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ナバラ王国はイベリア半島の北で一時的に強勢を誇った

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宮下悠史

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名前ナバラ王国
場所イベリア半島
コメントバスク人が建国した国

ナバラ王国はバスク人により建国されました。

パンプローナ王国と呼ばれる事もあります。

サンチョ大王の時代にナバラ王国は全盛期を迎え、レオン王国も保護国化しました。

しかし、サンチョ大王が亡くなると息子たちで分割統治を行いますが、争いもあり勢力を伸ばしたのはカスティーリャ王国でした。

ナバラ王国は弱体化し一時的に姿を消すなどもありましたが、復活しました。

しかし、あくまでもイベリア半島の小国に過ぎず、最終的にはカスティーリャ王国に組み込まれて滅亡しています。

尚、ナバラ王国の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

ナバラ王国成立前のイベリア半島

現在のスペイン北部に位置するイベリア半島は、711年以降、ウマイヤ朝の軍事行動により急速に征服が進みました。

この頃はまだバスク人は国を建国しておらず、ナバラ王国は誕生していない状態です。

当時、半島にはキリスト教王国である西ゴート王国が存在していましたが、グアダレーテ河畔の戦いで西ゴート軍は敗れ、王国は短期間で崩壊しました。

ウマイヤ朝の将軍ムーサターリクの進軍により、イベリア半島の大部分がイスラーム勢力の支配下に入りました。

その中で、西ゴート貴族ペラヨが北部山岳地帯で抵抗を続け、コバドンガの戦いを経てアストゥリアス王国を建国したと伝えられています。

建国当初のアストゥリアス王国は小規模であったと考えられています。

一方、ナバラ王国の基盤となるバスク人の集団は、アストゥリアス王国成立以前からピレネー山脈周辺に居住していました。

8世紀から9世紀にかけて、ピレネー山脈の北側ではフランク王国が勢力を拡大し、800年頃にはカール大帝がその支配者となっていました。

カール大帝はイベリア半島北部への影響力拡大を図り、778年にサラゴサ方面へ遠征しました。

サラゴサの統治者フサインとの交渉は決裂し、最終的には金品の授受によって戦闘は回避されたとされています。

しかし、その帰路、フランク軍の後衛部隊はバスク人勢力の急襲を受け、損害を出しました(ロンスヴォーの戦い)。

この出来事の後、バスク人勢力はフランク王国の南下に対抗する必要性を認識し、地域的な政治的まとまりを形成していったと考えられています。

これによりナバラ王国が誕生する事になります。

ナバラ王国の成立とアリスタ家の時代

810年頃、ナバラ地域に王国が成立し、イニゴ・アリスタが初代王として登場します。

この王国は史料によって「パンプローナ王国」と呼ばれる場合もありますが、ここではナバラ王国として扱います。

初期のナバラ王国は、親フランク派の勢力を含む複数の集団から構成され、必ずしも一枚岩ではなかったとされます。

ナバラ王国成立期のイベリア半島では、フランク王国が778年のサラゴサ遠征には成功しなかったものの、801年にはバルセロナを占領し、これが後のスペイン辺境伯領の形成につながりました。

スペイン辺境伯領は後にバルセロナ伯領、さらにカタルーニャ君主団へと発展していきます。

9世紀のイベリア半島北部には、アストゥリアス王国、ナバラ王国(アラゴン地方を含む)、スペイン辺境伯領などのキリスト教勢力が存在しました。

アストゥリアス王国は無人地帯への植民を進め、勢力を拡大し、カスティーリャ伯領などの新たな政治単位も形成されました。

後ウマイヤ朝内部の対立が続く中、北部のキリスト教勢力は徐々に領域を広げていきました。

アストゥリアス王国は後にレオンへ遷都し、レオン王国と呼ばれるようになりました。

アストゥリアス王国から分立したカスティーリャ伯領は、後のイベリア半島史で重要な役割を果たすことになります。

バヌ・カシィ家の影響と「黄金の捕虜」

ナバラ王国では、イニゴ・アリスタ、ガルシア・イニゲス、フォルトゥン・ガルセスへと王位が継承されました。

ガルシア・イニゲスの治世には、イスラム教に改宗したムラディ系の有力家系であるバヌ・カシィ家の影響が強かったとされます。

この時期、ナバラ王国内におけるイスラーム勢力の存在感は比較的大きかったと考えられています。

ガルシア・イニゲスは、娘ヒメナをアストゥリアス王国のアルフォンソ3世に嫁がせ、両国の関係を強化しました。

一方で、この関係強化はナバラ王国が後ウマイヤ朝から攻撃を受ける要因の一つとなった可能性があります。

860年、後ウマイヤ朝がナバラ王国に侵攻し、王位継承者フォルトゥン・ガルセスとその娘イニガは逃走中に捕らえられ、コルドバへ連行されました。

フォルトゥンとイニガは約20年間コルドバで拘束されていたとされています。

後ウマイヤ朝は彼らを政治的に利用できると判断した可能性があり、比較的丁重に扱われたと伝えられることから、「黄金の捕虜」と呼ばれることもあります。

イニガはムハンマド1世の子アブド・アッラーフと結婚し、コルドバでオネカと名乗りました。

オネカは男子ムハンマドを出産しました。

キリスト教徒の女性がイスラーム王家の内縁の妻となる例はありましたが、正式な婚姻関係が結ばれた例は比較的少ないとされ、これは特筆すべき出来事であると考えられています。

ヒメノ家の台頭とアリスタ家との結びつき

ガルシア・イニゲスが亡くなった際、王位継承者フォルトゥン・ガルセスは後ウマイヤ朝の首都コルドバに拘束されていました。

フォルトゥンは約20年間コルドバに滞在しており、この間、ナバラ王国ではガルシア・ヒメネスが摂政として政治を担いました。

870年にガルシア・イニゲスが死去すると、フォルトゥンは名目上のナバラ王とされましたが、実際の統治は引き続きガルシア・ヒメネスが行いました。

その後、フォルトゥンはナバラに帰還しましたが、政治の主導権は依然としてヒメネス家が握っていたと考えられています。

一部の史料では、フォルトゥンが積極的に政治を行わなかったと伝えられるが、その背景や詳細については明確ではありません。

最終的に、ガルシア・ヒメネスの子であるサンチョ・ガルセス1世が905年に王位に就き、ヒメノ家がナバラ王家となりました。

フォルトゥンの娘オネカもナバラに戻ったとされ、アスナル・サンチェスと結婚し、トダを生んでいます。

トダは後にサンチョ・ガルセス1世の妃となり、アリスタ家とヒメノ家の血統が婚姻関係を通じて結びつきました。

オネカはトダのほかにサンチャを生み、サンチャはサンチョ・ガルセス1世の兄弟と結婚しました。

これにより、アリスタ家とヒメノ家の間には複数の婚姻関係が形成され、両家の結びつきが強まったと考えられています。

ナバラ王家の系譜

ナバラ王国はアストゥリアス王国(のちのレオン王国)とともに、イベリア半島北部でイスラーム勢力と対抗したキリスト教勢力の一つです。

しかし、ナバラ王国の君主の名前は同じ語根が繰り返されるため、系譜を追う際に混乱しやすいという特徴があります。

ヒメノ家が王位を継承して以降、王名は「サンチョ(Sancho)」と「ガルシア(García)」が交互に現れ、父称(~ガルセス、~サンチェス)も同じ語根を持つため、識別が難しくなります。

ヒメノ家の王位継承は以下の通りです。

1. サンチョ・ガルセス1世
2. ガルシア・サンチェス1世
3. サンチョ・ガルセス2世
4. ガルシア・サンチェス2世
. サンチョ・ガルセス3世(サンチョ大王)
6. ガルシア・サンチェス3世
7. サンチョ・ガルセス4世
このように、「サンチョ」と「ガルシア」が代々交互に続くため、叙述の際には名前の整理が必要となります。

すでにサンチョ・ガルセス1世とガルシア・サンチェス1世をフルネームで紹介していることから、以降の王については

  • サンチョ〇世
  • ガルシア〇世
    と略記し、特に歴史的影響が大きいサンチョ・ガルセス3世については
    一般的な呼称である 「サンチョ大王」 を用いることで、叙述上の混乱を避けたいと思います。

サンチョ大王とナバラ王国の最盛期

ナバラ王国でサンチョ大王が立つと、アラゴン伯領やカスティーリャ伯領を占拠しました。

レオン王国は内乱状態になり、サンチョ大王は保護国化に成功しています。

サンチョ大王の時代にナバラ王国は大きく勢力を伸長させたと言えるでしょう。

サンチョ大王は功績を高く評価され「大王」の名で呼ばれる事になりました。

サンチョ大王の死と四分割相続

サンチョ大王は西暦1035年に死去しました。

サンチョ大王が亡くなると、ナバラ王国は遺言により四人の息子たちによって分割相続されました。

この分割が、後のイベリア半島の政治構造を大きく方向づけたと指摘されることがあります。

サンチョ大王は、

  • 長男ガルシアにナバラ王国
  • 次男フェルナンドにカスティーリャ伯領(カスティーリャ王国として)
  • 三男ゴンサロにソブラルベ伯領とリバゴルサ伯領
  • 婚外子ラミロにアラゴン伯領(アラゴン王国として)
    を与えました。

カスティーリャ王国とアラゴン王国は、この分割相続によって同じ1035年に成立したことになります。

タマロンの戦いとフェルナンド1世大王の台頭

サンチョ大王の死を受けて行動を起こしたのが、レオン王ベルムード3世でした。

ベルムード3世はレオン王国の復興を目指し、かつて争いの対象となっていたセア川とピスエルガ川の間の土地の回復を目指して出陣しました。

その結果、ベルムード3世は戦死したとされています。

この戦いは「タマロンの戦い」と呼ばれ、カスティーリャ王国とナバラ王国の連合軍がベルムード3世軍と戦ったと伝えられています。

ベルムード3世には子がいなかったため、実の姉であるサンチャ・デ・レオン(サンチャ女王)が後継者となりました。

しかし、実際の統治はサンチャ女王の夫であるカスティーリャ王フェルナンドが担ったと考えられています。

フェルナンドはサンチョ大王の子であり、後に「フェルナンド1世大王」と呼ばれる人物です。

1037年のタマロンの戦い以降、フェルナンド1世大王はカスティーリャ王とレオン王を兼任することになりました。

これにより、かつて協力関係にあったナバラ王ガルシア3世とフェルナンド1世大王の関係は、次第に緊張を帯びていったとされています。

ガルシア3世の最期

ナバラ王国の首都はパンプローナでしたが、ガルシア3世はナヘラの街を好み、生涯の多くをそこで過ごしました。

そのため、ガルシア3世は「ナヘラ王」とも呼ばれています。

ナヘラはパンプローナとブルゴスの中間に位置する都市でした。

ある時、ガルシア3世が病気になり、フェルナンド1世大王がナバラ王国に見舞いに向かったとされています。

しかし途中で、ガルシア3世が自分を捕らえようとしているという情報を得たため、フェルナンド1世大王は急ぎカスティーリャへ戻ったと伝えられています。

その後、今度はフェルナンド1世大王が病気になったとされます。

これが仮病であったという説もあり、見舞いに訪れたガルシア3世はセア城に幽閉されました。

しかし、ガルシア3世は看守を買収して逃亡に成功したと記録されています。

こうして、ナバラ王とカスティーリャ=レオン王の対立は決定的になりました。

ガルシア3世はカスティーリャ領へ侵攻し、アタプエルカで戦いとなりましたが、敗れて戦死しました。

この戦いではカスティーリャ軍が優勢であったと考えられています。

ナバラ王ガルシア3世は落馬により重傷を負い、修道院長の腕の中で亡くなったと記録されています。

これが1054年の出来事です。

ナバラ王国の相対的弱体化とアラゴンの台頭

ガルシア3世が亡くなると、その子がナバラ王サンチョ4世を名乗りました。

しかし、当時の軍事力を比較すると、レオン・カスティーリャ王国の方がナバラ王国よりも優勢であったと考えられています。

そのため、サンチョ大王の時代に大きな勢力を誇ったナバラ王国は、次第に存在感を失っていきました。

サンチョ大王の他の息子について触れておくと、ソブラルベ伯領とリバゴルサ伯領を与えられた三男ゴンサロは1040年頃に亡くなりました。

彼の死後、これらの領地はアラゴン王国に引き継がれました。

アラゴン王国はその後も発展していきますが、この点についてはまた別の記事で述べたいと思います。

11世紀半ば頃のイベリア半島では、カスティーリャ・レオン王国が最も強い勢力であったと考えられています。

こうした状況の中で、フェルナンド1世大王は、そろそろイスラーム勢力に対して軍事行動を起こす時期であると判断したとされています。

すでに後ウマイヤ朝は崩壊しており、分裂したタイファ諸国は、カスティーリャ・レオン王国と対等に戦うことは難しいと考えられていました。

一方で、サンチョ大王の時代に強大化したナバラ王国は、カスティリヤ・レオン王国の台頭によって相対的に弱体化し、イベリア半島の政治の中心からは次第に外れていきました。

11世紀後半にはアラゴン王国に併合され、ナバラ王国は一時的に滅亡しています。

ナバラ王国の消滅

12世紀の前半にナバラ王国は再び独立国となりました。

この頃になると、イベリア半島の西にあるサンティアゴ巡礼が盛んになり、パンプローナやハカなどの都市が栄える事になります。

しかし、ナバラ王国は西のカスティーリャ王国と東のアラゴン王国に挟まれており、苦しい状態が続く事になります。

北にはフランスの勢力もあり、独力で国を維持する事は不可能とも呼べる状態でした。

ナバラ王国は一時的にフランスの勢力圏に組み込まれますが、1512年にカスティーリャ王国に占拠されました。

1515年にカスティーリャ王国に編入され、ナバラ王国は滅亡しています。

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