足利義詮は室町幕府の二代将軍となった人物です。
室町幕府の初代征夷大将軍である足利尊氏は戦乱を終わらせずに世を去っており、南朝と北朝に分かれて戦う南北朝時代は義詮の時代になっても続きました。
足利義詮の評価としては「人に流されやすい性格」とされていますが、実際の足利義詮は目の前の事に集中になりふり構わず勝ちに行くスタイルを貫いています。
観応の擾乱では足利直義に対処する為に南朝に降伏するなどもしました。
正平一統が破棄されると足利義詮は北朝の皇族を置き去りにしてしまうという暴挙を行っています。
佐々木道誉の策で北朝は復活し後光厳天皇が即位しますが、正統性に疑問符をつけられたりもしています。
足利義詮は次々に起きる問題を解決してきますが、最終的には38歳の若さで世を去り戦乱を終わらす事が出来ませんでした。
後継者の足利義満の後見人として細川頼之を指名し、南北朝時代は足利義満により終わりを告げる事になります。
足利義詮の幼少期
足利義詮は元徳2年(1330年)に足利尊氏と赤橋登子との間に生まれました。
腹違いの兄として足利直冬もおり、後には同母弟の足利基氏も誕生する事になります。
母親の赤橋登子は鎌倉幕府の執権である赤橋守時の妹です。
この時代は後醍醐天皇が倒幕を目指していた時代であり、幕府軍の名越高家が打たれると足利尊氏が後醍醐方に寝返りました。
足利尊氏は京都の六波羅探題を滅ぼしますが、足利尊氏の突如とした寝返りは鎌倉にいた義詮を身の危険にさらす事になります。
義詮は家来に連れられ新田義貞の陣に逃げ込みました。
新田義貞の軍では義詮は尊氏の名代として扱われ、多くの武士が新田軍に集まり鎌倉幕府を滅ぼしています。
足利義詮の血統の良さが権威となり鎌倉幕府を滅ぼした部分もあるのでしょう。
鎌倉幕府滅亡後も義詮は鎌倉に残る事になります。
鎌倉府の責任者が足利直義になった事に始まり、奥州の北畠顕家と戦った斯波家長、高師直の一族である高師冬、関東を任された直義と近しい上杉憲顕らに補佐されながら義詮は成長する事になります。
義詮は子供の頃から周りの大人の意見を聞き育ったと言えます。
尚、義詮の生母の赤橋登子は実家である北条氏が滅んでしまった事で、不安定になり足利直冬を極度に嫌っていた話も残っています。
幕府の中枢に入る
足利義詮は鎌倉で過ごす事になりますが、1349年に観応の擾乱と呼ばれる幕府内の混乱があり高師直や高師泰により足利直義が出家し政務を引退しました。
これに合わせて上杉重能と畠山直宗も失脚しています。
足利直義は三条殿と呼ばれており実質的な幕府の最高権力者だったわけですが、ここを引き去り足利義詮に譲る事になります。
直義の失脚に関しては、尊氏の意向が働いたとする説もあります。
洞院公賢の日記である園太暦や今川了俊の難太平記らなどの記述を合わせて考えると、実質的な室町幕府の最高権力者である足利直義に対し、尊氏は政権のトップの座を義詮に譲る事を望んでいたと言います。
足利直義は長らく子供が出来ず足利直冬を養子としていましたが、直義の正妻である渋川氏が42歳にして男子を産みました。
尊氏は「直義には子がいないから、いずれは義詮に政権を譲る」と考えていましたが、直義に実子が生まれた事で暗雲が立ち込めて来たわけです。
太平記では征夷大将軍になりながらも無念の死を遂げた護良親王の亡霊が渋川氏の腹に宿ったとする記述もあります。
尊氏の考えは今となっては分かりませんが、1349年に足利義詮が直義に代わり三条坊門第に入り政務を行う事になります。
三条坊門第の周辺には有力大名や幕府で職務を行う人々の邸宅があり、ここで評定や引付けなどの機構が集中しており、義詮が政務の中心になったと言えるでしょう。
出家した直義は細川顕氏や錦小路堀川邸に移っています。
義詮が京都に移った事で、鎌倉には足利基氏が入る事になります。
義詮の京都脱出
足利義詮は室町幕府の中枢で政務を執る事になりますが、長門探題の足利直冬が尊氏の出家要請に応じませんでした。
足利尊氏は高師直と共に直冬討伐に向かいますが、この時に足利直義が動き南朝に降伏しています。
鎌倉幕府の最高権力者だった直義の南朝降服により多くの者が直義に味方し北朝の幕府を離れました。
大和で挙兵した直義に対し義詮は京都を守り切れないと判断し、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇らを都に残して足利尊氏に合流しています。
足利直義の目的は高師直の排除にあり、北朝の皇族に危害を加える気はなかった事で、皇族は無事だったわけです。
足利直義は打出浜の戦いで足利尊氏、高師直らを破りました。
高師直は後に殺害され、足利義詮を直義が補佐する形でまとまる事になります。
義詮と直義
足利義詮と直義ですが、共に尊氏からは可愛がられていましたが、二人の仲は冷え切っていたともされています。
直義と義詮が不和になる理由ですが、直義の養子で義詮の兄である足利直冬が原因だとも考えられています。
実際に園太暦では直義が義詮の元に来た時に、そっけたい態度を取った事も記録されているわけです。
高師直は足利義詮を推しており、自分の支持者でもあった高師直を討った足利直義に対して気に食わない部分もあったのでしょう。
足利直義は清廉潔白な人物であり、伝統などを重んじる性格ですが、足利義詮は状況に応じて変化していくタイプだとされています。
足利義詮は太平記では「人の意見に左右される人」とありますが、状況に応じて適宜変化していく対応が得意だったと考えられているわけです。
古来からの秩序を重んじる直義に対し、義詮は状況を柔軟に変える事を重視し、考え方がそもそも合わなかったのではないかと指摘されています。
尚、義詮の時代に南朝に何度か京都を奪還されていますが、義詮は毎回の様に短期間で奪い返しています。
京都は交通の要衝で平地もあり発展しやすい土壌はありますが、戦いとなれば守りにくい状況であり、義詮は余力を残して京都を南朝に明け渡し、再び京都に侵攻し奪還しているわけです。
義詮のわざと京都を南朝に占拠させるやり方も、目の前の状況に応じて変化させていく対応だと言えるでしょう。
南朝への降伏
足利義詮の突発的な対応の最たるものが、南朝への降伏でしょう。
近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝に降るという事件が勃発しました。
これにより足利尊氏は近江に向かい、足利義詮は播磨に軍を率いて向かう事になります。
表向きの足利義詮は赤松則祐を討つために播磨に出陣しますが、既にこの時の義詮は南朝への降伏を考えていたとされています。
直義は既に南朝との両統迭立などの交渉に失敗しており、南朝からの信頼を失っており、ここで義詮が南朝に降伏すれば直義を打倒出来ると言う算段だったと考えられています。
京都にいる直義は尊氏と義詮に挟撃されるのではないかと疑い北陸に出奔しました。
関東では直義派の上杉憲顕が足利基氏を推戴しており、直義は鎌倉に入る事になります。
足利義詮は南朝は両統迭立では納得しないと考え、北朝を廃す事を条件に南朝に降伏しました。
足利義詮は直義打倒の為に南朝への無条件での全面降伏を選択したとも言えるでしょう。
尊氏は直義と最後まで和睦をしたかったとも考えていた様で、難色を示しますが、結局は南朝への降伏を決断し直義討伐に向けて関東に兵を進めています。
これにより尊氏が関東に兵を出しても、南朝に背後を衝かれる心配はないと義詮は考えたはずです。
尊氏は南朝への降伏は決断が中々できませんでしたが、足利義詮、佐々木道誉、赤松則祐が率先して南朝に降伏した事で、南朝への降伏を決断せねばならなくなったとも言えます。
足利義詮の南朝への臣従により北朝は消滅しました。
これを正平一統と呼びます。
足利義詮の皇族置き去り事件
足利義詮の戦略は上手く機能し、足利直義は尊氏に降伏し間もなく亡くなっています。
尊氏が薩埵山の戦いの勝利出来たのは、南朝降服により多くの兵士を尊氏が指揮する事が出来たからだとする指摘もあります。
足利義詮は自らの戦略に酔いしれてしまったのか、油断が生じる事になります。
南朝の後村上天皇や北畠親房が正平一統を破棄し、京都を攻撃しました。
ここで足利義詮は不意を衝かれたのか北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇と廃太子の直仁親王を京都に置き去りにしたまま近江に避難したわけです。
前回の観応の擾乱では直義が北朝の皇族に対し危害を加えるつもりが無かった事から、皇族たちは無事でしたが、南朝が相手ではそうはいきません。
南朝は北朝の三上皇と皇太子の直仁親王を拉致してしまいました。
この頃の足利義詮は権威の大切さが分かっていなかったのではないかとも考えられています。
北朝の復興
正平一統が破談になった事で、幕府は宙に浮く存在となります。
今までの室町幕府は北朝傘下の武士団を率いる組織でしたが、南朝からも認定されていない組織となってしまったわけです。
ここで佐々木道誉が策を出し残っている皇族である弥仁を後光厳天皇として即位させる事にしました。
弥仁親王の祖母である広義門院に践祚を行わせ無理やり後光厳天皇を即位させたわけです。
この時の北朝は皇位の象徴である三種の神器も院政を行う治天の君もいない状態でしたが、義詮は佐々木道誉と計り強引に推し進めてしまいました。
義詮はなりふり構わず五カ月ほどで北朝を再建させています。
しかし、後光厳天皇の即位に関しては正統性に対して疑念の抱かれる状態であり、北朝の権威を再生するのには時間を要する事になります。
兵粮料所の設置
関東では武蔵野合戦が勃発し幕府と敵対する南朝の北条時行、新田義興らに旧直義派の上杉憲顕が合流し足利尊氏と各地で争う事になります。
南朝と北朝の戦いは日本各地で行われ、こうした状況の中で1352年の7月に幕府は戦闘の激しい近江、美濃、尾張で兵粮料所を設置しました。
兵粮料所は南朝の後醍醐天皇や後村上天皇が実施しており、1年間限定で公家の荘園の収入の半分を軍勢に預けてもよいとするものです。
この頃に足利尊氏は関東で戦っており、足利義詮が主導して兵粮料所を設置したと考えられています。
足利義詮は南朝を見習っての兵粮料所の設置だったのでしょう。
兵粮料所の設置を守護に認めたわけですが、兵粮料所は翌月にはさらに拡大し近江、伊勢、志摩、美濃、伊賀、尾張、和泉、河内の八カ国が対象となりました。
守護に公家などの領地を期間限定で半分を調達できる半済令により、足利義詮は戦時体制を整えていったわけです。
尚、半済令は後には全国に拡がっていきました。
ただし、半済の目的としては荘園の押領を禁じる側面もありましたが、実際には半分以上が兵粮料所と化してしまった問題も発生しています。
荘園からの収入の激減により北朝の皇室の財源がほぼ壊滅すると言う事態にも陥ってしまいました。
義詮の目の前の事柄に全精力を預ける手法により、後々の問題も出てしまったと言えるでしょう。
尚、観応の擾乱が終わった頃には、南朝に倣い北朝でも足利尊氏や義詮により官位がばら撒かれる様になり、これも後に問題となります。
足利直冬との戦い
足利直冬は九州で一色道猷の攻勢に耐えきる事が出来ず、中国地方に逃れました。
南朝の山名時氏や大内弘世、斯波高経らは足利直冬を祭りあげて京都に侵攻しています。
足利義詮は京都を明渡しますが、この時に義詮は後光厳天皇ら皇族を連れて美濃の小島に逃れました。
正平一統の時の皇族置き去り事件に懲りて、義詮はしっかりと皇族を連れて避難したわけです。
足利直冬は東寺合戦で足利尊氏に敗れて没落し、後継者からの座からは完全に滑り落ちました。
幕府財政の悪化
後光厳天皇の即位式が行われますが、幕府財源の悪化により資金繰りが苦しい状況でした。
この時に足利義詮は守護に資金を提供させ武家御訪(ぶけおとぶらい)と呼ばれる朝廷への助成金を出させています。
南朝に比べて北朝の方が有利だったとする話はよく耳にしますが、実際には幕府の財源も厳しく財政難に直面していたわけです。
こうした中で足利義詮は、その場しのぎの策として守護からの資金援助で対処したと言えるでしょう。
北朝天皇の求心力の向上
先にも述べた様に、北朝の後光厳天皇は幕府の都合で無理やり即位させた様な天皇であり、正統性を疑問視されていました。
天皇の権威を向上させる為の儀式なども行う頻度が低下し、会が主催されても廷臣の参加率が低いなどの問題も顕著となります。
足利義詮としては北朝の権威を低下させるのは幕府の求心力にも繋がり、看過しがたき事でした。
ここで足利義詮は北朝の天皇の権威を向上させる為に、公家社会にも積極的に介入した事が分かっています。
義詮は推挙するなどを条件に皇室の行事参加を促しました。
義詮の公家社会への介入は義詮の権力の向上とみる事も出来ますが、実際には北朝の権威がボロボロであり、権威を高める為の苦肉の策だったとも考えられています。
特別訴訟手続き
南北朝時代は各地で争い土地問題など爆発的な訴訟問題が幕府に持ち込まれた時代でもあります。
こうした中で足利義詮は訴人の請求を即座に受け入れ判決の結果のみを簡略に伝える「特別訴訟手続」なる簡易裁判を行っています。
勿論、訴人の請求を即座に受け手入れしまえば後で問題は起こりますが、その後の不服申し立てを認める事でバランスを取っていたわけです。
足利義詮による特別訴訟手続は義詮の権力の向上とみられる事もありますが、実際には幕府の裁判を行う引付方の弱体化によるものだと考えられています。
南北朝の混乱により目の前の対処を足利義詮が優先させた結果として、特別訴訟手続が誕生したと言えそうです。
観応の擾乱により幕政機構は衰退し引付方だけではなく、安堵方も衰退しました。
足利義詮は幕府機構が崩壊する中で目の前の出来事に対処するた目に全力を尽くしたと言えるでしょう。
足利義詮の将軍親政
足利尊氏は東寺合戦で直冬を退けますが、この後に体調が悪化して行く事になります。
体調が優れぬ尊氏は恩賞給付の権限を足利義詮に渡しました。
室町幕府の初期は足利尊氏と直義による二頭政治が行われましたが、二人の権限を全て足利義詮が継承したと言えるでしょう。
尚、尊氏晩年の1357年に光厳上皇や崇光上皇などの南朝に拉致されていた皇族も京都に戻る事になります。
兵粮料所と守護
足利義詮は幕府政治の最高責任者となりますが、戦時体制を解除し兵粮料所の体制を停止しようとしました。
兵粮料所は足利義詮のその場しのぎの策であり、南朝の脅威が激減したと考え寺社所領の復興などを考えたのでしょう。
当時は近畿では一定の安定が見られましたが、九州では懐良親王の勢力が強くなるなど、戦乱が治まった訳ではありませんでした。
こうした事情もあり兵粮料所の解除は失敗に終わり、観応の擾乱よりも前の状態に戻すのは、かなりの困難があったと言えそうです。
兵粮料所は守護の既得権益にもなっており、様々な問題もはらんでいました。
征夷大将軍に就任
1358年に足利尊氏が亡くなると、足利義詮が室町幕府の第二代征夷大将軍となります。
これにより足利義詮は名実ともに幕府の最高責任者になったと言えるでしょう。
義詮は訴訟関係の席に挑み決裁する様になり、これを御前沙汰と呼びます。
当然ながら義詮の御前沙汰は幕府機構衰退が原因であり、必ずしも義詮の権力強化の結果ではありません。
大名間の不和
足利義詮は南朝への攻撃を意図し関東の鎌倉公方で弟の足利基氏に援軍を依頼しました。
足利基氏は畠山国清に大軍を授け西に向かわせています。
義詮は直義を嫌っていましたが、基氏は直義を尊敬しており、兄弟と言えども性格や思想の不一致はあった様です。
しかし、基氏は足利義詮に歩み寄る事で両者の対立には至りませんでした。
足利義詮は南朝征伐の為に摂津尼崎まで親征しますが、ここで京都に帰還しています。
残された諸将ですが、仁木義長を細川清氏、土岐頼康、佐々木道誉、六角氏頼らが問題視する事になります。
当時の仁木義長は三河、伊賀、伊勢、志摩と四カ国の守護を任されると同時に、数百カ所とも呼ばれる多くの所領を持っていたわけです。
南北朝時代の武士たちは守護職を求めるだけではなく、一つでも多くの所領を手に入れようと争っていた時代でもありました。
南朝を攻める北朝の諸将同士でも所領問題が発生していた事が分かっています。
足利義詮は仁木義長の排除に動きますが、仁木義長は気付き足利義詮の身柄を抑えようとしますが、義詮は佐々木道誉の手引きで脱出しました。
仁木義長は本国の伊勢に逃げ帰り、幕府での置き場が無くなると南朝に降伏する事になります。
足利基氏の命令で南朝征伐に関東から赴いた畠山国清も問題を起こし、這う這うの体で関東に戻り後に乱を起こし処罰されています。
これにより関東では鎌倉公方の足利基氏、関東管領の上杉憲顕という体制が出来上がりました。
尊氏の尻ぬぐい
足利義詮が悩ませた人物の一人に足利尊氏がいます。
足利尊氏は気前がよい人物であり、複数の人物に同じ所領を与えてしまいました。
複数の人物が足利尊氏の下文を持っており問題となりますが、足利義詮は日付の古い下文を優先する事で問題の解決を行っています。
特に所領の乱発に関しては、観応の擾乱以後に悪化させた事が分かっています。
空証文問題は義詮を悩ませた事でしょう。
室町幕府の大名同士の闘争の元には、尊氏が乱発した空証文にあるとする指摘もあります。
南朝の京都侵攻
仁木義長は南朝に鞍替えしましたが、今度は細川清氏が問題となります。
幕府に居場所を無くした細川清氏も南朝に降る事になります。
先に対立していた仁木義長と細川清氏が南朝になった事で、南朝は息を吹き返しました。
南朝は京都に侵攻すると足利義詮は兵力を温存したまま京都を明渡す事になります。
当然ながらこの時も足利義詮は後光厳天皇や皇族らを連れて京都を明渡しています。
近江に避難した足利義詮は京都奪還の為に動き出し、再び京都を奪取しました。
尚、これが南朝の最後の京都奪還となります。
斯波高将の執事就任
1262年に足利義詮は執事に斯波義将を任命しています。
しかし、斯波義将はまだ13歳であり、執事の職務を行ったのは父親の斯波高経となります。
義詮は当初は斯波氏頼を高く評価しており、執事にする予定でしたが斯波高経の反対により斯波義将が執事となりました。
尚、執事は過去には足利氏の家来である高師直が就任しており、足利一族の名門を自負する斯波高経は執事就任に嫌がった話もあります。
因みに、斯波高経の言葉で気が変わる足利義詮を太平記では「人の申すに付き安き人」と評価しています。
それでも、斯波高経に断られながらも粘り強く交渉した義詮の評価される部分にもなりました。
足利義詮は足利氏の名門でプライドが高い斯波家を執事に据える事で、将軍権威の向上を図ったのではないかとされています。
中国地方の平定
1363年に南朝の武将として活躍して来た大内弘世と山名時氏が幕府に降伏しました。
これにより足利義詮は中国地方をほぼ統一した事になります。
幕府の長門守護として厚東義武が頑張っていましたが、義詮は厚東義武を見捨て大内家に周防・長門の実行支配を認めました。
さらに、山名家にも因幡、伯耆、丹波、丹後、美作の五カ国の守護職を与えています。
足利義詮は相手の条件を呑み和睦に近い形で降伏を認めたわけです。
厚遇される大内氏や山名氏を見て幕府への忠義を第一とした武士たちは「多くの所領を持ちたいなら、幕府の敵になった方がよいのではないか」と述べた話があります。
敵であった大内、山名を厚遇する姿を見て不満に思う武士は多かったはずですが、義詮は目の前の中国地方の平定を優先させています。
ただし、足利義詮の目の前を第一とするやり方により、近畿地方では戦乱が下火となり安定感を取り戻しました。
この頃になると大名が京都に戻り幕政に参与し、統括する守護を兼ねるといった状態となります。
斯波高経・義将の失脚
幕府の実質的なナンバー2となった斯波高経は石橋和義や佐々木道誉と対立しました。
石橋和義は若狭守護を解任され、斯波高経が自ら若狭守護となります。
この辺りが斯波高経の全盛期ではありますが、強引な政治手法が問題となり怨嗟の声が上がる事になります。
斯波高経は佐々木道誉や赤松則祐らに恨まれ足利義詮が動く事になります。
斯波高経の幕府の財政再建策に多くの人々から恨まれた話もあります。
足利義詮は斯波高経及び斯波義将に京都から退去する様に命じ、斯波高経は北陸で反抗する事になります。
足利義詮の最後
斯波高経が失脚すると足利義詮は執事を置かず引付方を下部機関とし親裁を行いました。
こうした中で1367年に弟で初代鎌倉公方の足利基氏が28歳で死去しています。
後任の鎌倉公方には基氏の子の氏満が就任しますが、まだまだ年齢が幼かったわけです。
足利義詮は斯波高経の後任として細川頼之を選任しますが、この直後に発病しました。
足利義詮は後継者でまだ10歳の足利義満を細川頼之に託し1367年12月27日に世を去っています。
足利義詮の遺言により足利義満の後見人となった細川頼之は御前沙汰を代行し引付方を自らの下部組織としました。
細川頼之が管領の始まりでもあり軍事と政務を行う存在となります。
足利義詮の突然死により管領制が誕生したとも言えるでしょう。
足利義詮と楠木正行
足利義詮のお墓が宝筐院にあり楠木正行の石碑と並んでいます。
楠木正行は後村上天皇に味方した南朝の武将ですが、隣には北朝で室町幕府の二代将軍である足利義詮が葬られているわけです。
足利義詮と楠木正行は接点がない様に思うかも知れませんが、義詮は楠木正成の人柄を慕っており亡くなる時に楠木正行公のお墓に葬る様に命じたとされています。
因みに、楠木正行の父親の楠木正成は後醍醐天皇に京都をわざと敵に取らせ奪い返す戦法を進言し取り上げられませんでしたが、足利義詮は何度も敵を京都に入れてから逆襲する方法で窮地を凌いでいます。
それを考えれば楠木正成の兵法の実践者が足利義詮だったとも言えるでしょう。
何度も寡兵で北朝の軍を破った楠木正行に対しても、足利義詮は尊敬の念で見ていたとも考えられるはずです。
名前 | 住所 | 電話番号 |
宝筐院 | 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9 | 075-861-0610 |
足利義詮の動画
足利義詮のゆっくり解説動画となっております。
この記事及び動画は戎光祥出版の「南北朝武将列伝北朝編」「室町幕府将軍列伝新装版」をベースに作成してあります。