穆姫は晋の献公の娘で、秦の穆公に嫁いだ女性です。
穆姫は申生の同母姉にあたり、重耳や夷吾は異母弟に当たります。
穆姫は秦に嫁ぎますが、晋の献公の時代に亡命した公子を晋に戻す様に指示したり、韓原の戦いで敗れた晋の恵公の命乞いもしました。
それらを考慮すると、穆姫は弟想いで面倒見のよい女性だったと言えるでしょう。
因みに、秦の穆公の後継者となった秦の康公を生んだのは穆姫です。
今回のお話ですが、春秋左氏伝が詳しく、ベースは春秋左氏伝となっています。
秦の穆公に嫁ぐ
穆姫が秦に嫁いだ時の逸話が残っています。
晋の献公が伯姫(穆姫)を秦の穆公に嫁がせるかの占いを史蘇に命じました。
史蘇が占った結果として、伯姫を秦の穆公に嫁がせるのは「不吉」と出ます。
史蘇は不吉とした理由を、次の様に示しました。
嬴姓が姫姓に敗れ車が軸を外し旗は焼かれ、戦いに利益はなく宗丘(韓原)の地で敗北するだろう。
敵軍の弓は張り、姪が姑に従い6年経つと退き、自分の家に逃げ帰り、その家を棄てる事になる。
次の年になれば、高梁の虚で命を落とす事になるであろう。
史蘇は穆姫を秦の穆公に嫁がせる事で、晋にとって禍が降りかかると述べたわけです。
史蘇の予言は晋の恵公が韓原の戦いで、晋の恵公が敗れる事を予言し、後継者となる晋の懐公の死までピタリと予言しました。
しかし、この予言に関しては、重耳の事が一切述べられておらず、穆姫は後に晋の恵公を助けている事から、不吉という程、不吉ではなかった様にも思います。
さらに言えば、史蘇の占いの結果が余りにも的中し過ぎており、創作も含まれている様に感じました。
尚、史蘇に関して述べておくと、晋の献公が驪戎を討ち驪姫を手に入れた事を、不吉とする予言をした人物でもあります。
因みに、穆姫が秦に行く時に百里奚を付添人として、穆姫に従わせ共に秦に行った話があります。
穆姫が秦の穆公に嫁いだ年は、紀元前655年であり、この年は晋が虞を滅ぼした年でもあります。
晋の公子を国内に戻す様に働きかける
晋の献公が亡くなると、里克や丕鄭は乱を起こし驪姫、奚斉、卓子らを討ちました。
里克らは重耳を晋君にしようと考えますが、断られてしまった事で、夷吾(晋の恵公)を晋の君主に立てる事にします。
夷吾は秦の穆公の力を借りて、晋に入ろうとしますが、この時に穆姫は次の様に述べています。
穆姫「晋の献公の公子らを晋国に迎えいれるのです」
穆姫は夷吾が晋の君主になった時には、諸公子を晋に呼び戻し、兄弟で協力して政治を行えばよいと考えていたのでしょう。
晋の公子を呼び戻す様に指示する辺りは、面倒見のよい姉といった感じがします。
この時に、晋の献公の妃とも申生の妃とも言われる賈君も、夷吾に預け晋に向かわせました。
賈君は穆姫なら信用できると考え、驪姫の乱の時に、秦に避難していたのでしょう。
しかし、穆姫の願いは空しく、夷吾は賈君と姦通し、即位しても公子らを晋に迎え入れる事はせず、重耳に対しては勃鞮を刺客とし命を狙いました。
尚、晋の公室が弱体化した原因として、公子が国外に出されてしまう事が多かったとの指摘もあり、穆姫の構想を晋の本家が実行したかった事で、公室の弱体化を招いたとも言えます。
晋の恵公の助命嘆願
晋の恵公(夷吾)は秦に対し、度重なる不義を犯しました。
そうした事もあり、秦と晋の間で韓原の戦いが勃発します。
韓原の戦いでは史蘇が予言した通りに、晋の恵公の戦車の軸が泥に嵌り、最終的に晋の恵公は捕虜となります。
韓原の戦い後に、秦の穆公は凱旋し、晋の恵公を生贄にしようとしました。
しかし、穆姫は晋の恵公の死を望まず、自分の子である太子罃や公子弘、娘の簡璧などを集め高台に登りました。
穆姫は秦の穆公に喪服を着た使者を派遣し、次の様に述べています。
「天が禍を降し、二つの国の君主が兵を興して遭遇させました。
晋の君主が朝、秦に入国したら、私は夜にこの世を去ります。
晋君が夜に秦に入ったら、私は朝になったらこの世を去ります。
我が君(秦の穆公)の判断に身を委ねます」
穆姫は弟の晋の恵公が秦に入国したら、自らの命を絶つと宣言したわけです。
さらに、自分の子も連れて行っている事から、子供たちも「この世を去る」と宣言した様なものでもあります。
秦の穆公は次の様に述べました。
秦の穆公「晋の恵公を捕虜としたのは大功だと考えていた。
しかし、秦に帰った途端に喪に服す事があっては無意味であるし、大夫達への恩恵もない。
ここで晋の君主を処刑しても、晋人の怒りを招くだけであり、天に背く事にもなる。
晋の穆公は釈放するのが最良となるであろう」
秦の穆公は穆姫の事を考え、晋の恵公の釈放を決めました。
尚、史記では穆姫が自ら喪服を着て泣いて、秦の穆公に助命嘆願を行い、晋の恵公が許された話があります。
史記だと晋の穆公は箕子が唐叔虞を封じる時に「唐叔虞の子孫は強大になる」と言った話を持ち出し「まだ晋を滅ぼす事は出来ない」と述べ、晋の恵公を許しました。
穆姫は過去に晋の恵公に、賈君や亡命公子達を晋に迎え入れる件で裏切られていますが、それにも関わらず、体を張って晋の恵公を助けた事になります。
穆姫は裏切られても、弟達は可愛かった部分もあるのでしょう。
弟の申生は優しき人物でありましたが、姉の穆姫もまた同じような性質も持っていたのでしょう。
因みに、これが穆姫の最後の記述であり、この後に穆姫がどの様になったのかは不明です。
尚、秦の穆公が紀元前621年に亡くなると、穆姫の子である秦の康公が秦の君主として即位しました。
それを考えると、穆姫は天寿を全うした様に思います。