸国は長年これら北方勢力に悩まされ、戦国時代には趙の武霊王が胡服騎射を導入し、李牧は匈奴だけでなく東胡・林胡を破り、襜褸族を滅ぼしています。
鮮卑はこの東胡と深い関係があると考えられています。
秦の始皇帝は蒙恬に北方遠征を命じ、万里の長城を築かせましたが、これも匈奴や東胡など北方遊牧民への対策でした。
その後、中国では秦が滅び楚漢戦争が起こりますが、同じ頃北方では匈奴の冒頓単于が東胡を急襲し、大敗させました。
この敗北により、東胡の一部が鮮卑山と烏丸山へ逃れ、そこから鮮卑族と烏丸族が誕生したとされています。
『正史三国志』の注釈では、鮮卑と烏丸は言語・風習が同じであったと記録されています。
『正史三国志』注によれば、鮮卑は馬・牛・羊を飼育し、狩猟も行っていました。
テン(貂)の毛皮は重要な交易品であり、農耕民との間で毛皮と穀物・生活用品を交換していたとされています。
遊牧民は穀物を自給できないため、農耕民との交易は生活の基盤でした。
また、鮮卑には辮髪(髪を編む)という特徴的な風習があったことも記録されています。
「鮮卑」という名称の語源については諸説あります。
一つの説では、「鮮」は人口が少ないことを指し、「卑」は文字通り「卑しい」という意味で、中華側が外族を蔑視してつけた名称だとするものがあります。
鮮卑は拓跋部・慕容部など多くの部族に分かれていたイメージがありますが、本来は人口が少ない小規模な集団だったと考えられています。
別の説では、匈奴や突厥と同様に、鮮卑という名称は本来の発音に漢字を当てたものであり、満州語で吉兆・霊異のある者を「センピ」と呼ぶことから、霊威のある獣の飾りをつけた者を「鮮卑」と呼ぶようになったとする説もあります。
ちなみに、匈奴の王が「単于」と呼ばれるのに対し、鮮卑の王は「大人(たいじん)」と呼ばれていました。
この呼称の違いは、鮮卑が匈奴とは異なる政治文化を持っていたことを示しています。
匈奴の衰退と鮮卑の台頭
冒頓単于の時代から話を進めると、冒頓単于は白登山の戦いで前漢の劉邦を包囲し、劉邦は匈奴との和睦のために毎年多額の歳幣を支払うことになりました。
この歳幣を基盤として、冒頓単于は北方に強大な帝国を築き上げました。
匈奴が最盛期を迎えると、鮮卑は匈奴を警戒して勢力争いを避けていたと『正史三国志』の注釈・魏書は記しています。
そのため、この時代の鮮卑については中国側の記録が少なく、歴史の表舞台にはあまり登場しません。
ただし、同じ東胡系である烏丸とは交流が続いていたことが分かっています。
その後、匈奴は前漢との戦いを経て弱体化し、ついには南北に分裂しました。
南匈奴は後漢に降伏し、北匈奴は西方へ移動してフン族になったという説もあります(確定ではないが有力な仮説)。
匈奴の衰退に乗じて、鮮卑は勢力を拡大していきました。
鮮卑の大人・於仇賁(おきゅうほん)は後漢の光武帝の時代である西暦54年に朝貢を行い、後漢は彼を王に封じています。
当時、周辺民族が朝貢すると、中華王朝から莫大な返礼品を受け取ることができたため、朝貢は政治的・経済的に大きな利益をもたらしました。
鮮卑と後漢の関係
後漢の明帝の時代には、遼東太守の祭肜(さいよう)が鮮卑を利用して烏丸の欽志賁を討伐しています。
この際、鮮卑の大人たちが遼東郡の役所を訪れ、恩賞を受け取ったという記録があります。
このことから、鮮卑は言語や風習が共通していても、統一された国家ではなく、複数の有力部族が割拠する連合体的な構造だったと考えられています。
中央集権的な匈奴とは異なり、鮮卑は部族ごとの独立性が強かったのです。
後漢は鮮卑との関係維持のため、青州と徐州に鮮卑へ銭を配る役割を負わせていました。
その額は2億7千万銭とされ、非常に大きな負担でした。
これは、鮮卑が後漢にとって無視できない勢力となっていたことを示しています。
後漢の和帝の時代になると、鮮卑大都護の校尉である蘇抜廆(そばつかい)が、護烏桓校尉の任尚と協力し、南匈奴の反乱勢力を討伐しました。
蘇抜廆はその功績により「率衆王」に封じられています。
この記録を見る限り、当時の鮮卑と後漢王朝の関係は比較的良好であったように見えます。
しかし、西暦106年になると鮮卑は突如として漁陽を攻撃し、漁陽太守の張顕を討ち取っています。
その理由は史料上明確ではありませんが、鮮卑内部の権力争いや後漢側の対応への不満が背景にあった可能性があります。
後漢の安帝の時代には、鮮卑の大人・燕茘陽(えんれいよう)が入朝し、後漢から鮮卑王の称号と印綬を授けられています。
後漢は鮮卑対策を進めていましたが、鮮卑側も状況に応じて服従と反乱を繰り返していました。
その後、鮮卑の約9千の軍勢が後漢領内に侵入し、城や馬城の砦を破っています。
後漢は鄧遵(とうじゅん)と馬続(ばぞく)を派遣してこれを撃退し、鮮卑の大人・烏倫(うりん)や其至鞬(きしけん)は後漢に降伏しました。
しかし、其至鞬は後に再び反乱を起こし、後漢は耿夔(こうき)に鎮圧を命じています。
さらに其至鞬は南匈奴を攻撃し、左薁鞬日逐王を討ち取ったとされます。
この頃には、鮮卑の強大化と匈奴の弱体化が同時に進行していたと考えられます。
鮮卑と後漢の対立
『後漢書』には、鮮卑が連年のように後漢領内を荒らしたという記録があります。
ただし、其至鞬が死ぬと一時的に侵攻は収まったとされています。
後漢の順帝の時代になると、鮮卑は再び長城内へ侵入し、代郡太守を殺害しました。
後漢は事態の重大さを認識し、北方で軍事訓練を行ったうえで南匈奴軍と協力し、鮮卑を攻撃しました。
この戦いで後漢は鮮卑を追い払うことに成功しています。
しかし、北方遊牧民は敗北すると北へ逃亡することが可能であったため、完全に滅ぼすことは難しかったとされています。
後に後漢の耿曄(こうよう)が鮮卑の戎末廆(じゅうまつかい)と協力し、鮮卑の首領格を多数討ち取ったことで、鮮卑は降伏を申し入れました。
もっとも、鮮卑は部族ごとの独立性が強く、後漢に降伏した部族があっても、他の部族が再び侵攻することは珍しくありませんでした。
また、遊牧民は広大な草原地帯へ容易に退避できるため、後漢側が完全に制圧することは困難でした。
北匈奴は後漢に降伏せず滅亡しましたが、その一部は遼東郡で漢人と共に暮らし、「自分たちは鮮卑兵である」と述べていたと記録されています。
この頃には、鮮卑が北方の支配者として台頭していたことが分かります。
中国側の史料では、鮮卑は「遼東鮮卑」「遼西鮮卑」「代郡鮮卑」などと地域ごとに呼ばれていましたが、この時代にはまだ統一された鮮卑国家は存在せず、複数の部族が独立して割拠していました。
檀石槐と鮮卑族の統一
鮮卑族の中から檀石槐が出ると一気に勢力を拡大し、鮮卑族を纏め挙げる事になります。
檀石槐は北方の大部分を支配しました。
『正史三国志』注の魏書には、檀石槐の勢力について次のような記述があります。
※正史三国志注釈魏書より
檀石槐の兵馬の勢いは盛んであり、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令を阻み、東では夫余を撃退し、西では烏孫に攻撃を仕掛けた。
もとより匈奴の土地をわがものとし、東西一万二千余里、南北七千余里に及ぶ広大な領域を支配した。
檀石槐以前の鮮卑には複数の大人(たいじん)が存在し、鮮卑全体を統一する指導者はいなかったとされています。
そのため、檀石槐は史料上確認できる範囲では、鮮卑諸部を最も広範囲にまとめた最初の指導者と評価されています。
冒頓単于が匈奴王家の出身であったのに対し、檀石槐は鮮卑の中で特定の王統に属していたわけではありません。
鮮卑は自らの歴史を文字で残さなかったため、檀石槐がどのように勢力を拡大したのか、詳細は不明です。
ただし、周辺部族から強い支持を得たことは確実とされています。
汗人の攻撃と 「鮮卑が倭国大乱を引き起こした」説
鮮卑は勢力拡大に伴い周辺部族を吸収しましたが、人口増加により食糧不足が深刻化していました。
檀石槐の時代に鮮卑は強大にはなりましたが、それでも食糧不足に悩んでいた話があります。
鮮卑が食糧不足に陥る原因は、略奪によって人々が集まるほど、食糧需要が増えるという構造的問題があったためです。
檀石槐は烏侯秦水(うこうしんすい)周辺で魚を得ることで食糧問題を緩和できると考えましたが、鮮卑は漁労に慣れておらず、十分な成果を上げられませんでした。
そこで檀石槐は、魚を獲る技術に長けたとされる汗人を攻撃し、千余家を得て烏侯秦水付近に移住させ、漁労に従事させたと記録されています。
汗人については、朝鮮半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の人々、倭人(日本列島の住民)など諸説がありますが、確定的な説はありません。
当時、朝鮮半島南部には倭系の集落が存在したとする考古学的見解もあり、大陸側に倭系集団が居住していた可能性も指摘されていますが、いずれも断定はできません。
一部には、鮮卑の東方遠征が倭国大乱(後漢書東夷伝に記録)と関連するという説もあります。
確かに年代はおおむね重なりますが、この説を支持する専門家はほとんどおらず、史料的根拠も乏しいとされています。
そのため、現時点では「可能性として提起された仮説」にとどまります。
鮮卑の弱体化

檀石槐の死後に和連が立ちますが、189年に後漢王朝との戦いで戦死しました。
和連の死後、後継者とされた子の騫曼はまだ幼く、兄の子である魁頭が代わって指導者となりました。
この交代が鮮卑内部の政治状況にどのような影響を与えたかについて、史料は詳細を伝えていません。
ただし、檀石槐の死後、鮮卑が離散しています。
このことから、指導体制が安定しなかった可能性は考えられます。
しかし、後継者間の関係や内部対立の具体的な経緯については、史料が限られているため断定はできません。
それでも、檀石槐の死後に鮮卑の纏まりが悪くなったのは事実なのでしょう。
鮮卑と三国志
軻比能の戦い
魁頭が鮮卑の長となりますが、後に騫曼と対立する事になります。
しかし、騫曼は鮮卑の魁頭に勝つ事は出来なかった様であり、後継者は歩度根となりました。
既に三国志の時代に入っていましたが、檀石槐の子孫の求心力が低下する中で、人望を集めたのが軻比能となります。
軻比能は公平で武略に優れ求心力を集めたと言います。
軻比能と歩度根は共に曹操に降伏した事もありましたが、内部で争ったりもしました。
鮮卑の内部の戦いでは歩度根が有利に戦いを進めています。
この当時の鮮卑は曹操及び魏に対し協力したり、反旗を翻す様な行動もしています。
軻比能は田豫への不信感から最終的に魏と距離を取る様になり、歩度根と協力体制を築こうとしました。
しかし、軻比能は歩度根を後に処刑しています。
軻比能は後に王雄の配下の韓龍に暗殺されました。
軻比能が亡くなると鮮卑族は、さらに弱体化が進んだ話があります。
禿髪樹機能の反乱
三国時代には戦乱と疫病により人口が減少し、魏の鄧艾は西方地域の開発政策の一環として、鮮卑の一部を魏領内に移住させたと記録されています。
蜀や呉でも人口確保のために各種の移住政策が行われました。
263年には、蜀の劉禅が鄧艾に降伏し、蜀漢は滅亡しました。
魏ではすでに司馬氏が実権を握っており、265年、司馬炎が禅譲を受けて西晋を建国しました。
西晋は呉を滅ぼすことで統一を目指していましたが、270年、鮮卑の禿髪樹機能が反乱を起こしました。
禿髪樹機能は胡烈や牽弘らを戦死させ、涼州で大きな軍事的影響力を示したと伝えられています。
司馬炎は禿髪樹機能を強敵と見なしていたとされます。
また、呉征伐で活躍する杜預も、この反乱の鎮圧には慎重であったと記録されています。
この時、諸葛亮の兵法を研究していた馬隆が討伐を申し出て、禿髪樹機能の乱を平定しました。
馬隆が鉄甲と磁石を利用したという逸話も伝わるが、その詳細は史料によって異なります。
五胡十六国時代の始まり
西晋は呉を滅ぼして統一を達成しましたが、司馬炎の晩年には政治的混乱が深まり、恵帝の時代に八王の乱が勃発しました。
この内乱では諸王が兵力補充のために異民族勢力を動員したこともあり、中原は大きく混乱したと考えられています。
この混乱の中で五胡十六国時代が始まりました。
「五胡」とは鮮卑・匈奴・羯・羌・氐の五つの集団を指します。
315年、西晋の愍帝は鮮卑拓跋部の拓跋猗盧を代王に封じましたが、翌年、西晋は滅亡しました。
五胡十六国時代には、前燕・後燕・南燕・南涼・西秦など、鮮卑系の諸勢力が建国した国家が複数存在しました。
また、西燕や代も鮮卑系勢力による政権ですが、五胡十六国に含めるかどうかは研究によって異なります。
最終的に、この時代を終結させたのは、代を前身とする北魏であり、鮮卑拓跋部が北方の主要勢力として台頭しました。
因みに、統一政権となる随や唐も鮮卑拓跋部の一族です。
鮮卑の動画
鮮卑のゆっくり解説動画となっています。
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