
| 名前 | 騎馬民族征服王朝説 |
| コメント | 現代では信じている人は殆どいない説 |
騎馬民族征服王朝説は江上波夫氏が提唱した説であり、天皇の祖先は朝鮮半島からやってきた騎馬民族だったとする説です。
この説が唱えられた当時は、多くの人から注目を集め大流行した説でもあります。
しかし、近年では多くの専門家により騎馬民族征服王朝説は否定されており、信じている人は殆どいません。
それでも、現在でも注目されている説の一つであり、一部の方からは人気を集めています。
江上波夫氏の騎馬民族国家では遊牧民の生活の解説などから始まっており、この記事でも同じように牧畜などから解説していきます。
因みに、騎馬民族征服王朝説ですが、現在では「嘘」「トンデモ」などと言われる事もありますが、現在でも前半部分はまともとする意見も多々ある状態です。
尚、騎馬民族征服王朝説の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来る様になっています。
騎馬民族征服王朝説の前置き
牧畜の始まり
騎馬民族征服王朝説を説明する前に、まず牧畜の起源について触れておきます。
実際に江上波夫氏の「騎馬民族国家」では騎馬民族征服王朝説の前に、遊牧民についての解説を行っています。
牧畜は農耕と同様に、肥沃な三日月地帯で始まったと考えられています。
農業の開始からやや遅れて牧畜が始まったという説もあります。
当時の人々は農業によって穀物を安定的に得られるようになりましたが、一方で狩猟による動物資源は減少し、タンパク質の確保が課題となりました。
そこで人々は、捕らえた動物をすぐに食べるのではなく、飼いならして繁殖させ、必要に応じて利用するという方法を思いつきました。
これにより、狩猟に頼らずに肉を得ることが可能になります。
家畜を増やすことで、肉だけでなく卵・毛皮・乳など多様な資源が得られ、さらに農耕作業を手伝わせることもできるようになりました。
しかし、家畜化できる動物は限られており、最終的には牛・豚・馬・羊など、比較的気性が穏やかな動物が中心となりました。
牧畜文化の広がりと地域差
牧畜は肥沃な三日月地帯から東西へ広がっていったと考えられています。
一方で、日本・オーストラリア・南北アメリカなどには、牧畜文化が伝わりにくかったとされています。
『魏志倭人伝』には倭国について「牛、馬、虎、豹、鵲はいない」と記されており、日本列島に牧畜文化が存在しなかったことが示唆されています。
日本の場合、大陸との間に海があるため、牧畜文化が伝播しにくかったと考えられています。
またオーストラリアでは乾燥が激しく農耕が困難で、牧畜も発達しませんでした。
ヨーロッパ人が到来した時、先住民は主に狩猟採集生活を送っていたとされています。
牧畜文化の伝播と地理的条件
牧畜や農耕などの文化が広く伝播するためには、大陸が東西方向に伸びていることが重要であると指摘されています。
ユーラシア大陸は東西に長く、アメリカ大陸は南北に長いという地形的特徴があります。
緯度が同じであれば気候や日照条件が大きく変わらないため、農耕・牧畜・家畜の移動や技術の伝播が比較的容易です。
一方、南北に長い大陸では緯度が変わるにつれて気候が大きく異なるため、文化や家畜の移動が難しくなると考えられています。
アメリカ大陸で文明の発展が遅れたとされる理由の一つとして、文明間の交流が地理的に制限され、技術や家畜が広まりにくかった点が挙げられます。
騎馬戦術の誕生と遊牧民の特徴
人類史は戦争の歴史でもあり、現在のウクライナ周辺にいたスキタイ人の間で、馬に乗って弓を射る騎馬戦術が誕生したと考えられています。
牧畜が発達し、家畜と共に生活するようになったことで、遊牧民は馬を自在に扱い、機動力を生かした戦術を発展させました。
スキタイ人はその代表的な存在であり、彼らの戦術は周辺の農耕国家にとって大きな脅威となりました。
アレクサンドロス大王もスキタイと戦って勝利したものの、完全な征服には至らなかったと伝えられています。
遊牧民は農耕民の防備が手薄な地域を襲撃し、不利になるとユーラシアの乾燥地帯へ退避することが可能でした。
農耕民は土地を守る必要がありますが、遊牧民は固定した土地を持たないため、追撃しても捕らえることが難しかったと考えられています。
中国王朝と北方遊牧民
中国の歴代王朝も、北方の遊牧民に悩まされ続けました。
万里の長城は、こうした遊牧民の侵入を防ぐために築かれたとされます。
遊牧民については、古代の文献に「財産が少なく、機動力が高く、農耕民を襲撃することが生活の一部であった」といった記述が見られますが、これは当時の農耕国家側の視点による表現であり、遊牧民の社会を単純化したものとして扱う必要があります。
そのような状況の中で、中国の戦国時代に趙の武霊王が騎馬隊を導入したことは、軍事改革として大きな転換点であったと評価されています。
騎馬戦術を取り入れたことで、農耕国家が遊牧民に対抗する手段を得たと考えられています。
騎馬民族と匈奴の起源について
一部の研究者は、ユーラシア・ステップ地帯にいた騎馬民族が東へ移動し、その一部が匈奴として歴史に登場したと考えています。
司馬遷『史記』によれば、匈奴の起源は夏后氏の後裔である淳維に求められると記されています。
また『史記』には、匈奴の家畜として馬・牛・羊 が中心であり、特殊なものとして駱駝・驢馬・騾馬を飼育していたと記録されています。
これは『魏志倭人伝』に見られる「倭国には牛・馬がいない」という記述と大きく異なり、牧畜文化の発達度の違いを示す例としてよく取り上げられます。
騎馬民族征服王朝説の概要
ここから、騎馬民族征服王朝説の内容に入ります。
この説では、天皇の祖先が夫余 → 高句麗 → 朝鮮半島南部(加羅・任那) → 筑紫(九州) → 畿内という経路で移動したと考えられています。
この移動の根拠として、古事記に登場する 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト) の言葉が重要視されます。
古事記では、瓊瓊杵尊が次のように述べたとされています。
「この国は韓の国に向き合っていて、笠沙の岬に繋がっており、朝日がしっかりと注ぐ国である。夕日が照らす輝かしい国である。」
この「韓の国」という語が、朝鮮半島南部を指すのではないかと考えられ、騎馬民族征服王朝説では重要な根拠とされます。
しかし、日本書紀では「韓国(からくに)」ではなく「空国(むなしくに)」=うつろな国と解釈できる表現があり、古事記の「韓」は地名ではなく別の意味である可能性も指摘されています。
さらに、日向の高千穂峰の北には 韓国岳(からくにだけ) があり、「韓の国」は朝鮮半島ではなく、九州南部の地名を指す とする説も存在します。
「笠沙の岬」という地名も九州南部に位置するため、地理的整合性からこちらを支持する研究者もいます。
騎馬民族征服王朝説の内部矛盾
騎馬民族征服王朝説では、「神武天皇~開化天皇(初代〜第9代)は実在しなかった」とする立場が取られます。
欠史八代だけではなく、神武天皇も存在しなかったとするのが、騎馬征服王朝説でもあります。
しかし同時に、「瓊瓊杵尊(天孫降臨の神)は実在したかのように扱われる」という矛盾が生じています。
つまり、「瓊瓊杵尊は実在し、朝鮮半島南部にいた」
「しかし神武天皇~開化天皇は存在しない」
「崇神天皇(第10代)は朝鮮半島南部にいた」
という構図になり、神話の人物は実在扱い、歴代天皇は不在扱いという不均衡が生じています。
この点は、騎馬民族征服王朝説が批判される理由の一つです。
騎馬民族征服王朝説と崇神天皇の位置づけ
騎馬民族征服王朝説では、崇神天皇は朝鮮半島にいた勢力の指導者であり、筑紫国を攻撃して制圧したと考えられています。
その後、崇神天皇は朝鮮半島の任那から来たとされ、「御間城天皇(みまきのすめらみこと)」 と呼ばれるようになった、という解釈が取られます。
日本書紀に見える「御間城天皇」と任那の国名変更
一方で、日本書紀には次のような記述があります。
- 朝鮮半島南部の 大加羅(たいから)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が来日
- 第11代垂仁天皇に謁見
- 垂仁天皇は「本国の名を御間城天皇(崇神天皇)の名から取るとよい」と提案
- 王子は赤織の絹を授けられ帰国
- その後、大加羅は 「任那(みまな)」 に国名を変更したとされる
つまり日本書紀では、「任那という国名は、崇神天皇(御間城天皇)の名に由来する」
と説明されています。
両者の矛盾点
ここで、騎馬民族征服王朝説と日本書紀の記述の間に明確な矛盾が生じます。
● 騎馬民族征服王朝説:
- 崇神天皇は任那から来た
- だから「御間城天皇」と呼ばれた
● 日本書紀:
- 任那の国名は、崇神天皇(御間城天皇)の名に由来する
- つまり、任那の方が後から崇神天皇の名を採用した。
この二つは同時に成立しません。
もし騎馬民族征服王朝説を採用すると、日本書紀の垂仁天皇と大加羅王子のエピソードを無視することになるという問題が生じます。
他にも、騎馬民族征服王朝説では、応神天皇が「東征」を行い、大和に入ったとされることがあります。
しかし、これは日本書紀の記述とは整合しません。
日本書紀では応神天皇はすでに大和王権の中心におり、またそもそも「東征」という概念自体が史料に見られません。
さらに、応神天皇の時代はむしろ大和政権の安定期であったと考えられています。
このため、応神天皇の「東征」も後から作られた仮説に基づく推測と見なされ、学術的には疑問視されています。
大加羅王子と垂仁天皇の関係
日本書紀によれば、大加羅(たいから)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、第11代垂仁天皇を訪れ、赤織の絹を授けられました。
王子はこの絹を大切に保管していましたが、後に新羅が任那を攻撃した際、この絹を奪ったとされています。
これにより任那と新羅は戦争状態に入りました。
この頃、朝鮮半島は新羅、任那、百済、高句麗と、諸国が分立していたと考えられています。
この記述からは、任那(加羅)よりも倭国(垂仁天皇)の方が上位の立場にあったという構図が読み取れます。
また、垂仁天皇は皇后を奪われた逸話があるため、俗に「寝取られ天皇」と呼ばれることもあります。
古事記・日本書紀は天皇家を称揚するための書物だとする見方もありますが、このような不名誉な話も記録されている点は興味深いところです。
応神天皇の「東征」説と旧唐書の解釈
騎馬民族征服王朝説では、第15代応神天皇の時代に「東征」が行われたと考えられています。
根拠とされるのは『旧唐書』の次の記述です。
「日本旧小国倭国を併す」
この文を、「応神天皇が倭国(九州)を征服して大和に入った」と解釈するのが騎馬民族征服王朝説です。
しかし、この説にはいくつかの問題があります。
● 応神天皇以前に近畿を支配していた勢力が不明である。
「東征」があったとするなら、応神以前に大和を支配していた勢力が誰なのか説明が必要ですが、説の中では明確にされていません。
●「併す」は領域拡大の一般表現だった。
旧唐書の「併す」は、大和政権の勢力が九州まで及んだという意味で解釈する方が自然です。
記紀でも、第12代景行天皇の時代から九州に関する記述が増え、大和政権の影響が九州に及んでいたことが示唆されます。
中国史書における「倭国」は基本的に九州の勢力を指すため、大和政権が九州を統合した段階で、中国側から見た「倭国=大和政権」となったと考える方が整合的です。
騎馬民族征服王朝説の矛盾
騎馬民族征服王朝説では、前期古墳文化と後期古墳文化の違いを根拠に、乗馬の風習、横穴式石室、金銅製の豪華な装飾品などの文化変化を「征服の証拠」とみなします。
しかし、近年の考古学研究では、5世紀頃に約100年かけて徐々に文化が変化したことや急激な断絶や民族交代を示す証拠はないことが明らかになっています。
文化の変化は、朝鮮半島との交流や技術導入によるものであり、征服による急激な交代ではないと考えられています。
また、騎馬民族征服王朝説では、「騎馬民族が日本を征服した」と主張しますが、古事記・日本書紀には天皇が馬に乗っている描写がほとんどありません。
もし天皇家が騎馬民族の末裔であるなら、馬に乗る描写が頻繁に登場してもよいはずですが、実際にはそのような記述は極めて少ないのです。
これは、説の根幹と矛盾する点としてよく指摘されます。
倭国に伝わった大陸の騎馬文化
倭国に大陸の騎馬文化が伝わったこと自体は、考古学的にも確かだとされています。
神功皇后の時代には、新羅・百済・高句麗など朝鮮半島の諸国と戦ったという記録があり、その過程で騎馬民族の戦術や文化を目にした可能性があります。
後期古墳文化の時代には、乗馬具・横穴式石室・金銅製装飾品など、大陸的な文化が倭国で流行したと考えられています。
また、高句麗の広開土王碑には倭人との戦闘が記録されており、倭国が朝鮮半島で軍事行動を行ったことはほぼ確実と見られています。
しかし、倭国では大陸文化の受容が早かった一方で、廃れるのも早く、定着しなかったと考えられています。
途中から、大陸から取り入れた文化の多くが消えていったことも確認されています。
この点は、「征服者が文化を持ち込んだ」というより、「倭国が必要に応じて文化を取り入れ、後に放棄した」という方が実態に近いと考えられています。
騎馬民族の生活文化が日本に見られない
騎馬民族征服王朝説の大きな問題点として、日本に騎馬民族的な生活文化がほとんど見られないことが挙げられます。
● 食生活の違い
騎馬民族は「乳製品を常食とする」「家畜を屠って肉を食べる」
「干し肉・塩漬け肉を保存食とする」といった食文化を持っていました。
しかし日本では、明治時代まで乳を飲む習慣がほぼなく、肉食も限定的でした。
これは騎馬民族文化とは大きく異なります。
● 去勢技術の欠如
遊牧民には馬や家畜を去勢する技術があり、これによって馬を扱いやすくしていました。
しかし日本では、去勢の技術がほとんど発達しなかったとされます。
このため、宦官制度も成立しませんでした。
● 騎馬民族の侵攻に備えた防御施設がない
もし騎馬民族が倭国を征服したのであれば、その侵攻に備えた防御施設が見つかってもよいはずですが、日本列島には騎馬民族対策の防御施設が確認されていません。
騎馬民族征服王朝説の総合的な問題点
結論として、この説には多くの矛盾があります。
● 騎馬民族征服王朝説の主な問題点
- 天皇の存在や記紀のエピソードを無視することになる
- 古墳文化の変化は征服による急激な交代ではなく、100年規模の漸進的変化
- 古事記・日本書紀に天皇が馬に乗る描写がほとんどない
- 騎馬民族の食生活(乳製品・肉食)が日本に見られない
- 去勢技術が発達していない
- 騎馬民族の侵攻に備えた防御施設が存在しない
- 任那と崇神天皇の関係が日本書紀と矛盾する
- 応神天皇の「東征」は史料に存在しない
- 旧唐書の「併す」は征服ではなく勢力拡大と解釈する方が自然
これらの点から、「騎馬民族征服王朝説が事実である可能性は極めて低い」
というのが現代歴史学の一般的な見解です。
騎馬民族征服王朝説の動画
騎馬民族征服王朝説を解説したゆっくり解説動画となっています。
■ 参考文献
騎馬民族征服王朝説をより詳しく知りたい場合は、江上波夫『騎馬民族国家』が代表的な文献です。
この説がどのように構築され、どのように批判されてきたかを理解する助けになります。