古代日本 古墳時代

安東将軍(安東大将軍)は倭国とも関係が深い将軍号

2024年4月25日

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宮下悠史

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名前安東将軍
安東大将軍
年表421年 倭王賛が安東将軍となる
438年 倭王珍が安東将軍となる
451年 倭王済が安東大将軍となる
462年 倭王興が安東将軍となる
478年 倭王武が安東大将軍となる
コメント倭の五王が任命された将軍号

安東将軍や安東大将軍は宋や斉、梁などの中国の南朝から下賜された将軍号です。

安東将軍の上位版が安東大将軍となり、倭の五王の中では倭王賛倭王珍倭王興が安東将軍に任命され、倭王済は安東将軍から安東大将軍にステップアップし、倭王武は最初から安東大将軍でした。

倭の五王らは南朝の宋などから安東将軍に冊封される事で、将軍府を開設する事が可能となります。

倭の五王の時代は朝鮮半島で倭国、高句麗、百済、新羅が争っており、倭国としては朝鮮半島を治める為に権威が必要であり、宋に冊封される事を願ったのでしょう。

因みに、安東将軍は倭国王専用の将軍位というわけではなく、三国志陶謙や魏や西晋に仕えた陳騫、呉の徐盛なども安東将軍に任ぜられています。

安東将軍は中国では三品将軍であり、四安将軍(安東将軍・安南将軍・安西将軍・安北将軍)の一角を為す将軍位です。

ただし、四征将軍、四鎮将軍の下位となり、四平将軍の上位となります。

倭王讃が安東将軍に就任

一般的には空白の150年が終わり421年に倭王賛が朝貢を行い官爵を授けられたと宋書倭国伝に記述されています。

官爵を授けたと書かれているだけですが、実際には安東将軍・倭国王に冊封されたと考えられています。

倭王賛が日本で最初の安東将軍になった人物であり、倭の五王倭王珍倭王興も安東将軍に冊封されました。

安東将軍を冊封される意味

倭の五王が安東将軍や安東大将軍・倭国王に冊封された事は既に述べました。

倭国王は宋の外藩となり、宋の中心とする秩序に加わった事を意味します。

勿論、建前上ではありますが、宋の皇帝と倭の五王らは君臣関係を結んだ事になるわけです。

安東将軍は軍を率いる権限を手に入れた事を指します。

将軍と言えば軍事的な役職だけに思うかも知れませんが、宋の時代には身分を示す役割にもなっていました。

倭国が安東大将軍を授与された時に、既に高句麗は征東大将軍となっており、百済は鎮東大将軍となっています。

(425年の将軍号)

征東、鎮東、安東は全て三品将軍ですが、役職で言えば高句麗の征東、百済の鎮東、倭国の安東となっており、倭国の安東将軍は高句麗や百済よりも官爵が低い事になります。

さらに、倭国が安東将軍なのに対し、高句麗は征東大将軍、百済が鎮東大将軍と将軍位に「大」が付いており、倭国は後れを取っているといえるでしょう。

ただし、倭国が宋の官爵の中で高句麗や百済よりも低いと言っても、国力が低いとは限らず、宋にとって北魏への権勢に最も適当な高句麗を優遇しているに過ぎないと見る事も出来ます。

他にも高句麗が最も早く東晋や宋に朝貢を行い百済が二番手となり、倭国が一番遅くに朝貢を行った事で、将軍位が一番下だったともされています。

安東将軍府の開府

倭の五王は宋から安東将軍などの将軍位を得る事で将軍府を開設しました。

安東将軍府という幕府を開いたと思えばよいでしょう。

例を挙げれば最初に安東将軍に任ぜられた倭王賛は名目として宋の為に活動する役所を開いた事になります。

倭王賛は将軍府のトップとなりますが、部下達に幕僚としての任命権も持つ事になったわけです。

これにより、倭王賛は配下の者達に司馬、従軍中郎、参軍などの役職を与える事が出来る様になりました。

実際に倭国は425年に司馬曹達を宋に派遣していますが、「司馬」の部分は官爵であり倭王賛が任命したのでしょう。

宋から将軍位を任命される事で、軍府を開き幕僚を府官に任命する仕組みを府官制と呼びます。

安東大将軍府の終焉

倭王済の時代である451年に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」となり新羅、任那などの軍権も与えられる事になります。

さらに、倭王武の時代である478年には「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」となり、倭国の将軍号も安東将軍から安東大将軍へとランクアップしました。

この時の倭王武の上表文が倭国宋書伝に掲載され注目を集めています。

479年に宋が禅譲により滅び南斉が勃興すると南斉は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍へと昇進させました。

中国では南斉が早々と滅び南朝の梁が興ると、梁の武帝は倭王武を鎮東将軍から征東大将軍へと進号させています。

しかし、倭国は南斉や梁に朝貢を行っていないとも考えられ、これにより倭国は中華王朝との冊封関係は終焉を迎えたと言えるでしょう。

倭王武の時代には安東大将軍府も消滅したと言えそうです。

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