その他 三国志

張碩(ちょうせき)は戦いに敗れ戦死した

2022年3月26日

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名前張碩(ちょうせき)
生没年生年不明ー208年
時代後漢末期
勢力黄祖
年表208年 夏口の戦い

張碩は黄祖配下の部将です。

正史三国志の呉書淩統伝に名前があり、黄祖との最終決戦である夏口の戦いで、黄祖側として参戦した事が分かっています。

張碩の記述としては、淩統に斬られた位しか名前がなく、どの様な人物だったのかも不明です。

黄祖は199年の孫策との戦いで、2万人を失う大敗北を喫した話があります。

この戦いでは黄祖の一族も捕らえられた話があり、黄祖側の損害は酷く、黄祖配下の多くの将軍が亡くなったはずです。

多くの将軍が亡くなった事で、張碩は繰り上げで黄祖の一部将になる事が出来たのかも知れません。

尚、甘寧が呉に移った時に孫権に向かって「黄祖は側近の甘言に乗せられ、ひたすら金策に走っています」と述べています。

案外、この側近が張碩を指すのかも知れません。

また、別の味方をすれば黄祖の周りには佞臣が多かったが、そんな中で張碩は奮闘し、最後は淩統に敗れ戦死した可能性もある様に思いました。

黄祖は「江夏に黄祖あり」と呼ばれた事もあり、張碩は黄祖の武を支えた存在だったのかも知れません。

黄祖配下の武将として出陣

黄祖は孫堅を討ち取った人物ともされ、孫家とは因縁の相手だったわけです。

江夏を本拠地とする黄祖は、孫策の時代から争い、西暦208年に夏口の戦いが勃発し、黄祖と孫家の最終決戦が行われました。

この時に、黄祖配下の武将として参戦したのが、張碩です。

張碩に関しては、分かっている事が極端に少ないのですが、208年に黄祖配下の武将として孫権軍と戦った事は間違いなのでしょう。

張碩は「部将」という記述があり、黄祖の配下の中でも位は高く、黄祖の軍議にも呼ばれる程の実力者ではあった様に思います。

張碩は黄祖配下の中では、都督になった記録がある陳就蘇飛よりも格下だったかも知れませんが、それなりの身分のある将軍だったはずです。

淩統に斬られる

張碩は正史三国志の淩統伝に記録があり、208年の夏口の戦いで淩統は孫権から先鋒を命じられる事になります。

淩統は普段から可愛がっていた兵士ら数十人と同じ船にのり、孫権の本隊よりも十数里先行して進みました。

呉軍の先陣に命じられた淩統に対し、黄祖が差し向けた先陣の武将が張碩だったのでしょう。

黄祖から先陣を張碩は命じられたわけですから、武勇に優れた武将だったとも考えられます。

張碩と淩統は戦いになったと思われますが、どの程度の戦いになったのかは不明です。

淩統伝を見ると、下記の記述が存在します。

「淩統は右江に入り、黄祖の部将張碩を斬り水夫を全て捕縛した」

この記述から張碩は淩統に斬られ戦死している事が分かります。

さらに言えば、水夫を全て捕縛したとある事から、淩統の采配が凄まじく張碩は大敗を喫したという事なのでしょう。

張碩がどの様にして亡くなったのか?の描写は不明ですが、208年の戦いで命を落とした事は間違いないはずです。

張碩亡き後の黄祖軍

先陣の張碩が淩統に敗れると、黄祖軍は総崩れになったのか、水軍を率いる都督である陳就も呂蒙に敗れるなど黄祖軍は大敗しました。

夏口の戦い敗れた黄祖は、身一つで逃亡しますが、最後は孫権配下の騎兵である馮則に捕らえられています。

それを考えると、先陣の張碩が敗れた事で、軍全体に波及し、黄祖軍は大敗してしまった様にも感じました。

張碩がどの程度の将軍だったのかは不明ですが、黄祖敗戦の責任の一環はある様に思います。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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