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荊州四英傑の評価&まとめ

2022年5月6日

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宮下悠史

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名前荊州四英傑(けいしゅうよんえいけつ) 別名:荊州四天王、荊州四君主
メンバー劉度、趙範、金旋、韓玄
年表209年 劉備に敗れる
コメント一部の間では人気があるようだ

荊州四英傑は赤壁の戦い後に、劉備に討伐された金旋趙範韓玄劉度の四名を指す言葉です。

荊州四郡を支配し劉備に討伐された四名を指すと思えばよいでしょう。

金旋、趙範、韓玄、劉度の四名は弱小君主として数えられる事が多いのですが、一部の三国志ファンの間では荊州四英傑とも呼ばれています。

他にも荊州四天王、荊州四君主など金旋、趙範、韓玄、劉度の四名をセットで呼ばれる事が多いと言えます。

荊州四英傑は隣接する荊州四郡を支配した事は確かですが、四英傑同士の人間関係などは不明です。

正史三国志にも金旋、趙範、韓玄、劉度の名前があり、荊州四英傑が実在した事は間違いないのでしょう。

ただし、正史三国志の本文では下記の記述しか存在しません。

劉備は上表し劉琦を荊州刺史に推薦し、南の四郡の征伐に赴いた。

武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度など全て降伏させた。

正史三国志の陳寿が書いた部分では、劉琦が荊州刺史になった後に、荊州四英傑は全員が降伏した記述しかないわけです。

しかし、正史三国志の裴松之の注釈の部分では趙範が樊氏を使った色仕掛けを趙雲に行ったり、金旋が劉備に攻撃され死亡したたなどの話が追加されています。

明代に羅貫中により三国志演義が出来上がると劉備陣営と荊州四英傑の戦いが、よりドラマチックに描かれました。

今回は一部の間では絶大なる人気を誇る荊州四英傑の解説をします。

荊州四英傑の誕生

荊州四英傑ですが、どのタイミングで荊州四英傑が揃ったのかは不明です。

しかし、赤壁の戦い後に周瑜呂蒙甘寧らが曹仁が籠る江陵を攻撃している間に、劉備が荊州四郡の支配に向かいますが、その時までには荊州四英傑は揃っていたはずです。

荊州四英傑ですが、結論から言えば曹操劉琮を降伏させた時に、曹操がそれぞれの太守に任命したのでしょう。

ただし、劉表が荊州を支配していた時代に、荊州四英傑が既に、それぞれの太守に任命されていたのかなどは不明です。

曹操は劉琮を降伏させると荊州の人材である蒯越は光禄勲、文聘を江夏太守、韓嵩は大鴻臚、鄧義は侍中、劉先は尚書令に任命するなど優遇しています。

それらを考慮すると荊州四英傑の金旋、劉度、趙範、韓玄の四名は劉表時代から既に、それぞれの地域の太守だったのかも知れません。

それか劉表の時代から太守をやっていた者もいれば、曹操が北方から連れて来た人物もいると言うのが、実情だった可能性もあるでしょう。

どの時点で荊州四英傑が全員揃ったのかは、謎というしかありません。

史実だと荊州四英傑を倒したのは劉備の功績

三國志演義だと荊州四英傑と劉備軍の戦いは諸葛亮の策があり張飛関羽趙雲の武勇が光る展開となっています。

しかし、史実を見ると劉備が周瑜に「張飛と千の兵をを貸すから兵二千を貸して欲しい」と依頼した話があります。

さらに、関羽が北方の漢津に向かい徐晃や満寵と対峙する展開になっていました。

それを考えると張飛は周瑜に同行し江陵の曹仁らと戦っていたわけであり、荊州四郡は劉備が総大将となり指揮を執ったのでしょう。

劉備は配下の趙雲を連れ、荊州四郡に侵攻したのが事実だと考えるのが妥当だと感じました。

曹操も北方に退却したとは言え、簡単に荊州四郡を劉備にくれてやる事はせず、桓階が推薦した劉巴が裏で荊州四英傑と連携し、対処しようとしていた様に思います。

しかし、この時は劉備に勢いがあり荊州四英傑は適わないと感じ韓玄、趙範、劉度は降伏し、金旋だけは戦って討ち取られてしまったのでしょう。

荊州四英傑が敗れた事で、劉巴も交州の士燮の元に逃げ延びる事となります。

史実を考えると荊州四郡を平定したのは、劉備や趙雲の功績だと考えるのが妥当だと感じました。

尚、荊州四英傑を平定した劉備に雷緒が数万の兵を率いて帰順し、魯粛のお陰もあり、孫権から借用という形で劉備は荊州に領土を得る事も出来たわけです。

さらに、龐統が配下に加わるなど司馬徽の言う臥竜鳳雛が揃った事にもなるはずです。

これらを考えると劉備の荊州四英傑平定は、劉備の飛躍の為の最初の生贄と言ってもよいでしょう。

後に劉備は劉璋から益州を奪い定軍山の戦い夏侯淵を破り漢中を手に入れるなど、最後は蜀の皇帝にまでなっています。

荊州四英傑の評価

劉度は四英傑最弱なのか?

三國志演義だと最初に劉備に征伐された荊州四英傑が零陵太守の劉度です。

三國志演義では劉度は降伏を考えていましたが、息子の劉賢が戦いを主張した事で、劉備と一戦交える事になりました。

劉賢や邢道栄に軍を率いさせたりもしましたが、劉賢や邢道栄では劉備配下の諸葛亮、張飛、趙雲らの相手にはならなかったわけです。

劉賢や邢道栄が敗れると、劉賢は父親の劉度に降伏を勧め、劉度は劉備に降伏する事になります。

劉度が四天王最弱とか、荊州四英傑最弱と呼ばれてしまうのは、本人はほぼ何もしていないからではないでしょうか。

さらに言えば荊州四英傑の中で最初にやられてしまった事や、正史三国志の記述で荊州四英傑の中で、最後に名前が登場する事も原因なのかも知れません。

ただし、三国志演義を見ると金旋は配下の者で、劉備とまともに戦おうとした人物はいませんが、劉度は劉賢や邢道栄が戦っており、その点は恵まれているとも言えるでしょう。

劉度は荊州四英傑の中で、最も地味な存在ではあると思いました。

正史三国志の本文と注釈を入れても、劉度は劉備に降伏した位しか記述がありません。

趙範は趙雲の堅物さに敗れる

趙範は三国志演義だと、配下に主戦派の陳応鮑隆がいた事になっています。

陳応と鮑隆は最終的に敗れるわけですが、これらの記述は三国志演義の架空の設定です。

三國志演義では趙範は降伏すると再び桂陽太守になっていますが、正史三国志を見ると趙範は降伏すると、劉備は趙雲を桂陽太守としました。

趙雲別伝の記述によれば趙範は身の危険を感じ、兄嫁で未亡人となっていた樊氏を趙雲に勧めた話があります。

樊氏は美貌の女性ではあった様ではありますが、趙雲は堅物であり、樊氏を娶る事はしませんでした。

趙雲が樊氏に興味を示さなかった事で、趙範は不安になり逃亡しています。

史実でも趙範は樊氏による色仕掛けを考案した様ではありますが、趙雲には通じなかったのでしょう。

趙雲の堅物さは劉備にも信頼されていた部分があり、孫権の妹である孫尚香が来た時には、監視役に趙雲を任命しています。

孫尚香は何をしでかすのか分からない部分があり、侍女や宦官では抑える事が出来ず、趙雲でなければ無理だと劉備が判断したのでしょう。

樊氏や孫尚香の話は趙雲の堅物さを表している様にも感じました。

逆に言えば趙雲の堅物さを見抜けず、樊氏を使ったのは趙範の悪手だと言わざるを得ません。

金旋は最も情けない存在だった!?

正史三国志を見ると金旋は荊州四英傑の中で、唯一戦った記録がある人物です。

それを考えると、金旋は武勇に優れた人物だったと言えるのかも知れません。

荊州四英傑の中で金旋だけは劉備に攻められて亡くなった記録があります。

三國志演義を見ると金旋は他の荊州四英傑の中で、唯一自ら兵を率いて迎え撃ちますが、張飛を見ると恐れを成して逃げ出しました。

しかし、武陵の城にいた鞏志が裏切り、城に入れて貰えず、最後は射殺されています。

零陵太守の劉度が劉賢や邢道栄が戦った事になっていますが、金旋の場合は戦ってくれる配下もおらず、そこが情けなくも感じるのでしょう。

金旋が情けない設定にされてしまったのは、史実で金旋の子である金禕吉本耿紀らと組み、許都で反乱を起こし、親の仇である劉備に助けを求めた事も原因にある様に思います。

韓玄は最も存在を歪められた

韓玄は荊州四英傑の中で、最も人物像を歪められてしまった存在にも感じました。

史実の韓玄は長沙太守をしていた事と、黄忠が配下にいた事は記録があり事実なのでしょう。

しかし、三国志演義で韓玄に対してのカギとなる魏延が配下にいた記録はありません。

他にも三国志演義では韓玄の性格が残虐で多くの人を殺害したり、短気で狭量だった事になっていますが、これも事実とは言えないはずです。

韓玄の悪い意味でインパクトのある性格は関羽黄忠、魏延を引き立たせる為の演出なのでしょう。

韓玄は長沙太守をしており、過去の長沙太守には孫堅がいました。

孫堅は後に呉で勢力を築き上げる孫策孫権の父親であり、そういう意味でも三国志演義の著者の羅貫中は、韓玄をインパクトがある人間性にしたかったのかも知れません。

しかし、結果論で言えば、最初に言った様に荊州四英傑の中で、韓玄が最も人物像を歪められた存在になってしまったのでしょう。

ただし、韓玄に対しては名将説なども存在しています。

尚、劉備が荊州四郡を統治する様になると、長沙太守として廖立を任命した話があります。

韓玄の後任の長沙太守とも考えられる廖立ですが、龐統にも匹敵する人材と言われた事もあります。

しかし、廖立は待遇に不満があり向朗、文恭、郭攸之、王連馬良を批判するなど、三国志演義の韓玄に匹敵するほどのインパクトがある性格です。

長沙太守は名物太守が多いのかも知れません。

その後の荊州四英傑

劉備が荊州四郡を平定した後の、荊州四英傑を考えてみました。

荊州四英傑の中で武陵太守の金旋だけは、史実でも亡くなった記録があり、ここで死亡した可能性は高いと言えます。

趙範は三国志演義では再び桂陽太守に任命された事になっていますが、趙雲別伝の記述では、身の危険を感じ逃亡した事になっていました。

これを考えると史実では降伏した韓玄や劉度も長沙や武陵の太守の座を剥奪され、逃亡したか劉備の配下になったのではないかと感じます。

ただし、劉度の場合は劉姓であり、特別の配慮があったのかも知れません。

しかし、韓玄や劉度も趙範と同様に逃亡したり、曹操がいる北方に向かった可能性も高いのでしょう。

荊州四英傑のその後を考えてみるのも面白いのかも知れません。

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