古代オリエント

メソポタミア文明の始まりと滅亡

2021年3月4日

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宮下悠史

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メソポタミア文明の始まりから滅亡への流れを簡単に解説します。

メソポタミア文明の場所ですが、現在のイラクにあるチグリス川ユーフラテス川の付近で文明が起こる事になります。

一般的にはメソポタミア地方の南部にシュメール人がいて、そこから文明が始まったと考える場合が多いです。

しかし、実際にはシュメール文明の前にウバイド文化があり、その流れをシュメール人が汲んでいると考えた方がよいでしょう。

メソポタミアの地は、民族の流入が激しく激闘が繰り広げられていきます。

バビロニア地方のバビロンを首都にする王朝が11も出来ましたが、最後の新バビロニアはアケメネス朝ペルシアにより滅ぼされています。

アケメネス朝ペルシア以降は、メソポタミアは世界の中心地ではなく、歴史に埋もれていきます。

新バビロニアがメソポタミア文明の最後の輝きと言ってもよいでしょう。

それらを考慮すると、紀元前539年の新バビロニアの崩壊を以ってメソポタミア文明の滅亡を考える事が出来そうです。

シュメール人とアッカド人(紀元前3500年頃~紀元前2004年)

紀元前3500年頃にメソポタミア地方の南部でシュメール人の都市が出来てメソポタミア文明が始まります。

シュメール人の都市であるウル、ウルクラガシュ、ウンマなどの都市が誕生し文明が発展していきます。

紀元前2500年頃になると楔形文字が誕生し、人類は文字で記録を残す有史時代に突入する事になったわけです。

シュメール人達は粘土板に文字を残し、今でもシュメール人達がシュメール語で書いた文字を読む事が出来ます。

メソポタミア地方の中部にはセム語系民族のアッカド人がいて、アッカドの英雄的な君主であるサルゴンが初のメソポタミア統一を成し遂げる事になります。

シュメール地方を統一したルガルザゲシに、アッカド地方のサルゴンが勝利した事で、アッカド帝国は誕生しました。

ただし、アッカド帝国は気候変動や他民族の侵入により長続きせずに国は衰え、シュメール人のウル第三王朝がメソポタミアの盟主になっています。

バビロニアとアッシリアの時代(紀元前2000年紀)

シリア地方にいたアムル人は、北方からやってきたインドヨーロッパ語族やアーリア人に土地を追われる事になります。

アムル人のいた土地には、フルリ人が建国したミタンニ王国が出来ます。

難民となったアムル人達は、メソポタミアに流れ込みウル第三王朝は大混乱となります。

シュメール人のウル第三王朝は飢饉なども重なり、エラム人により滅亡したとも考えられています。

メソポタミア地方は群雄割拠となりますが、群雄割拠を制したのがアムル人であり、バビロン第一王朝を建国しました。

バビロン第一王朝は、ハンムラビ王の時代に強勢となりバビロニアを本拠地とし大きく勢力を伸ばしています。

ハンムラビ王が制定したとされるハンムラビ法典は有名であり、法によって国を治めようとしたのが分かります。

ただし、ハンムラビ王の死後にバビロン第一王朝は、鉄の民族と呼ばれるヒッタイトの攻撃により滅亡し、海の民第一王朝やカッシート王国なども起こっています。

古代メソポタミアでは、バビロニアの都市であるバビロンが大発展する事になったわけです。

バビロニア地方はメソポタミア地方の中南部を指す言葉ですが、北方にはセム語系民族であるアッシリアがいました。

アッシリアのシャムシ・アダド1世は、即位当初のハンムラビ王が臣下の礼を取り、シャムシ・アダド1世から政治を学んだとも言われています。

紀元前2000年紀前半のメソポタミア文明では、南のバビロン、北のアッシリアという勢力図が展開されます。

ミタンニ王国が強勢となるとアッシリアは服属を余儀なくされますが、ヒッタイトがミタンニを破るとアッシリアも独立しています。

アッシリアは強国となり、バビロン第三王朝とも呼ばれるカッシート王国にも軍事面で優位に立ったわけです。

しかし、文化面においては、バビロニアの勢力がアッシリアを圧倒した話もあります。

尚、紀元前2000年紀はエジプトの勢力がシリアに遠征したりもしています。

紀元前1200年のカタストロフで地中海からやってきた海の民が暴れ出すと、メソポタミアにも波及する事になります。

この時期にカッシート王国も滅びる事になります。

世界帝国の誕生(紀元前1000年から紀元前539年)

時代が進むとメソポタミア地方の北部にいたアッシリアが勢力を伸ばし、メソポタミアだけではなくエジプトも含めた古代オリエントの大部分を統一する事になります。

世界帝国を築いたアッシリアを新アッシリア帝国と呼んだりもします。

しかし、アッシリアは短期間で滅び新バビロニア、メディア、リディア、エジプト末期王朝に分裂します。

新バビロニアがメソポタミア文明の最後の王朝であり、これ以降は世界の中心地はメソポタミアから外れる事になります。

新バビロニアは紀元前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世により征服され、これを持ってメソポタミア文明の滅亡と考えるのがよいでしょう。

アケメネス朝ペルシアはアラブ人の国であり、メソポタミアの地はアラブ人に征服されたと言う事です。

紀元前539年以降のメソポタミアの地は東西の強国に蹂躙される事が多く、世界の中心地では無くなってしまいます。

尚、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアは、かの有名なアレキサンダー大王により滅ぼされています。

さらに、時代が進むとメソポタミアの地はローマに征服されてしまいますし、以前の輝きは見られなくなります。

それらを考慮しても、新バビロニアの滅亡を以ってメソポタミア文明の終焉と言えるでしょう。

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