
| 名前 | 欠史八代 |
| 天皇 | 綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化 |
| コメント | 日本史の中でも特に謎多き時代 |
欠史八代は記録が少なく、謎多き時代だとされています。
専門家の中には欠史八代は、存在しなかったと考える人も多くいる状態です。
こうした中で長浜浩明氏は欠史八代は実在し、欧州のハプスブルク家の様に婚姻による勢力拡大をしたのではないかと考えました。
古事記や日本書紀の記述を見ると確かに、欠史八代では各地の豪族との婚姻の記録が多くあります。
今回は欠史八代ハプスブルク家方式説を解説しますが、それと同時に問題点もあると考えており、紹介したいと思います。
綏靖天皇と師木県主の婚姻 ― 奈良盆地への浸透
綏靖天皇の御世から謎多いとされる欠史八代の世界に入っていきます。
古事記では、綏靖天皇が自分の母の腹違いの妹と結婚したと記されています。
しかし、古事記の系譜や記述の流れを丁寧に読むと、実際には次のような背景があったと考えられます。
綏靖天皇は、奈良盆地の中東部に勢力を持っていた師木県主(しきのあがたぬし)と婚姻関係を結びました。
そして、師木県主の娘が第三代・安寧天皇を生むことになります。
これにより天皇家の勢力は奈良盆地の中東部にも及んだと考えられています。
ただし、古事記の記述を「欠史八代」や「ハプスブルク家方式説」の観点から読み解くと、天皇家は神武東征によって獲得した軍事力を背景に、周辺勢力との婚姻関係を積極的に進めていったとも考えられます。
また、天皇家が鉄資源を掌握していたことが、こうした婚姻政策を推し進める上で大きな力となったとする説もあります。
鉄は武器・農具の生産に不可欠であり、古代においては軍事力と経済力の基盤そのものでした。
そのため、鉄資源を持つ勢力は他の豪族に対して強い影響力を行使できたと考えられています。
さらに、大和王権の内部では、「戦争を行わなくても勢力を拡大できるのではないか」という発想から、政略結婚が盛んになっていったと考えられます。
カムヤイミミの子孫と九州・東国への婚姻ネットワーク
欠史八代を考える上で綏靖天皇の兄であるカムヤイミミが重要とする見解があります。
古事記には、カムヤイミミ(神武天皇の子)が多くの子孫を残したと記されており、その子孫からは各地の有力豪族が生まれています。
具体的には、下記の様になっています。
- 意富臣(オオノオミ)
- 小子部連(チイサコベノムラジ)
- 坂合部連(サカイベノムラジ)
- 火君(ヒノキミ)
- 大分君(オオキタノキミ)
- 阿蘇君(アソノキミ)
- 筑紫の三家連(ミヤケノムラジ)
- 雀部臣(サザキベノオミ)
- 雀部造(サザキベノミヤツコ)
- 小長谷造(オハツセノミヤツコ)
- 都祁直(ツケノアタヒ)
- 伊余国造(イヨノクニノミヤツコ)
- 科野国造(シナノノクニノミヤツコ)
- 道(ミチノク)の石城国造(イワキノクニノミヤツコ)
- 常道(ヒタチ)の仲国造(ナカノクニノミヤツコ)
- 長狭国造(ナガサノクニノミヤツコ)
- 伊勢の船木直(フナキノアタヒ)
- 尾張の丹波臣(ニワノオミ)
- 島田臣(シマダノオミ)
カムヤイミミを祖先とする氏族には、神武東征で立ち寄った筑紫や豊後、狗奴国の領域とも考えられる阿蘇も含まれています。
九州の地名が古事記の系譜に見えることから、神武東征で関わりのあった九州の豪族とも、大和王権は積極的に婚姻関係を結んでいたと考えられます。
さらに、尾張・伊勢・常陸・信濃といった地名も登場します。
特に信濃(科野)は、出雲の国譲り神話とも関連が深いとされ、大和王権と出雲勢力の間に何らかの政治的・文化的つながりがあった可能性を示唆しています。
神武東征では神武天皇の兄が3人亡くなっており、皇族は激減した可能性があるため、カムヤイミミが多くの子を残した事で、天皇家の不安の一つが解消されたと考えられます。
カムヤイミミが本当に実在したとしたら、この人なくして大和王権の発展は無かったと言えます。
綏靖天皇は古事記によれば45歳、日本書紀によれば84歳で病気により崩御したとされています。
綏靖天皇の陵墓は桃花鳥田丘上陵にあるとされています。
綏靖天皇が一日に七人の人間を食べ、幽閉されたという話がありますが、そちらは史実とは言えないと思います。
それでも、綏靖天皇が亡くなった事で、欠史八代の初代が終わった事になります。
安寧天皇による奈良盆地支配の強化
欠史八代の時代は続き、第三代安寧天皇が即位する事になります。
古事記の記述を見ると、片塩浮孔宮を都とし、奈良盆地の有力豪族・磯城縣主葉江の娘と結婚し皇后にしたことが分かります。
これにより、安寧天皇は奈良盆地での支配を固めようとしました。
日本書紀によると、安寧天皇は事代主の孫である鴨王の娘と結婚しています。
事代主を祀る一族を勢力に取り込んだと見る事も出来ます。
古事記には、安寧天皇の子が伊賀・名張・美濃の祖となったと記されています。
この記述から、大和王権は婚姻関係を通じて周辺勢力を取り込み、勢力を拡大していったと考えられます。
安寧天皇は古事記では49歳、日本書紀では57歳で崩御したとされ、陵墓は畝傍山西南御陰井上陵だとされています。
そして、懿徳天皇の時代になります。
懿徳天皇・孝昭天皇と奈良盆地の再編
欠史八代は三代目の懿徳天皇の御世となります。
懿徳天皇は軽之境岡宮に都を移し、葛城の豪族の娘を皇后に立てました。
奈良盆地の有力者を懐柔するためです。
懿徳天皇は農業の改革を行ったと考えられていますが、詳しいことは明らかになっていません。
懿徳天皇は古事記では45歳、日本書紀では77歳で崩御したとされています。
畝傍山南繊沙渓上陵が陵墓だとする記録があります。
懿徳天皇が崩御すると、孝昭天皇が即位します。
孝昭天皇が即位すると、掖上池心宮に都を移し、尾張を支配する豪族から妻を迎えようと考えました。
奈良盆地は既に十分に治まっていたため、遠国である尾張から皇后を立て、勢力を拡大しようとしたのです。
この時代の天皇家は奈良盆地の南は勢力範囲だったようですが、まだ奈良盆地の統一も出来ていなかったと考えられています。
孝昭天皇には、二人の子がいました。
長男は天押帯日子命という人物で、次男が孝安天皇として即位しました。
孝昭天皇・孝安天皇の長寿記録と陵墓の北上
欠史八代の四代目は孝昭天皇となります。
孝昭天皇は、古事記では93歳、日本書紀では113歳で崩御したと記され、掖上博多山上陵に葬られたと伝えられています。
しかし、これほどの長寿は現実的に考えにくく、記述の信憑性は低いと考えられています。
天皇の寿命が極端に長く記される問題については、古代の記録が春秋暦を用いていたため、実際の年数は「半分にするのが正しい」「四分の一にするべきだ」など、さまざまな説が唱えられています。
ただし、どの説が正しいのかは確定しておらず、正確なところは不明です。
また、本当に掖上博多山上陵に孝昭天皇が眠っているのかも定かではありません。
孝昭天皇の陵墓の位置に注目すると、今までの天皇陵から少し離れた場所に陵墓が造られていることが分かります。
この点は、単なる埋葬地の変化ではなく、大和王権の勢力範囲や政治的中心地が変動していた可能性を示唆しています。
その後、孝安天皇が即位しました。
孝安天皇の婚姻政策と天押帯日子命の巨大系譜
欠史八代の五代目は孝安天皇です。
孝安天皇は室秋津島宮に都を移し、多くの豪族と婚姻関係を結びたいと考えましたが、子どもがなかなか出来ずに悩んでいました。
その一方で、兄の天押帯日子命は多くの子宝に恵まれていました。
そこで孝安天皇は、天押帯日子命の子を養子縁組したり、
豪族たちとの婚姻に利用したりして、婚姻関係を強化しました。
天押帯日子命も非常に多くの子孫を残した事が記録されています。
- 春日臣(カスガノオミ)
- 大宅臣(オホヤケノオミ)
- 粟田臣(アハタノオミ)
- 小野臣(ヲノノオミ)
- 柿本臣(カキノモトノオミ)
- 壱比韋臣(イチヒヰノオミ
- 大坂臣(オホサカノオミ)
- 阿那臣(アナノオミ)
- 多紀臣(タキノオミ)
- 羽栗臣(ハグリノオミ)
- 知多臣(チタノオミ)
- 牟耶臣(ムザノオミ)
- 都怒山臣(ツノヤマノオミ)
- 伊勢の飯高君(イヒタカノキミ)
- 壱師君(イチシノキミ)
- 近淡海国造(チカツアフミノクニノミヤツコ) の祖先などです。
過去に婚姻関係を結んだと考えられる地域と、代を重ねてもなお婚姻を続けているのは、天皇家と地方豪族との関係が代替わりによって疎遠になることを防ぐためという意図があったのではないかと考えられます。
孝安天皇は即位102年目に崩御したとされ、古事記では123歳、日本書紀では137歳であったと記録されています。
陵墓は玉手丘上陵に比定されています。
在位102年という数字は、昭和天皇の63年を大きく上回り、記録上は歴代天皇の中で最も長い在位期間となります。
しかし、この記録をそのまま史実として受け取ることはできません。
孝霊天皇と吉備平定・倭国大乱の可能性
孝安天皇が亡くなると、孝霊天皇が即位します。
孝霊天皇は欠史八代の六代目となります。
孝霊天皇は黒田廬戸宮に都を移し、儂は磯城郡西部の大豪族の娘である細媛を皇后にしました。
これは、地元である大和との繋がりを強化するためであったと考えられます。
孝霊天皇は複数の女性と結婚したという記録もあります。
孝霊天皇の皇子である大吉備津彦命と若武吉備津彦命は、播磨国を入り口として吉備国を平定したと伝えられています。
この「吉備平定」の伝承については、大和王権が吉備地方を軍事的に征服したことを象徴的に表現したものと考える研究者もいます。
また、これらの話は崇神天皇の時代にあった四道将軍派遣の話であるという説もあります。
孝霊天皇の皇子は播磨や吉備の豪族の祖先となったと言われており、越中、豊後、駿河、越前など遠国の豪族とも婚姻関係を結んでいます。
孝霊天皇の名は、後漢の霊帝(孝霊帝)に由来すると考えられています。
そのため、孝霊天皇の時代に「倭国大乱」が起きていた可能性を指摘する研究者もいます。
正史『三国志』魏志倭人伝によれば、倭国大乱は後漢の桓帝・霊帝の時代に発生したと記されています。
この記述と年代観を照らし合わせると、孝霊天皇の時代に倭国大乱が起きていたとしても不自然ではありません。
また、孝霊天皇は各地で鬼退治をしたという伝説があり、これが倭国大乱と関係している可能性もあるのではないかと思います。
孝霊天皇の鬼退治は桃太郎の話の元になっているとも言われています。
倭迹迹日百襲姫命と孝霊陵の北上
孝霊天皇の娘には、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という人物がいました。
この女性こそが卑弥呼であるとする説が、一部の研究者の間で唱えられています。
また、記紀の記録によれば、倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られたとされています。
孝霊天皇は、古事記では106歳、日本書紀では128歳で崩御したと記され、陵墓は片丘馬坂陵に比定されています。
この孝霊天皇の陵墓は、それ以前の天皇陵と比べても明らかに離れた位置にあり、従来の王権中心地から地理的にずれていることが分かります。
この点は、単なる埋葬地の変化ではなく、大和王権の勢力が北へと拡大していった可能性を示唆していると考えられます。
孝元天皇
孝霊天皇の次は孝元天皇が即位しました。
孝元天皇が八代目の天皇であり、欠史八代も七代目であり、終わりが見えてきました。
孝元天皇が即位すると、軽境原宮に都を移し、物部氏と同族である穂積臣の娘を皇后に迎えました。
ここまでの皇后の出自を見ていくと、孝昭天皇が尾張から皇后を迎えている例を除けば、ほとんどが奈良盆地の有力豪族から妻を娶っていることが分かります。
この傾向から、大和朝廷としては皇后は地元である奈良盆地の有力氏族から迎え、一方で皇子たちは各地へ派遣して婚姻関係を結び、血縁ネットワークを全国へ広げていくという方針があったようにも見えます。
つまり、王権の中心は奈良盆地に置きつつ、皇子たちを通じて地方豪族と姻戚関係を築くことで、大和王権は戦争だけに頼らず、婚姻による支配網の拡大を進めていたと考えられます。
大彦命と東国支配の進展
孝元天皇の子には大彦命、少彥男心命、そして後の開化天皇がいます。
大彦命は崇神天皇の時代に四道将軍の一人として、北陸に派遣されたと言われています。
この大彦命の子が武渟川別という人物であり、武渟川別も四道将軍として東海に派遣されました。
武渟川別が東国や北陸の大氏族である阿部臣の祖先だとされています。
北陸も大和朝廷の支配下に入る体制が出来つつあったということが分かります。
大彦命は、埼玉県行田市の埼玉古墳群に属する稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に見える「意富比垝(おほひこ)」という名と関連づけられ、同一人物ではないかと考えられています。
また、大彦命は実在した可能性が高いと考えられています。
孝元天皇は古事記では57歳、日本書紀では116歳で崩御し、陵墓は剣池島上陵にあるとされています。
孝霊天皇の代では、陵墓の位置がそれ以前の天皇陵から大きく北へ移動しています。
しかし、孝元天皇になると、陵墓の位置は再び初期の天皇陵が集中する地域へ戻っています。
これで欠史八代は最後の一人である開化天皇だけになりました。
開化天皇による奈良盆地北部への進出
欠史八代の最後を飾るのが開化天皇です。
開化天皇は即位すると、奈良盆地の北に本拠地を移します。
今までの天皇は奈良盆地の南を本拠地としていましたが、開化天皇は初めて奈良盆地の北を本拠地にしたと言われています。
開化天皇の代には、大和王権が奈良盆地をほぼ完全に掌握したと考えられています。
しかし、それにもかかわらず、第十代崇神天皇の時代になると、王権は再び武力討伐を積極的に行う段階へと移行します。
この背景には、欠史八代の時代に地道に蓄えられた国力があったと考えられます。
欠史八代の終わり
婚姻関係の拡大や豪族ネットワークの構築によって、大和王権は戦わずして勢力を広げる基盤を整えてきました。
その蓄積が、崇神天皇の時代に武力による外征を可能にしたと見ることができます。
この構図は、漢の武帝が文帝・景帝の「文景の治」で蓄えられた国力を背景に、積極的な外征政策を展開した歴史とよく似ています。
開化天皇も婚姻を推し進めたという記録があり、丹波、摂津、伊勢、日下部、甲斐、近江、若狭、三河、美濃、吉備、播磨、但馬などの氏族と血縁関係を結んでいます。
開化天皇は古事記では63歳、日本書紀では115歳で崩御し、春日率川坂上陵に眠っているとされています。
春日率川坂上陵は奈良盆地のかなり北寄りに位置しており、欠史八代の最後の天皇である開化天皇の時代に、大和王権が奈良盆地を完全に制圧したことを象徴しているとも受け取れます。
しかしながら、これらの陵墓が本当に欠史八代の天皇の実際の墓であるかどうかは不明です。
これで欠史八代の時代が終わり、次いで崇神天皇が即位することになります。
欠史八代「ハプスブルク家方式説」では、大和朝廷は婚姻関係を通じて勢力を拡大したと考えられています。
婚姻による支配は、武力征服に比べて目立たず、記録にも残りにくいという特徴があります。
開化天皇の頃が邪馬台国の卑弥呼の時代になると考える専門家もいます。
欠史八代の解釈
欠史八代といえば、「ほとんど情報がない」「天皇の年齢と都の位置だけが記されている」という印象を持つ人も多いかもしれません。
史記の本紀のように、「〇〇が崩御し、誰々が即位した」という記述が延々と続く時代、そんなイメージを抱かれがちです。
しかし、古事記の欠史八代の記事をよく読むと、実際には「誰々の祖先となった」「どの豪族につながる」といった系譜的記述が多く、
婚姻関係を匂わせる内容が大半を占めています。
つまり、欠史八代は「何も書かれていない時代」ではなく、婚姻を通じて勢力を広げた痕跡が、系譜という形で残されている時代だと長浜氏は主張しました。
この点を踏まえると、欠史八代を「ハプスブルク家方式」、すなわち戦争ではなく婚姻によって勢力を拡大した時代と捉える説は、十分にあり得ると考えられます。
欠史八代とは、地味に婚姻を繰り返し、気がつけば大和王権が日本列島最大の勢力となり、他の勢力を圧倒するほどの基盤を築いていたという
静かな拡大期だったと考えることもできます。
欠史八代は、いつ頃の天皇なのか、どの程度の権力を持っていたのか、なぜ記録が少ないのか、そもそも実在したのかといった点が非常に分かりにくい時代です。
しかし、この分からなさこそが、自由な想像を許し、研究者や愛好家にとって魅力的な領域になっているとも言えます。
欠史八代では、天皇の寿命が極端に長く記録される“年齢インフレ”が顕著です。
こうした誇張は、王統の神聖性を強調するための編集、あるいは複数の人物を統合した結果とも考えられています。
そして興味深いのは、欠史八代が終わり、崇神天皇が即位しても年齢インフレが続くという点です。
崇神天皇は実在性が高いとされるにもかかわらず記紀では120歳前後の寿命が記録されています。
こういったことがしばらく続くことは、記紀編纂の思想や政治的意図を考える上で重要なポイントになります。
欠史八代ハプスブルク家方式説の問題点
欠史八代ハプスブルク家方式説の問題点ですが、事実を確認しようがないという点でしょう。
さらに言えば、天皇家と婚姻関係を結んだとされている家系であっても、自分で勝手に名乗っているだけの場合もあるのではないでしょうか。
中国の歴史を見ると、外交などを有利に進める為に、勝手に系譜を作り出してしまう例も見受けられます。
春秋時代の呉では、最初は楚の子孫の国という系譜を使っていましたが、途中から周王朝の兄とする系譜に代えてしまったとも考えられています。
允恭天皇の時代に盟神探湯が行われましたが、この時に自らの祖先を天地開闢や天孫降臨と結びつけるものが多くいた話があり、自称の可能性もあるはずです。
日本であっても有力豪族であれば、天皇家と繋がりを持つ系譜を作成する事で、外交や様々な場所で効力を発揮したとみる事も出来るのではないでしょうか。
特に欠史八代は無文字社会の時代であったとも考えられ、数代前の事は誰にも分らなくなっており、豪族たちは天皇と繋がる系譜を作成した可能性もある様に感じました。
アフリカの無文字社会で生きている人々の酋長になった者を調べてみると、実際には酋長になった者の父親(実際には酋長になっていない)も酋長として数えられたりしている事も分かっています。
こうした事例を考えると、必ずしも欠史八代ハプスブルク方式説は史実だとは見られないと言えるのではないでしょうか。
それでも、実際に欠史八代の時代が婚姻により勢力拡大したとする説は面白いとも感じています。