名前 | 袁燿(えんよう) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 袁術→孫策→孫権 |
コメント | 袁術の子 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
袁燿は袁術の子であり、正史三国志の袁術伝に名前が見える人物です。
袁燿は袁術の子ですが、名前が登場するのが袁術の死後であり、袁術の生前にどの様な行動をしていたのかも不明です。
袁術と袁燿の親子関係なども記載がなく、袁術から可愛がれてていたのか、嫌われていたのかも分かりません。
袁燿は袁術死後に劉勲に身を寄せる事になりますが、劉勲が孫策に皖城を奪われ西塞山の戦いで敗れると、孫策に身を寄せています。
袁燿は孫策死後は孫権に仕えており、孫権も名門である汝南袁氏の血統を尊重したのか、袁術の娘・袁夫人を妃とし、袁燿を郎中に任命しました。
袁燿の娘は孫権の息子である孫奮に嫁がせるなど、呉では優遇された形跡が見受けられます。
今回は袁術の子で汝南袁氏の生き残りとも言える袁燿の解説をします。
袁術の子
袁術の子は数人はいたと思われますが、記載があるのが娘の袁夫人と子の袁燿だけです。
袁術は張炯の説を採用し、仲王朝を開きました。
袁術は仲王朝を建国した時に皇太子を立てた可能性もありますが、袁燿が皇太子に指名された記録もありません。
袁燿は数多くいた袁術の子の中の一人でしか無かった可能性もあると感じています。
尚、袁術の女性関係と言えば馮氏が有名ですが、袁燿が馮氏の子だったとする記述も見当たりません。。
袁燿は袁術の子だったという事しか、記載がない状態です。
因みに、袁術は孫策の事を高く評価し「孫策の様な子がいれば、自分はいつでも死ねる」と言った話があり、袁燿には孫策の様な覇気などは無かった様に思います。
劉勲に身を寄せる
袁術は呂布や曹操に敗れただけではなく、部下の雷薄、陳蘭に受け入れを拒否され、袁譚を頼りますが亡くなっています。
袁術は亡くなったわけですが、正史三国志には、次の記述が存在します。
※袁術伝の記述
袁術の妻子は廬江太守の劉勲の元に身を寄せた
妻子の記述がありますが、袁燿も「袁術の妻子」の中に含まれていたのでしょう。
正確な記録はありませんが、袁燿は袁術の死後に、袁胤や黄猗らと共に劉勲を頼った様に感じました。
この後に、劉勲は劉曄が率いていた鄭宝の軍も吸収し、旧袁術軍も配下とした事で兵力は膨大な数となりますが、食料が不足したわけです。
劉勲は孫策に策に引っ掛かり、本拠地の皖城を奪われ彭沢の戦いや西塞山の戦いでも完敗し、北方の曹操を頼り揚州を後にしました。
孫策は李術を廬江太守に推薦し、旧袁術軍を掌握しています。
この時に、孫策は大喬と小橋を得ており、後の袁夫人や袁燿なども孫策に引き取られる事になります。
袁氏を復興させる
袁燿は呉で世話になりますが、正史三国志に次の記述が存在します。
「袁術の娘は孫権の後宮に入り、袁術の子の袁燿は郎中に任命された。
袁燿の娘は孫権の子である孫奮が娶った」
袁燿は上記の記述から呉で重用された事が分かります。
袁燿が郎中に任命されたのは、孫権の後宮に袁夫人が入ったのも大きかった事でしょう。
袁燿の娘が孫権の子である孫奮に仕えた事も分かっています。
ただし、孫奮は258年に庶民に落された話があります。
孫賁は恩赦で復帰するも、270年に呉の最後の皇帝である孫晧により、孫奉と共に処刑されました。
しかし、この話は袁燿が孫家に仕えてから50年以上も後の話であり、袁燿は孫権の時代に亡くなったと考えるのが妥当だと感じました。
それを考えると袁燿は、娘婿の孫奮が失脚する前に亡くなったと考える方が自然と言うものでしょう。
尚、名門汝南袁氏は袁紹と袁術が有名ですが、袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れ、子の袁譚、袁煕、袁尚も曹操により滅ぼされています。
袁術も行き場を失くし亡くなっています。
それを考えると、袁燿は汝南袁氏の生き残りとなり、呉で汝南袁氏を復興させたとも言えそうです。
袁燿の能力値
三国志14 | 統率41 | 武力48 | 知力41 | 政治48 | 魅力52 |