名前 | 田文(でんぶん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 戦国時代 |
勢力 | 魏(戦国) |
田文は魏の武侯の時代に宰相になった人物です。
田文と言えば戦国四君の孟嘗君が有名ですが、今回紹介する田文は孟嘗君とは別人で、史記で呉起と問答を行った記録がある田文です。
田文と呉起のやり取りを見るに、田文は道理に通じた人物であり名臣と言えるでしょう。
田文は呉起を差し置いて魏の宰相になっていますが、呉起も田文であれば宰相になるのは仕方がないと納得しました。
今回は戦国時代初期の魏の名臣である田文の解説をします。
呉起との問答
魏の文侯の時代に魏は李克、西門豹、魏成子、翟璜、呉起、楽羊などに支えられ国力を大きく伸ばす事になります。
魏の武侯の時代になると、魏の文侯時代の功臣は姿が見えなくなる事から、世代交代があったのでしょう。
こうした中で、魏の文侯の時代に西河を守備し、秦と戦い続けた呉起は健在であり、この頃には魏の政治の中枢にいたと見る事が出来ます。
魏で宰相が置かれる事になると、絶大な功績を持っていた呉起ではなく、田文が宰相に任ぜられています。
呉起は自分の功績を誇り、新たに宰相となった田文に問答を吹っ掛けました。
史記 孫子呉起列伝より
呉起「貴方(田文)と功績について論じたいと思うが、どうであろうか」
田文「分かりました」
呉起「三軍の将となり、兵を喜んで死地に赴かせる様に仕向け、敵国にあえて魏を討たせない様にする点で、貴方と私はどちらの方が優れているでしょうか」
田文「貴方には及びません」
呉起「百官を統率し万民を親しませ、国庫を充実させる事に関して、貴方と私ではどちらの方が優れているでしょうか」
田文「貴方には及びません」
呉起「西河の太守となり、秦が魏に侵略する気を起こさせず、韓や趙を魏に服属させる点で、貴方と私ではどちらの方が優れているでしょうか」
田文「貴方には及びません」
呉起「ならば聞こう。貴方は私に功績では及ばないのに、位においては私の上位にいるのは何故だろうか」
呉起は田文に対し、自分の方が実績を挙げているのに、位が下なのかおかしいと不満を述べた事になります。
呉起の言葉から、呉起の出世欲の強さが分かるはずです。
しかし、田文は次の様に答えました。
田文「ならば聞こう。国君(魏の武侯)は、まだ年が若く国人は不安がっています。
大臣も心服せず、民衆も信用していません。
この様な時期に宰相の位を貴方に任せるでしょうか。それとも私に任せるのでしょうか」
田文の問いに対し、呉起は暫く答える事が出来ませんでした。
呉起は口を開くと次の様に述べます。
呉起「宰相の位は貴方に任せるであろう」
呉起の言葉を聞くと田文は「これこそが、私が君よりも位が高い所以である」と述べました。
史記には呉起は「田文に及ばない事を悟った」と記録されています。
しかし、史記には「何を以って呉起が納得したのか?」に関しては、記録されていません。
それ故に、人によって解釈が違うのが現状です。
尚、田文が亡くなると、次の宰相にも呉起はなれず、公叔が宰相となります。
公叔は魏の武侯と呉起が仲違いする様に仕向けた事で、呉起は楚に出奔し改革を行いますが、楚の悼王が亡くなると貴族たちに殺害されました。
因みに、田文の死後に宰相となった公叔は食客に商鞅がいた公叔座だったのではないか?とも考えられています。
呉起は何を悟ったのか?
田文の言葉に呉起は何かを悟ったわけですが、代表的なのは次の二つの解釈です。
・呉起の人望の無さ
・国の分裂を防ぐ為
呉起の人望の無さから宰相に田文がなった説ですが、呉起は魯でも評判が悪かった話がありますし、楚でも貴族たちに多いに恨まれ、最後は殺されています。
それを考えると、呉起は兵士達からの人望は厚かったのかも知れませんが、大臣達からの人望は皆無に等しく、呉起では国がまとまらないと判断し、人望があった田文が宰相になったとする説です。
魏の武侯が即位したばかりで、国が揺れている状態であれば、人望がある田文の方が国がまとまると考えた話しとなります。
呉起の人望を考えれば、あり得る話だなと感じました。
もう一つの説ですが、国の分裂を防ぐ為とする説です。
呉起は非常に仕事が出来抜群の功績を挙げています。
呉起が宰相になれば、君主である魏の武侯に匹敵するだけの存在となり、主君を脅かしたり、大臣達も呉起を信奉する者が現れてもおかしくはないとする説です。
それらを考えると、国が魏の武侯と呉起で二分されない為には、田文が宰相になっておいた方がよいとする説となります。
一つの国に太陽は二ついらないとする説です。
今となっては、どちらの説が正しいのかは不明ですが、どちらの意見にも一理あると言えるでしょう。
それでも、田文は呉起に功績の面では劣りますが、道理をわきまえた優れた人物だと感じました。
魏を支えた名臣だったと感じています。