三国志 魏(三国志)

陽谿(ようけい)の戦いは蜀軍が魏軍を大破

2022年5月9日

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宮下悠史

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陽谿の戦い(ようけいのたたかい)西暦230年 
勢力
司令官魏延、呉懿郭淮、費瑶
兵力、損害不明不明
勝敗勝ち負け

陽谿の戦いは西暦230年に起きた蜀と魏の戦いです。

230年は魏の曹真が中心となり、四方面から蜀を攻撃した子午の役が起きた年でもあります。

この時に涼州方面から魏の郭淮と費瑶が漢中への進撃を行っています。

蜀では魏延と呉懿に迎撃させ、陽谿の戦いが勃発しました。

この時は魏延と呉懿が郭淮と費瑶を寄せ付けぬ戦いをし、蜀軍が魏軍を大破した話があります。

今回は蜀軍が魏軍を破った陽谿の戦いを解説します。

子午の役

第一次北伐が227年に行われてから、郝昭の守備が光った陳倉の戦いなど、蜀が攻めて魏が守るという戦いが続いていました。

これに対し魏では、曹真が中心となり、魏が蜀を攻撃する計画を立てたわけです。

曹真の計画は陳羣や華歆の反対もありましたが、曹真の本隊が子午谷道を攻撃し、司馬懿が荊州方面、張郃が斜谷道を抜け、郭淮が西部方面から進撃する事となりました。

この時に、涼州から進撃して来る郭淮と費瑶を、蜀の魏延と呉懿が迎え撃ったのが陽谿の戦いとなります。

子午の役では、曹真の軍の先陣となった夏侯覇が秦嶺山脈を抜け蜀軍と戦ったなどはありますが、曹真の本隊らは長雨が降った事もあり、漢中まで到達する事も出来なかったわけです。

それに比べ、蜀軍の方では、前年に呉の孫権が帝位に就くのを認め、呉との関係も良好でした。

諸葛亮は呉と親密な仲となった事で、呉の備えでもあった李厳を漢中に呼び寄せています。

蜀軍の防御態勢は万全であり、天候不順も重なった事で、魏の曹叡は曹真らには早めに撤退命令を出しました。

これにより子午の役で残ったのは、涼州方面での蜀の魏延と呉懿に対する、魏の郭淮と費瑶の戦いだけとなります。

陽谿で魏と蜀の戦いが勃発しています。

魏延と呉懿が圧勝

郭淮と費瑶は蜀の漢中に攻め込んだはずでした。

しかし、戦いが始まると魏延と呉懿に押されまくり、陽谿まで後退する事となった様です。

陽谿は諸葛亮が過去に攻撃した祁山や上邽よりも西にあり、魏延と呉懿は魏の奥地まで進撃した事になります。

蜀軍が魏軍を圧倒してしまったのでしょう。

魏延や呉懿は第一次北伐で、ベテラン将軍として街亭の守備に選ばれると、蜀軍の多くの人が考えていた話が残っています。

しかし、諸葛亮は魏延や呉懿ではなく馬謖を選び失敗するわけですが、陽谿の戦いでは素直に実績がある魏延と呉懿を選んだのでしょう。

魏延と呉懿は見事に役目を果たし、魏の領内の奥深くまで攻め込み、陽谿で魏軍を大破しました。

占領せず撤退

魏延と呉懿は陽谿の戦いで勝利しますが、涼州の占領は行わず引き上げています。

魏延と呉懿が陽谿の戦い後に占拠せず帰還した理由は、都市を占領しても維持が出来ないと判断した為でしょう。

それでも、魏延と呉懿が魏に完勝した事で、子午の役は蜀軍の大勝利に終わったと言えます。

魏延と呉懿は領地を増やす事は出来ませんでしたが、蜀の首脳部は戦果を挙げた事で、国内によいアピールが出来たはずです。

尚、翌年に諸葛亮は第四次北伐の軍を起こしますが、今度は蜀軍が天候不順により兵糧が続かず撤退しました。

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