梁由靡は晋の大臣の一人であり、晋の献公や晋の恵公に仕えた人物でもあります。
梁由靡は采桑の戦いや韓原の戦いで御者をしていた記録があります。
采桑の戦いの戦車の車右は虢射が務めており、戦いには滅法強かったのではないか?とも考えられます。
梁由靡と虢射が操る戦車は翟の軍を破り、韓原の戦いでは秦の穆公を追い詰めました。
それを考えると、梁由靡は身体能力がかなり高く馬の扱いには巧みだったのではないか?と考えられます。
尚、梁由靡の言葉を見るに、かなり厳格な人物であり、虢射と同様に情が混ざらない進言をしていると感じました。
梁由靡は厳格な人ではありましたが「徳」の人ではなかった様に思います。
采桑の戦い
紀元前652年に起きた采桑の戦いは、晋が翟を攻撃し起きた戦いです。
この戦いに、梁由靡も参戦した記録があります。
晋の献公が驪姫を寵愛した事で、晋は乱れ有力公子の一人である重耳は翟に亡命しました。
晋の献公は重耳を始末する為に、里克を総大将とし、梁由靡と虢射も付けて出陣させています。
采桑の戦いでは里克の戦車の御者に梁由靡がなり、車右は虢射となりました。
梁由靡は総大将の里克の御者をしている辺りを見ても、戦車の扱いには慣れていたのでしょう。
晋軍は翟の軍を破りますが、里克は追撃しようとはしませんでした。
ここで、梁由靡は次の様に述べています
梁由靡「翟は恥知らずの輩であり、敵から逃げる事も屈辱だとは考えていません。
敗れて逃げる翟の軍を追撃すれば大戦果を挙げる事が出来ます」
梁由靡は翟軍を追撃し、徹底的に打ち破る様に主張したわけです。
車右の虢射も「追撃をしなければ、来年は翟に攻められる」と述べ、追撃する様に進言しました。
しかし、総大将の里克は翟の追撃を行わずに、晋に引き返しています。
里克は翟にいる重耳に対し、同情的であり翟が大敗すれば重耳の身が危うくなると考え、里克は追撃を断念した様に感じています。
尚、里克のこの様な態度は梁由靡や虢射にとっては、歯がゆかったのかも知れません。
秦への使者となる
晋の献公が紀元前651年に亡くなると、里克と丕鄭が驪姫の一味を排除する為に動きます。
里克と丕鄭は驪姫、奚斉、卓子を討ち取りました。
ここで晋の大臣達は、誰を晋君に立てるのか?で相談しますが、国外にいる公子を晋に迎え入れようと考えます。
晋の大臣・呂甥が秦の穆公の後ろ盾を得た上で、晋の公子が晋君になった方がよいと意見しました。
晋の大夫たちも呂甥の意見に賛同します。
この時に、秦への使者となったのが梁由靡です。
梁由靡は秦に向かい穆公に会うと、次の様に述べました。
梁由靡「天は晋に禍いを降しました。多くの讒言により公子達は害されています。
晋の献公の子らは国外に逃れたり、民間に隠れたりして頼るべき者もいません。
また、晋の献公の死により喪と乱が同時に起きてしまいました。
既に秦の君主(穆公)の霊威により驪姫らは滅びましたが、晋の群臣らはまだ安定を取り戻してはいません。
秦国が晋の社稷を顧み先君を忘れる事がないのであれば、亡命した晋の公子の中から晋の君主を選び、晋の祭祀を継がせ国家と民衆を鎮撫させて頂きたい。
四方の諸侯がこの話を聞けば、誰もが秦の威勢を恐れ、その徳に敬意を表するはずです。
晋の大臣達も秦君に感謝し、帰順を願う事でしょう」
秦の穆公は梁由靡の話を聞くと同意し、梁由靡を晋に帰らせました。
この後に、秦の穆公は孟明視と公孫枝を呼び出して相談し、公子縶に重耳と夷吾の様子を観察させています。
公子縶が秦の穆公に夷吾を晋に入れる様に進言した事で、夷吾が新たに晋の君主となります。
梁由靡は任務を達成したというべきでしょう。
韓原の戦い
夷吾は晋に戻ると、晋の恵公として即位しました。
晋の恵公は徳の薄い人であり、秦との約束を反故にしたり、秦が飢饉になると秦に攻撃を仕掛けてきたわけです。
秦と晋の間で紀元前645年に韓原の戦いが勃発しました。
この時に、韓簡の戦車の御者になったのが梁由靡であり、車右が虢射となります。
采桑の戦いで活躍した梁由靡と虢射のコンビが復活したわけです。
韓原の戦いでの韓簡、梁由靡、虢射の戦車は勢いがあり、秦の穆公を捕える寸前まで行きます。
梁由靡らは、もう少しで秦の穆公を捕える事が出来ましたが、ここで晋の大臣である慶鄭が現れ「晋の恵公を助ける様に」と述べます。
これにより梁由靡らは秦の穆公への追撃を諦めました。
しかし、結局は晋の恵公が捕虜となり韓原の戦いは、秦の勝利となります。
韓原の戦いでは梁由靡は奮戦しましたが、晋では虢射と慶鄭の内部分裂もあり、敗れたとも言えます。
慶鄭の処遇
晋の恵公は秦軍に捕らえられましたが、晋への帰国が許されました。
この時に、慶鄭の処遇が問題となります。
慶鄭は死を望み、晋の恵公は処刑しようとしますが、蛾析は慶鄭を許して仇討に使うべきだと述べます。
蛾析の言葉に対し、梁由靡は次の様に述べました。
梁由靡「我等が罪人である慶鄭を許してしまえば、秦も必ず同じ事をするはずです。
それに戦いに勝てないからと言って暗殺を使うのは「武」ではありません。
国を出て戦っても勝利を挙げる事が出来ず、帰国しても動揺を抑える事が出来なければ「智」とは言えません。
秦との講和が成立しているのに裏切るのは問題ですし、刑罰を正しく使わずに政治を乱せば威が無くなります。
戦いに勝利する事が出来ず国を治めるのに失敗すれば、国が弱まり秦への人質である太子圉の命が危うくなります。
刑を実行するのが最良です」
ここで名前が挙がった太子圉が、後の晋の懐公です。
梁由靡は晋の恵公に刑罰を行い、慶鄭を処刑する様に進言しました。
晋の恵公も慶鄭を処刑しようとしますが、またもや慶鄭を庇う意見が出ます。
ここで梁由靡は次の様に述べました。
梁由靡「国君の制令は国を治める為にあるのです。
命令がないのに勝手に進退を決めるのは、制令を破る事になります。
自分が満足したいが為に国君を失うのは、背信行為でしかありません。
慶鄭は国を混乱に導き、戦になると勝手に退き逃走しております。
これからの事を考えると、慶鄭には自刃させるのではなく処刑が妥当です」
梁由靡は慶鄭を処刑する様に進言し、晋の恵公も許した事で慶鄭は処刑される事となりました。
韓原の戦いでは梁由靡は秦の穆公を追い詰めており、慶鄭が余計な事を述べなければ戦いに勝利していたと考えていたのかも知れません。
梁由靡にとってみれば慶鄭は「余計な事をしてくれた人」になる様にも感じました。
尚、これが梁由靡の最後の記録であり、この後にどの様になったのかは不明です。