その他 三国志

黄猗(こうい)は栄光と悲哀を目撃した

2022年3月31日

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名前黄猗(こうい)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力袁術
年表199年 劉勲を頼る

黄猗は袁術に仕えた人物です。

袁術が生きている時代に、黄猗が何をしたのかは分かっている事がありません。

しかし、黄猗は袁術の娘婿であり、それらを考慮すると袁術が開いた仲王朝の中でも、高位に昇った様に感じています。

袁術が199年に、この世を去ると黄猗は袁胤と共に、旧袁術軍を率いて劉勲を頼りました。

これが黄猗の唯一の記述であり、旧袁術軍を率いた中で中心人物だった事が分かります。

尚、黄猗は袁術の棺を担いで、劉勲を頼りますが、その後の記録がなくどうなったのかは不明です。

個人的な考えとしては、孫策や孫権の取り計らいにより、孫家に仕えた様に思います。

因みに、黄猗は袁術が仲王朝を開く所から、はちみつが欲しいと述べ、亡くなる所まで目撃したはずであり、袁術の栄光と悲哀を間近で目撃した人物にも感じました。

仲王朝の重臣

黄猗は先に述べた様に、袁術の娘婿であり、袁術の一族と言ってよい程の人物になるはずです。

黄猗が袁術に仕えた時期は分かりませんが、袁術と行動を共にした事は間違いないでしょう。

袁術は僭称ではありますが、皇帝となり仲王朝を開いた実績?があります。

想像になってしまうのですが、袁術が仲王朝を開き皇帝を名乗ると、黄猗も重臣として重用され、高位に就いたと思われます。

ただし、袁術が皇帝に即位する時に、閻象殷の紂王周の文王を例に出し皇帝即位に反対しましたが、袁術は張炯の説により皇帝に即位しました。

黄猗が袁術が皇帝になるのに賛成だったのか、反対だったのかは不明ですが、袁術が皇帝となる最も輝かしい瞬間を目撃したとも言えるでしょう。

袁術の最後

袁術は197年に皇帝となりますが、孫策には絶縁され曹操に敗れるなど、袁術の勢力は弱体化に突き進む事になります。

199年の段階になると、袁術は深刻な食糧不足などもあり、勢力を維持する事が出来ず、同じく汝南袁氏の袁紹を頼りました。

2年前まで皇帝を名乗っていた袁術が、一気に落ちぶれてしまったわけです。

黄猗も袁術と行動を共にしていたはずであり、袁術の落ちぶれる様を目撃したと感じます。

袁術は最後に「はちみつ」を所望して亡くなった話がありますが、黄猗にとってみれば衝撃の出来事だった様に思います。

黄猗は反面教師ではありますが、袁術の栄光と悲哀を短期間で目撃した事になるでしょう。

袁術軍を率いる

袁術が亡くなった後ですが、正史三国志の孫破虜討逆伝によれば、次の記述が存在します

「袁術が亡くなった。袁術の従弟の袁胤、娘婿の黄猗らは曹公(曹操)を畏れ、寿春を守る様な事はせず、袁術の棺を担ぎ妻子や配下の者を引き連れて皖城の劉勲を頼った」

上記の記述から袁術の死後は袁胤と黄猗が中心となり、劉勲を頼った事が分かります。

この時の黄猗や袁胤が率いた旧袁術軍の中には、袁術の子・袁燿、喬玄の娘で美人姉妹の大喬・小橋、後の袁夫人、歩夫人などがいた事が分かっています。

劉勲も袁術配下として廬江太守にもなった人物ですが、劉勲は旧袁術軍の張勲楊弘などは捕虜とし軍勢を奪いました。

しかし、黄猗や袁胤が袁術の棺を担いでいたせいか、劉勲は黄猗や袁胤を受け入れています。

劉勲は黄猗や袁胤を受け入れた事で、養う人数が膨張し過ぎてしまい食料不足に陥り、劉偕を使者として華歆に食料を求めています。

劉勲は黄猗を助けようとした様にも見えますが、結局は勢力を維持する事が出来ず、本拠地の皖城は孫策や周瑜に奪われています。

記録はありませんが、孫策と周瑜が皖城を落とした時に、旧袁術軍を支配下に組み込んでおり、このタイミングで黄猗も孫家の庇護を受ける様になったと感じます。

孫家では袁術の一族を厚遇した形跡が見られ、袁夫人は孫権の妻となり、袁燿も呉に仕える事になりました。

これらを考えると、黄猗や袁胤も孫家に庇護された様に感じます。

ただし、正確な記録があるわけではなく、黄猗に関しては不明な点が多いです。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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