馮則は黄祖の首を挙げた人物として、歴史に名が残っています。
馮則は正史三国志には「騎士」とあり、軍隊を指揮する将軍ではなく、あくまでも騎兵の一人だったのでしょう。
書籍などでは馮則の事を「名もなき鼠輩」と書かれている物もあり、身分で言ったら高くはないと考える人が多いです。
実際に馮則の身分が高かったとしても、騎兵を率いる小部隊の隊長クラスだった様に思います。
馮則は普通で考えれば、歴史に名を残す様な人物ではありませんが、孫家の因縁の相手である黄祖を討ち取った事で、歴史に名が残りました。
馮則に関する記述は、正史三国志の呉主伝で、黄祖を討ち取ったとする一行のみです。
尚、知名度の高い人物の最後と関わっている事で歴史に名が残る事はあり、楚漢戦争で項羽の最後と関わりがある呂馬童なども同じ類だと言えるでしょう。
呉範の予言
西暦208年に孫権の勢力は江夏の黄祖を攻撃しました。
馮則はこの戦いに参戦しており、呉軍の一人として戦う事になります。
黄祖は孫権や孫策の父親である孫堅の死と大きく関わっている人物であり、孫家では特に標的としていたわけです。
孫家と黄祖の争いは孫策の時代から始まっており、208年に孫権は周瑜や呂蒙の活躍もあり、黄祖の軍を大破しますが、黄祖は逃亡しました。
孫策の時代である西暦199年に孫策が黄祖の軍に大勝し劉虎、韓晞を斬るという大勝利を得ましたが、黄祖は取り逃がしてしまった事もあります。
黄祖は逃げ足も速く、孫権は大勝した後に「黄祖を取り逃がしてしまうのではないか?」と不安になったわけです。
この時に、呉範は次の様に述べました。
呉範「黄祖はまだ遠くまで逃げてはいません。必ずや黄祖を生け捕りにする事が出来ます」
呉範は黄祖を捕える事が出来ると予言したわけです。
呉範の予言を成就させたのが、騎兵の一人である馮則となります。
馮則自身も孫家と黄祖の経緯は知っていたと思われ、黄祖を捕えるか斬る事が出来れば莫大な恩賞が貰える事は分かっていた様に思います。
黄祖を斬る
正史三国志の呉書呉範伝を見ると、下記の記述があるだけです。
「五更(夜明け方)に黄祖は捕らえられた」
呉範伝の記述だと、馮則の名前は登場せず、黄祖が明け方に捕らえられた事だけが記述されています。
しかし、呉の孫権の伝である「呉主伝」には、呉範伝と違った記述が存在します。
呉主伝によれば、西暦208年の黄祖との戦いでは、孫権は淩統や董襲などの精鋭を全てだし、全力で黄祖を潰しに行ったわけです。
呉軍が大勝し黄祖は逃亡しますが、次の記述が存在します。
「黄祖は身一つで逃亡したが、騎士の馮則がこれを追撃し、黄祖の首を挙げ、さらしものとした」
呉主伝の記述だと、馮則が追撃し黄祖に追いつき仕留めて首を挙げた様な記述があるわけです。
馮則が黄祖を捕えたのか、斬ったのかは不明ですが、黄祖の最後と大きく関わっているのでしょう。
最初にも述べましたが、馮則は名もなき一兵卒の騎兵だったと思いますが、黄祖を斬った事で大金星を上げたとも言えます。
馮則がどれ位の恩賞を与えられたのかは不明ですが、莫大な恩賞を孫権から賜わった様に思いました。
尚、馮則の記録は黄祖を討ち取った事だけであり、正史三国志にも、この場面でしか名前が登場しません。
よって、その後の馮則がどの様になったのかも不明です。
ただし、馮則は身体は丈夫だったと感じているので、黄祖討伐に続き赤壁の戦いにも参戦した様には感じました。