春秋戦国時代

驪姫(りき)は晋を乱した悪女

2021年11月4日

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宮下悠史

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名前驪姫(りき)
生没年生年不明ー紀元前651年没
勢力驪戎→
コメント晋の献公に寵愛され、晋が乱れる原因を作った
年表紀元前672年 晋の献公の夫人となる
 紀元前656年 太子申生を自刃に追い込む
 紀元前651年 里克の反乱により死亡

驪姫(りき)は驪戎の娘であり、晋の献公に寵愛された事で夫人になった人物でもあります。

驪姫は献公の前では、健気な女性を装っていましたが、実際にはかなり強い権力欲を持った人でもあります。

驪姫は自分が生んだ奚斉の後継者にしようと画策し、太子の申生を表面上は褒めつつも、内心ではよくは思っていませんでした。

最終的に驪姫は申生を自刃に追い込み、奚斉を後継者にする事に成功しています。

しかし、晋の献公が亡くなると里克らが反旗を翻し、奚斉は殺害され驪姫も市内で鞭打ちに処されて最後を迎えていました。

因みに、晋は驪姫の乱により乱れ、重耳が晋公になるまで安定する事はありませんでした。

今回は晋の献公の夫人で、晋を乱した悪女とされる驪姫を解説します。

驪姫が寵愛される

晋の献公は史蘇の諫めも聞かず、驪戎を討伐し勝利しました。

晋の献公は戦利品として驪戎の娘である、驪姫とその妹を手に入れる事になります。

荘子によれば、驪姫はに来た頃は、驪姫も故郷を寂しく思ったのか嘆いた話もありますが、晋で贅沢な暮らしをしているうちに、寂しさは消えてしまった話があります。

驪姫は晋では逞しく生きる事になるわけです。

驪姫は晋の献公に寵愛される事となり、晋の献公との間に奚斉と卓子と二人の男子を生む事になります。

驪姫は献公との間に二子を授かった事で、心の中に野望が顔を出す様になります。

尚、列女伝の記述を見ると驪姫が奚斉と卓子を生んだ様な記述が存在しますが、史記だと卓子を生んだのは驪姫の妹になっています。

奚斉の後継者擁立を目指す

晋の献公には正夫人の斉姜がいましたが、斉姜が亡くなると驪姫が正室になります。

驪姫は驪戎の娘であり戦利品で手に入れた事から、実家からのバックアップは無かったはずであり、晋の献公からの寵愛だけで正妻となったのでしょう。

当時のでは斉姜が生んだ申生が太子となっており、申生の弟である重耳と夷吾も有能だと評判がよかったわけです。

例え申生が不慮の事故や病気で亡くなったとしても、重耳や夷吾が後継者として選ばれる様な状態でした。

こうした中で、驪姫は自分が生んだ奚斉を晋の後継者にしようと暗躍します。

驪姫は素行の悪い女性でもあり、芸人の優施と私通していた話しもあります。

優施も驪姫に対し、様々な策を弄し申生を追い詰めていく事になります。

離間の計

驪姫とその妹は、太子申生、重耳、夷吾の三人を晋の献公から遠ざけようと画策しました。

列女伝によれば、驪姫は晋の献公に次の様に述べた話があります。

驪姫「曲沃は晋の先祖の廟がある都市であり、蒲と二屈は国境にあります。

曲沃、蒲、二屈の三都市は、一族の者が治める必要があるでしょう。

先祖の廟がある曲沃に主の家の者がいなければ、民は晋を畏れません。

国境の城に主君の家の者がいなければ、敵国は侵略の気持を起こしてしまう事でしょう。

太子に曲沃を守らせ蒲と二屈に晋の公子を派遣すれば、民は服従し敵は恐れるに違いありません。」

晋の献公は驪姫の進言を取り入れ、太子の申生に曲沃を守らせ、蒲と二屈には重耳と夷吾に守備させたわけです。

驪姫は自らの口先で、晋の献公から有力な後継者候補たちを、の都から追放した事にもなります。

晋の献公も既に後継者を奚斉にしたい気持ちがあり、申生、重耳、夷吾の三人を遠ざけてしまったのでしょう。

晋の献公が奚斉を跡継ぎにしようとする

晋の献公も驪姫が生んだ奚斉を後継者にしたいと考え、驪姫に奚斉を後継者にしたいと告げる事になります。

晋の献公の言葉を聞くと、驪姫は涙を流し、次の様に述べています。

驪姫「太子の申生様が晋の後継者になる事は周知の事実です。

しかも、太子は抜群の才覚を持っており、私の為に、その様な事を考えるのはおやめください。」

驪姫の言葉を聞き、晋の献公は太子を廃嫡するのはやめましたが、驪姫を益々気にいります。

驪姫の後の行動を見れば晋の献公に述べた言葉は、心にもない事なのは明らかです。

既にこの時点で、晋の献公の脳みそは、驪姫にかなりやられてしまっている事が分かります。

申生が将軍となる

史記の晋世家や春秋左氏伝に、晋の献公が周辺の小国である霍・・耿の三国を討伐した話があります。

この時に、晋の献公は自ら上軍の将となり、太子の申生を下軍の将としました。

晋軍は無事に霍、魏、耿の三国を平定する事に成功しています。

さらに、晋の献公は申生に、東山を討たせたりしています。

一般的には晋の献公が申生を将軍に任命したのは、討伐に成功すればそれでが強大になるわけであり、申生が失敗すれば太子としての資質を問う事が出来るからだと考えられています。

晋の献公からしてみれば、驪姫の子である奚斉を後継者にしたくて仕方がなかったのでしょう。

驪姫も申生の失敗を願っていたと思いますが、申生は孝子であるだけでなく、優れた人物であり失敗をしませんでした。

この間に晋の献公や申生に、士蔿や里克が諫めていますが、献公も申生も聞き入れる事は無かったわけです。

驪姫は表面上は申生を褒めていましたが、人を使って申生を讒言したりしていた話があります。

申生を陥れる

驪姫は申生の失敗を願ったのですが、申生は失敗する事も無く時間だけが過ぎる事になります。

驪姫は業を煮やしたのか、強引に献公に申生を排除させ様と動きました。

列女伝によれば、驪姫は夜が来るごとに泣くようになり、次の言葉を晋の献公に述べる様になります。

驪姫「太子である申生の人柄は情け深く、筋が通っており民を可愛がっております。

殿(晋の献公)が私に夢中になり、申生が国を乱すと判断すれば、民の為だと申し、殿に圧力を掛けて来る事でしょう。

殿はこのままいけば、天寿を全うする事は出来ない様に思います。

殿が私を殺害すれば、天寿を全うする事が出来るはずです。

私は殿に迷惑を掛けたくはないのです。」

驪姫の言葉を聞いた晋の献公は、次の様に述べています。

晋の献公「申生は民を愛しても、父親を愛さないのか。」

晋の献公も申生は孝子である事が分かっており、すぐに驪姫の言葉を信じる事は出来なかったのでしょう。

驪姫は、間髪入れずに次の様に述べます。

驪姫「民の為の行いと父親の為の行いは別です。

そもそも殿を殺害し民を喜ばすのであれば、民が申生を推戴しないはずがありません。

民がよい思いをして栄え、乱が除かれて民衆が喜ぶのであれば、その様になる事を望まぬ人はいないでしょう。

仮に殷の紂王に有能な子がおり、殷の紂王をさっさと殺害していたら、殷の紂王の悪事が世に拡がる事も無かったはずです。

殷の紂王は死ぬにしても、周の武王により殷の王室を絶やして滅んでしまう事もなかったでしょう。」

驪姫は殷の紂王と周の武王を例に出し、晋の献公を説得に掛かります。

さらに、驪姫は晋の献公の父親である武公も例に出して、晋の献公を説得しました。

晋の武公は分家でしたが、本家を滅ぼした事もあり、驪姫は巧みに献公に申生の危険性を述べ、早く対処する様に伝えたわけです。

晋の献公も申生が危険だと感じ、驪姫にどの様にすればよいのか?と問います。

驪姫は次の様に述べました。

驪姫「殿は老いを理由に隠居し、政権を太子にお渡しになるべきです。

太子は政権を得る事が出来れば、殿をお許しになるに違いありません。」

驪姫は晋の献公に対して、隠居し太子をの主にする様に願ったわけです。

しかし、晋の献公は驪姫の言葉を却下し「自ら策を立てる。」と述べ、申生を疑う様になります。

驪姫が申生に政権を渡す様に述べたのは本心ではなく、負けん気が強い献公を煽る為の策だった様に思います。

驪姫は晋の献公の性格を、非常によく理解していたとも言えるでしょう。

肉に毒を混入

驪姫は人をやり申生に次の様に述べています。

「太子は夢に斉姜を見たと聞いております。

太子として素早く曲沃の廟を祀るのがよいでしょう。」

申生は素早く祭祀を行い、胙(祭祀用の肉)をの首都である絳に送り届けました。

胙が絳に届いた時に、晋の献公は狩りに出かけており、宮中にあった胙に驪姫は毒を混入させたわけです。

猟から帰った晋の献公が胙を食べようとしますが、驪姫が毒見をする様に言います。

肉を犬が食べると苦しんで死んでしまい、賊臣が食べると賊臣も亡くなってしまいます。

驪姫は涙を流し、次の様に述べています。

驪姫「太子は何と残忍な方なのでしょう。実の父親でさえ誅殺しようとしています。

殿は老い先短いのに、それまで待つ事も出来ないとは・・・。

太子がこの様な事をなさるのは、私と奚斉がいるからです。

私と奚斉は他国に移るか、いっそのこと自害したいと思います。

私達は太子の餌食にはなりたくはありません。

殿が太子申生を廃そうとしているのを残念に感じていましたが、それが間違いだと言う事に気が付きました。」

驪姫の話を申生に伝えた者がおり、申生は曲沃の新城に出奔しました。

申生は身の危険を感じ出奔したわけですが、晋の献公は激怒し申生が犯行を及ぼしたと信じる様になります。

晋の献公は申生の傅である、杜原款を誅しています。

申生の死

申生は新城に逃げましたが、ある人が肉に毒を入れたのは驪姫であり弁明する様に述べています。

しかし、申生は晋の献公は驪姫なくして生活は出来ないと述べます。

申生は弁明するよりも、晋の献公への孝を優先させ自刃しました。

驪姫は申生の弟で優れた人物と評判であった、重耳と夷吾も申生と関わりがあったと献公に讒言します。

これにより、重耳と夷吾は畏れて出奔しました。

これによりの有力公子がいなくなり、驪姫の子である奚斉が後継者になったわけです。

驪姫の最後

晋の献公は病気がちになり、自分の死期が近い事を悟ると荀息を宰相としました。

荀息は驪姫と子である奚斉を補佐すると約束したからです。

晋の献公が亡くなると、里克や丕鄭らは奚斉と卓子を殺害しています。

列女伝によれば里克らは驪姫を捕え、市中で鞭打ちとし殺害したとあります。

驪姫を市中で殺害したのは、見せしめの意味もあったのでしょう。

里克らは重耳を君主にしようとしますが、重耳が狐偃らの意見を入れて断りを入れた事で、夷吾がの国君となりました。

しかし、最終的に楚の成王や秦の穆公の後援により、重耳が晋の君主となり、晋の文公となった重耳は春秋五覇の一人に躍り出る事になります。

重耳は最後は覇者となりましたが、驪姫の乱で大きく晋は乱れたと言えるでしょう。

驪姫の評価

驪姫ですが、最後に殺害されている事を考えると、普通に申生にの君主になって貰った方が幸せだった様に思います。

申生を見ていると、孝子であり自らの異母弟となる奚斉に対し、酷い仕打ちを行うとは考えにくいからです。

さらにいえば、申生が後継者になっていれば、父親である晋の献公の寵姫であった驪姫に対しても、邪険に扱う様には思えません。

驪姫の場合は、実家の後押しがあるわけでもなく、晋の献公の寵愛のみで成り立っている様な人です。

例え奚斉が晋の君主になったとしても、支える人々は少ないはずであり、強大な権力を持つのは難しかったのではないかと感じました。

それらをトータル的に考えると、驪姫が奚斉を晋の国君にしようとするのは短絡的な発想であり、結局は行き詰る様に思いました。

驪姫は晋を乱すだけの存在になってしまった様に思います。

参考文献:岩波文庫・春秋左氏伝 ちくま学芸文庫・史記3世家 新編漢文選・列女伝 春秋戦国完全ビジュアルガイド

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