名前 | 元弘の変 |
別名 | 元弘の乱 |
年表 | 1331年~1333年 |
対立勢力 | 後醍醐天皇⇔鎌倉幕府 |
コメント | 亀倉幕府滅亡の一連の戦いを指す |
元弘の変は1331年から1333年に鎌倉幕府が滅亡するまでの戦いを指します。
1331年に後醍醐天皇が六波羅探題の目をくぐり笠置山で挙兵しました。
後醍醐天皇の挙兵が元弘の変の始まりとなります。
これに呼応したのが楠木正成でしたが、後醍醐天皇は短期間で捕虜となり隠岐に流されました。
しかし、護良親王や楠木正成が再度挙兵し、後醍醐天皇も隠岐を脱出する事になります。
楠木正成が奮戦する中で足利尊氏が朝廷軍に寝返り、新田義貞も鎌倉に向けて進軍を始めました。
六波羅探題が足利尊氏により陥落し、鎌倉も新田義貞が落とした事で、鎌倉幕府は滅亡しています。
今回は元寇の変を分かりやすく解説します。
尚、元寇の変から六波羅探題の滅亡を題材にした動画を作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
元弘の変の始まり
元弘元年(1331年)8月初旬に鎌倉では北条高時が長崎高資を排除しようとしますが、失敗に終わり逆に北条高時に近しい立場の得宗被官数名が流罪となるなど、権力闘争が勃発していました。
後醍醐天皇は自分の子を後継者にしようと考えており、この機会を逃さず倒幕を目指す事になります。
1331年8月の終わりに吉田定房の密告があり、後醍醐天皇による倒幕計画が露見しました。
北条仲時が六波羅探題に就任してから間もない時期に、元弘の変が勃発した事になるでしょう。
六波羅探題から報告を受けた鎌倉幕府の中枢は事の対処を急ぎ、日野俊基、文観、円観を捕らえ鎌倉に送りました。
1331年の8月になると、後醍醐天皇が護良親王の意見もあり、富小路内裏を脱出し出奔する事になります。
後醍醐天皇の出奔を知った神五左衛門尉は、六波羅探題に急報しました。
六波羅探題の北条仲時らは後醍醐天皇の側近である万里小路宜房、三条公明、洞院実世、平成輔らの身柄を拘束する事になります。
後醍醐天皇の影武者
後醍醐天皇は宗良親王、四条隆資、北畠具行らと共に京都を脱出し、笠置山に籠城する事になります。
後醍醐天皇も策を講じており、花山院師賢を影武者として比叡山に向かわせていました。
六波羅探題の北条仲時や時益らは後醍醐天皇が比叡山に籠城したと勘違いし、比叡山に軍を派遣しています。
北条仲時と時益は配下の高橋孫五郎と糟屋孫八を派遣し、鎌倉幕府の上層部に伝えています。
さらに、六波羅探題は九州を統括する幕府機構である鎮西探題へも援軍を求めました。
六波羅探題の軍事力は脆弱であり、鎮西探題の援護がなければ苦しい立場だったとみる事が出来ます。
六波羅探題の軍は佐々木時信、長井高広、町野信宗、小田時知ら近畿に在京している御家人と共に比叡山を攻撃したわけです。
この戦いで海東備前左近大夫将監が比叡山の僧兵と戦い戦死しました。
1331年8月末になると後醍醐天皇が比叡山にいないと明らかになり、僧兵もやる気を失くした事で、六波羅探題も攻撃を止め笠置山に軍を遷す事になります。
北条仲時ら六波羅探題は雑賀隼人佑や松田十郎を鎌倉に派遣し戦況を報告しました。
皇族が六波羅北方に避難
六波羅探題と比叡山の僧兵が戦った頃に、北条仲時や時益らは後伏見上皇、花園上皇、量仁親王らが六波羅北方に入る様に要請しました。
元弘の乱は近畿での戦いであったために、最も安全な場所が六波羅探題館だと判断したのでしょう。
後伏見天皇、花園上皇、量仁親王らは六波羅北方に入る事になります。
尚、後醍醐天皇が笠置山の戦いで籠城している最中に、鎌倉幕府では持明院統の量仁親王を光厳天皇として即位させました。
これが光厳天皇となります。
ただし、光厳天皇の皇太子には大覚寺統の康仁親王が選ばれており、鎌倉幕府は両統迭立及び文保の和談を維持しました。
因みに、後醍醐天皇は傍流であり、支持した者は少なく鎌倉幕府では直系の康仁親王を東宮(皇太子)にしたとみる事も出来ます。
笠置山の戦い
後醍醐天皇との間で笠置山城の戦いが勃発しますが、同じころに楠木正成も赤坂城で挙兵しました。
1331年の9月に入ると六波羅奉行人の飯尾覚民と関正証らが南都に下向し、さらに宗像真性、俣野家景も奈良に向かいます。
北条仲時ら六波羅探題は宗教勢力である興福寺大乗院門跡に、笠置山城への攻撃に参加する様に要請しました。
しかし、笠置山防衛軍は寡兵でありながらも奮戦し、六波羅探題の軍は城を落とす事が出来なかったわけです。
鎌倉幕府の首脳部は金沢貞冬、大仏貞直、足利尊氏、江馬越前入道らを派遣し、六波羅探題への援軍としました。
この時の軍は20万8千騎とする記録もあり、大軍だった事は間違いないでしょう。
援軍を得た北条仲時は一気に勝負を決め笠置山城の戦いで勝利しています。
楠木正成との赤坂城の戦いでも幕府軍が勝利しますが、楠木正成は逃亡し行方を晦ます事となります。
捕虜となった後醍醐天皇は隠岐への配流が決定し、千種忠顕や阿野廉子らと共に隠岐に向かいました。
後醍醐天皇に与した万里小路藤房が常陸の小田治久に預けられたり、北畠具行、花山院師賢らも配流されています。
北畠具行などは佐々木道誉の助命嘆願もありましたが、処刑され世を去っています。
これで平和が訪れたと北条高時や北条仲時、北条時益ら鎌倉幕府の役人は思った事でしょう。
護良親王と楠木正成の挙兵
正慶元年・元弘二年(1332年)11月になると護良親王が吉野で挙兵し、楠木正成も千早城で挙兵しました。
護良親王は令旨を発行し見方を増やそうと画策しました。
こうした中で鎌倉から尾藤弾正左衛門尉が上洛し、1333年になると鎌倉から阿曽治時・大仏高直・名越宗教が大将軍として上洛しています。
北条仲時や時益らは六波羅探題管轄の二十六ヵ国の御家人も繰り出し、京都を警護する役目である大番衆も駆り出されました。
大番衆というのは、諸国の武士が交代で京都を警護する仕組みでもあり、この中には新田義貞もいたわけです。
ただし、大番衆まで借り出さなければならなかった実情から、笠置山の戦いに比べて軍勢の規模は小さかったとも考えらえています。
鎌倉幕府では護良親王や楠木正成を大した敵ではないと考えていた様ですが、楠木正成は想像を超える活躍を見せる事になります。
ただし、幕府軍に全くの見せ場が無かったわけでもなく、楠木正成は摂津天王寺からも京都を襲撃する動きを見せますが、幕府軍の宇都宮公綱が互角の戦いを見せています。
こうした中で病気を理由に新田義貞が本国である上野に戻る事になりました。
北条仲時も新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす事になるとは思いもよらなかった事でしょう。
赤松円心の裏切り
北条仲時、時益を総大将とする六波羅探題ですが、楠木正成が籠る千早城を落す事が出来ず、幕府軍の求心力は次々と低下しました。
六波羅探題の軍は長井高広、小田貞知らが楠木軍を戦いますが、守りを固めた楠木正成に攻めあぐねたわけです。
こうした中で播磨の赤松円心が苔縄城で挙兵しました。
苔縄城のある佐用庄は六波羅探題の料所でもあり、赤松円心は六波羅探題に属する武士だとも考えられ、赤松円心の裏切りは北条仲時を悩ませたはずです。
赤松円心の子の赤松則祐は護良親王と近しい関係であり、赤松則祐の説得により倒幕に舵を切ったと考えられています。
それでも、幕府軍は護良親王が籠る吉野を1333年2月に陥落させています。
吉野陥落は北条仲時にも安堵を与えた事でしょう。
ただし、護良親王は捕縛されておらず、行方を晦ましました。
苦戦する幕府軍
鎌倉幕府及び六波羅探題の求心力が低下する中で、1333年2月の後半に差し掛かると、後醍醐天皇までが隠岐を脱出し伯耆の名和長年に迎え入れられました。
名和長年は隠岐守護の佐々木清高を船上山の戦いで破り、後醍醐天皇は多くの綸旨を発行する事になります。
赤松円心が都を兵糧攻めにしたり、摂津国瀬川の戦いでは六波羅軍を破るなどの活躍も見せる事になります。
北条仲時は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らを再び六波羅北方に入れ守りを固めました。
後醍醐天皇は千種忠顕を京都に派遣し、殿法印良忠、中院定平、赤松円心の京都攻めに加わる事になります。
それでも、六波羅探題の軍は何とか京都から進軍してきた敵を打ち破りました。
六波羅館の防備を固める
太平記によれば六波羅館の河原面に大きな堀を造り鴨川の水を引き入れ、残りの三方は土堀を高く築き六波羅を要塞化したとあります。
さらに、多数の櫓も造り、逆茂木で敵の侵入を防ごうとしました。
元弘の変のクライマックスが近づいており、六波羅探題も最終決戦の為に防備を固めたと言えるでしょう。
幕府軍の本隊は千早城周辺に釘付けにされており、京都の守は六波羅探題が担うしかなかったわけです。
元弘の変の終焉
正慶二年四月の半ばごろになると、鎌倉幕府は六波羅探題の援軍として名越高家と足利尊氏を派遣しました。
楠木正成に苦戦する話を聞き、鎌倉幕府の中央では大軍を派遣したのでしょう。
当初の予定では山陽道から名越高家が進撃し、足利尊氏が搦手として山陽道から進撃する予定でした。
名越高家や足利尊氏の軍は伯耆の船上山にいる後醍醐天皇を攻撃する予定だったわけです。
しかし、早い段階で名越高家が赤松円心により久我縄手で戦死し、幕府軍に動揺が拡がる事になります。
この時に足利尊氏は細川和氏などの進言もあり、倒幕に舵を切ったと考えられています。
4月の終わりに足利尊氏は丹波篠村八幡宮で願文を奉納し、倒幕の祈願をしました。
足利軍は丹波から京都に軍を向かわせ、東国の新田義貞には鎌倉を攻める様に命令し、九州の大友貞宗や島津貞久らには鎮西探題を攻撃する様にと要請しています。
当時の武士は勢いがある軍にどんどん味方して行くのが普通であり、六波羅探題は絶望的な状態となります。
足利尊氏は七つに軍勢を分けて、六波羅探題を攻撃し六波羅軍も奮戦したものの衆寡敵せず敗れました。
北条仲時、時益は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らと共に東国を目指し、京都を落ち延びますが、途中で鎌倉幕府の滅亡を知る事になります。
北条仲時は自害し六波羅探題は完全に滅亡しました。
関東でも新田義貞が鎌倉を陥落させ北条高時を自害に追い込み、元弘の変も終わりを迎えたと言えるでしょう。
元弘の変から六波羅探題滅亡の動画
元弘の変から六波羅探題の滅亡までのゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は「六波羅探題 (歴史文化ライブラリー 535)」「地獄を二度も見た天皇光厳院」「太平記」をベースに作成しました。