何祗は蜀の人物であり、諸葛亮にも評価された人物です。
正史三国志にも名前が記載されいます。
何祗は豪快な性格ではあったようですが、怠け癖もあったのか職務を滞らせたりもしました。
しかし、頭脳は明晰であり居眠りをしながらも的確に仕事をしたり、抜群の記憶力を発揮した話があります。
何祗は篤実の人でもあり、友人の張嶷を助ける為に財産を傾けてしまったなどの逸話も残っています。
何祗は正史三国志に伝はありませんが、楊洪伝の注釈・益部耆旧伝や張嶷伝に名前を見る事が出来ます。
豪快なタイプの人間
正史三国志の楊洪伝の注釈・益部耆旧伝によれば、何祗の字は君粛で若い頃は貧乏だったとあります。
しかし、何祗の性格は寛容で情に厚く、さばけた人柄で体格に優れていたとあります。
さらに、音楽や酒、女色を好むなど、何祗はしっかりと遊び、節度が無かった様な事も記載されています。
この辺りは若気の至りと、見る事も出来るはずです。
何祗はガタイがよくて、親分肌の人間だったのでしょう。
何祗はこうした性格や態度もあり、若い頃は尊重される事が少なかったわけですが、ある日、「井戸の中に桑が生える」という不思議な夢を見ました。
不思議に思った何祗は、夢占いの専門家である趙直に夢の内容を聞きに行きます。
趙直は夢の内容から、何祗の寿命が48歳だと述べました。
何祗は趙直の話を聞くと笑って「それだけ生きる事が出来れば十分だ」と答えた話があります。
後に趙直の予言は成就する事となります。
どうすれば馬が走るのか?
後に何祗は仕官する事となります。
ただし、何祗は仕官しても仕事は真面目にやらなかった様です。
益部耆旧伝の雑記によると、何祗は朝会の時はいつも楊洪の次の席に座ったと書かれています。
ある時に、楊洪は何祗に次の様に述べました。
楊洪「君の馬はどうすれば走るのか」
楊洪は仕事をしない何祗に対し、からかって言ったわけです。
これに対し、何祗は次の様に返答しました。
何祗「私の馬が思い切って走らないのは、明府が鞭を与えていないからです」
何祗は自分が一生懸命仕事をしないのは「やらざるを得ない状況に陥っていないからだ」と答えたわけです。
人々は何祗と楊洪の話を聞くと、笑いの種としたとあります。
一夜漬けの達人
劉備が亡くなると、劉禅が即位しますが、政務を取り仕切ったのは諸葛亮です。
何祗は最初は郡に仕官しましたが、後に督軍従事に任命されました。
督軍従事は益州牧の属官であり、諸葛亮の下に配属され獄を司る役人だったとも考えられています。
諸葛亮は劉璋時代の緩み切った法令を打破する為に、厳格な政治を行いましたが、何祗が遊蕩に耽り遊び惚けていると耳にします。
諸葛亮は何祗を取り調べる為に、抜き打ちで調査を行う事を決めます。
何祗は仕事は真面目にやりませんでしたが、人望はあったのか人々は何祗を心配し、諸葛亮が抜き打ち検査をする事が何祗の耳に入りました。
何祗は翌日の朝に、諸葛亮が調査に来る事を知るや、夜のうちに罪人を調べ罪状を読み上げたわけです。
何祗は諸葛亮対策として、一夜漬けで答える様にしたとも言えます。
諸葛亮が早朝から何祗を調べると、何祗は全てを暗記しており、流れる様にスムーズに受けごたえしました。
諸葛亮は何祗の事を有能だと思い高く評価したわけです。
諸葛亮との逸話を考えると、何祗は抜群の記憶力を持っており、頭脳明晰だった事が分かります。
何祗は放蕩生活をしていても「やれば出来る人」だったのでしょう。
居眠りをしながら的確に仕事をこなす
後に何祗は成都の令に任じられます。
この時に、郫県の県令に欠員が出た事で、何祗は二県を担当する事になりました。
何祗の能力を高く評価した諸葛亮により、二県を任せる事になったのでしょう。
何祗が任された成都と郫県は人口がやたらに多く、都に近接しており悪事を働く者が多かったとあります。
この時の何祗の働きぶりを示す逸話があり、何祗は取り調べを行う時に居眠りをしていました。
仕事中に居眠りをしていれば普通で考えれば「けしからん」となるでしょう。
しかし、何祗の場合は思う所があった場合は、直ぐに誤魔化しを見破ったとあります。
何祗は居眠りをしていながらも、的確に仕事をした事で、人々は何祗に対し「魔法を使ったのか!?」と恐れた話があります。
多くの者が何祗の摘発を恐れ、誤魔化そうとする者はいなくなりました。
何祗の優れた頭脳の逸話はこれだけではなく、算盤を側の者に持たせおき、何祗は読み上げる声だけを聴き、暗算を行い間違う所が無かった話もあります。
何祗は事務処理能力に関しては、かなり高い能力を持っていたのでしょう。
汶山の統治
汶山の異民族が不穏が動きを見せると、何祗が汶山太守となります。
何祗が汶山太守になるや官民も異民族も、何祗を信頼し服従したとあります。
汶山は辺境の地にあり治めにくい地域でしたが、ここでも何祗は能力を発揮したのでしょう。
汶山が治まった事で、何祗は転任し広漢太守となりますが、汶山は再び異民族が不穏な動きを見せました。
この時に、異民族は次の様に述べた話があります。
前任者の何祗が来れば、我等を落ち着かせる事が出来るであろう。
異民族の言葉を見るに、何祗がどれだけ人に好かれていたのかが分かります。
しかし、朝廷にも何かしらの理由があった様で、何祗を汶山に向かわせる事が出来ませんでした。
そこで蜀の朝廷では、何祗の一族の者を汶山太守に任命し、統治させると汶山は再び落ち着きを取り戻したとあります。
張嶷を助ける
張嶷は過去に何祗と交流を持った事がありました。
しかし、何祗と張嶷は暫く疎遠になっており、関係は薄れていたわけです。
何祗が広漢太守をやっていた時代になると、何祗は博愛の人として評判の人物になっていました。
この頃になると、何祗も年を取った事もあり、かなり丸くなっていた様に思います。
張嶷は貧乏で病気になってしまい満足に動けなかったわけですが、旧友の何祗を頼りました。
張嶷は何祗に病を治してくれる様に頼むと、何祗は疎遠になっていたにも関わらず、張嶷の為に動く事となります。
張嶷の病が癒えるにのは数年を要しましたが、この間に何祗は財産を傾けて張嶷を助けたと記録されています。
何祗の援助もあり張嶷は病が治ると、蜀の名将としての道を歩む事になります。
何祗がいなければ張嶷の活躍はなかったのでしょう。
友人の為に財産を惜しまないのは、何祗の人柄を現わしている様に思いました。
何祗の最期
朝廷はこの後に、何祗を犍為太守に転任させた話があります。
しかし、犍為太守になってからは、どの様な活躍をしたのかは不明であり、何祗は48歳で亡くなったとあります。
先にも述べた様に、趙直の予言が的中し、何祗は48歳で亡くなったわけです。
ただし、何祗が亡くなったのが何年なのかは分かっていません。
後に広漢太守に王離(字は伯元)がなり、何祗と同様に犍為太守に転任した話があります。
同じ様な道を歩んだ何祗と王離は比較された様であり、聡明さにおいては何祗に軍配があがり、文章表現においては王離の方が勝っていたと評価されています。
何祗は知名度は低いですが、能力も人格も優れた人物だったと言えます。