梅乾は正史三国志の劉馥伝に記述がある人物です。
梅乾は劉馥伝の陳寿が書いた本文に名前が記載されている事から、実在した事はほぼ確実だと言えるでしょう。
梅乾は廬江を拠点にし、活動した反政府組織とも言える賊徒だったと考えられています。
梅乾が雷緒や陳蘭と共に乱を起こした時には、数万人を集め近隣の郡県を襲いました。
それを考えると梅乾らは、かなり大きな影響力を持っていたと言えるでしょう。
ただし、梅乾は劉馥が揚州刺史となるや、曹操の勢力に帰順しました。
尚、梅成なる人物が陳蘭と行動を共にした記録があり、梅乾と梅成が同一人物ではないか?とする説もあります。
同様に陳蘭、梅乾と行動を共にした雷緒も雷薄との同一人物性があります。
長江・淮河一帯で跋扈
江東で大きな勢力を持った孫策が、李術を廬江太守に任命しました。
しかし、孫策が亡くなり孫権が後継者となるや、李術は独自で行動をする様になり、揚州刺史の厳象を殺害する事件が起きています。
こうした流れから廬江や揚州が不安定になったのか、正史三国志には次の記述があります。
「廬江の梅乾、雷緒、陳蘭が数万の仲間を集め、長江・淮河一帯で跋扈した。
梅乾、雷緒、陳蘭により郡や県は破壊された」
上記の記述を見る限り梅乾、雷緒、陳蘭らは賊徒であり、略奪を繰り返したのでしょう。
この時代は食料供給が安定せず、食料が不足すると賊になる者も少なくはありませんでした。
それ故に、梅乾、雷緒、陳蘭らは数万の人々を率いる事が出来たはずです。
劉馥に帰順
梅乾らは暴れ回っていたようではありますが、曹操は官渡の戦いで袁紹と戦っており、自ら梅乾らを討伐する事は出来ませんでした。
そこで、曹操は劉馥を揚州刺史に任命し、梅乾らを手懐ける事にします。
劉馥に関しては、次の記述があります。
「劉馥は揚州刺史となるや、単身で馬に乗り合肥の空城を州庁とした。
劉馥は南方の雷緒らを手懐け、彼らを安定させたので、献上品を相次いで奉られた」
上記の記述だと「劉馥が雷緒らを手懐けた」とありますが、この中に梅乾も入っている様に思います。
この辺りは記録がなく分からない部分でもありますが、梅乾が郡県を破壊する途中で戦死などしない限りは、劉馥に従った様に思います。
劉馥は西暦208年に亡くなっており、曹操は赤壁の戦いで孫権の勢力に敗れました。
この後に雷緒は荊州四英傑を降した劉備に、数万人と共に帰順した話があります。
梅乾が雷緒と共に、劉備に帰順したのかは記録がなく分からない状態です。
梅乾がそれまで生きていたのかも不明としか言いようがないでしょう。
もちろん、梅乾の最後の記述もなく、どこでどの様になくなったのかも不明です。