劉虎は正史三国志の注釈「江表伝」によれば、劉表の従子だとする記録があります。
劉虎が劉表の一族であれば、劉琦、劉琮、劉脩、劉磐などは従兄弟になるのでしょう。
劉虎は199年に黄祖が孫策に攻められた際には、韓晞と共に援軍の将として孫策軍と戦っています。
これが沙羨の戦いです。
沙羨の戦いでは、劉虎は韓晞と長矛部隊を率いて、先陣を務めますが、孫策軍に大敗しました。
沙羨の戦いで劉虎は斬首された記録まであります。
今回は劉表の一族であり、孫策に大敗してしまった劉虎を紹介します。
黄祖への援軍となる
袁術は南陽を本拠地にしていましたが、維持する事が出来ずに病死しました。
旧袁術軍は劉勲に吸収されますが、これを孫策が狙い計略により劉勲を追い払っています。
江夏太守の黄祖は、黄射を劉勲の援軍としますが、間に合いませんでした。
劉勲を駆逐した孫策は、矛先を江夏の黄祖に向け攻撃を仕掛けてくると、劉表は劉虎と韓晞を援軍の将として派遣しています。
劉表が劉虎と韓晞を援軍の将として派遣した理由は、韓晞は南陽と関わりがあった様で、戦いに勝った時は、南陽の旧袁術軍の将兵を味方としたかったからでしょう。
さらに、劉表は韓晞だけに任せておくのは危険だと判断したのか、一族の劉虎を援軍の将にした様に思います。
劉表と言えば、優柔不断のイメージが強いですが、一族の劉磐は武勇に優れていた話があり、もしかしてですが将軍に選ばれた劉虎も武勇に優れていた可能性があります。
孫策に歴史的な大敗を喫する
黄祖と孫策は沙羨で、対峙する事になりますが、次の記述が存在します。
「劉表の従子の劉虎と南陽の韓晞が指揮する長矛を装備した五千の部隊が先鋒となった」
この記述を見ると、理由は不明ですが、劉虎と韓晞の劉表が寄越した援軍が、先陣になっている事が分かります。
地形的に長矛が有利であり黄祖が先陣とした可能性もありますが、黄祖としては自分の部隊の損害を出すのを嫌い、劉表の援軍を先陣に立てた可能性もあるでしょう。
それか黄祖は持久戦をしたかったが、劉虎や韓晞は好戦的であり、自ら先陣を志願したのかも知れません
沙羨の戦いで黄祖は2万の兵を失い男女七人の子が捕虜になった話があります。
それを考えると、黄祖はかなり気合を入れて戦に挑んだ様にも見えます。
しかし、沙羨の戦いが始まると黄祖軍は崩れ、劉虎や韓晞が戦死しました。
これらを考慮すると、劉虎や韓晞は黄祖本体の大軍に期待し、黄祖は出来る限り劉虎や韓晞ら劉表の援軍に戦って貰いたいと考えていたとするのが妥当かも知れません。
それに対し、孫策軍には次の記述が存在します。
「孫策自ら馬に跨り敵を蹴散らし、戦鼓を打ち攻勢の勢いを整えた」
この時の孫策は自ら陣頭で指揮を執り、敵と戦ったのでしょう。
さらに、孫策軍は戦略家の周瑜を始め呂範、程普、韓当、黄蓋、孫権など呉の重鎮を引き連れて出陣しているわけです。
それらを考慮すると、数の上では黄祖軍が多かったが、腰が引けており、自ら積極的に陣頭に立ち指揮をする孫策に敗れ去ったと考えるべきではないでしょうか。
実際に、劉虎が長矛部隊を率いて先陣となった様ですが、黄祖軍は破れ二万人が斬首される歴史的な大敗を喫したとも言えるでしょう。
ただし、孫策軍も多くの犠牲者を出したのか、江夏を奪う事が出来ていません。
それを考えると、黄祖は局地戦で破れ損害を出しながらも、辛くも守り切ったとも言えます。
沙羨の戦いは、春秋戦国時代に白起が伊闕の戦いで韓と魏の連合軍を破っていますが、似た様な展開だったのではないか?とも感じました。
因みに、孫策は200年に許貢の食客により、命を落としています。
それを考えると孫策と劉虎、韓晞の戦いは、孫策の人生の集大成とも言える戦いだとも言えるでしょう。
劉虎では役不足な感じもありますが、孫策最後の敵でもあります。