
| 名前 | アルマンゾール |
| 生没年 | 生年不明ー1002年頃 |
| 国 | 後ウマイヤ朝 |
| コメント | 生涯で50回を超える遠征を行った記録がある。 |
アルマンゾールは後ウマイヤ朝のヒシャーム2世の時代に宰相となり、実権を握った人物です。
戦には滅法強いのがアルマンゾールであり、レオン王国やナバラ王国の軍を何度も破りました。
アルマンゾールは生涯で50回を超える遠征を行ったと記録されています。
しかし、アルマンゾールの目的は征服ではなく略奪であり、レオン王国やナバラ王国などのキリスト教国は生き残りました。
後ウマイヤ朝にとってアルマンゾールの存在は大きく亡くなると、一気に弱体化し滅亡すると、時代はイスラム諸侯乱立のタイファの時代に突入する事になります。
アルマンゾールの圧倒的な軍事能力
後ウマイヤ朝はアブド・アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎えましたが、その孫ヒシャーム2世の治世には、宰相アルマンゾールが実質的な権力を握り、軍事的にも政治的にも圧倒的な存在となりました。
アルマンゾールは生涯で50回以上の遠征を行ったと伝えられています。
977年にはサラマンカ、978年にはパンプローナとバルセロナ、979年にはサラモ、980年にはメディナ・セリへと遠征し、ほぼ毎年のようにキリスト教諸国へ攻撃を仕掛けていました。
アルマンゾールはハカム2世の治世に将軍ガリブの娘と結婚していましたが、義父ガリブとは政治的に対立していました。
ガリブは「アルマンゾールがカリフ・ヒシャーム2世の権威を奪っている」と批判し、ヒシャーム2世の財産を守ると宣言して軍の一部を掌握しました。
カリフではないアルマンゾールの独裁に対し、ガリブが反発したことで両者の対立は頂点に達します。
この状況を見たレオン王国のラミロ3世は、「イスラム内部の混乱は好機である」と判断し、ガリブを支援して後ウマイヤ朝の内紛を助長しようとしました。
しかし、ガリブはアルマンゾールに敗れて戦死し、アルマンゾールの権力はむしろ強化される結果となりました。
アルマンゾールは怒りの矛先をレオン王国へ向け、サモラ周辺を攻撃しました。
レオン王国はナバラ王国やカスティーリャ伯に援軍を求め、キリスト教諸国の連合軍を結成します。
しかし、トルデシリャス南方のルエダで行われた決戦では敗北したとされています。
敗れたナバラ王サンチョ2世は、和平の条件として娘ウラカをアルマンゾールに差し出しました。
ウラカはイスラム名「アブダ」に改名し、後ウマイヤ朝の宮廷に入ったと伝えられています。
翌年もキリスト教三国は連合してアルマンゾールとシマンカスで戦いましたが、再び敗北を喫しました。
アルマンゾールの圧倒的な戦の上手さの前に、レオン王国やナバラ王国などは連合して戦いますが、苦戦する事になります。
アルマンゾールの目的
これほど多くの戦いに勝利しながら、アルマンゾールがイベリア半島を統一しなかったことを疑問に思うかもしれません。
しかし、アルマンゾールの軍事行動には明確な目的があり、それは「征服」ではなく「略奪による軍事力維持」でした。
アルマンゾールはアラブ系の貴族層を信用しておらず、彼の軍隊の主力は、北アフリカ出身のベルベル人で構成されていたと考えられています。
この軍隊を維持するためには、金銀財宝や奴隷などの戦利品が不可欠でした。
そのためアルマンゾールは、キリスト教国を攻撃して戦利品を奪い、コルドバへ持ち帰ることを繰り返したのです。
彼にとってキリスト教国は「滅ぼす対象」ではなく、軍隊を養うための恒常的な略奪対象でした。
もしキリスト教国を完全に滅ぼしてしまえば、戦利品を得る機会が失われてしまいます。
したがって、アルマンゾールは重要拠点を攻撃しても、その地を支配しようとはしませんでした。
アルマンゾールは、
1. 略奪で部下を潤し忠誠を得る
2. その戦利品で軍隊を補強する
3. 再びキリスト教国を攻撃する
という循環を維持していたのです。
アルマンゾールの最後
アルマンゾールは西暦1002年頃に亡くなったと考えられています。
アルマンゾールが亡くなると、後ウマイヤ朝は国を纏める事が難しくなり、一気に弱体化しました。
後ウマイヤ朝は崩壊に向かいタイファと呼ばれる小国が乱立する時代となります。
当然ながら、レオン王国やナバラ王国などにとっては好機到来であり、勢力を伸ばす事になります。
アルマンゾールの死は大きかったと言えるでしょう。