
玄菟郡は楽浪四郡(漢四郡)に含まれる前漢の直轄地となります。
玄菟郡の名前の由来は不明であり分かっていません。
楽浪四郡の臨屯郡や真番郡は、早い時期に姿を消しますが、玄菟郡は楽浪郡と共に西晋の時代まで続く事になります。
ただし、高句麗の攻勢などもあり、本拠地は次第に遼東半島に近い位置に移動する事になりました。
最後は西晋の滅亡と共に、玄菟郡は消滅しています。
玄菟郡の設置
玄菟郡は楽浪四郡の一つであり、他の楽浪四郡の楽浪郡、臨屯郡、真番郡が紀元前108年に設置されたのに対し、玄菟郡は1年遅れの紀元前107年に設置されました。
玄菟郡は沃沮県を郡治にしたと考えられています。
楽浪四郡の中では、玄菟郡は最も北にあり南西では楽浪郡と国境を接し、南西では臨屯郡と国境が接する事になります。
南に位置する真番郡には国境を接していません。
過去には真番郡北在説も存在し、玄菟郡と国境を接しているとも考えられていましたが、現在では支持する専門家は少ないと言えます。
真番郡北在説については、真番郡の記事で解説してあります。
第一次再編
前漢の武帝の時代が終わると昭帝の時代となりますが、ここで楽浪四郡の再編が行われました。
第一次再編は昭帝の始元5年(前82年)に行われ、臨屯郡と真番郡を取りやめ、楽浪郡と玄菟郡に合併される事になります。
この時に、太白山脈(単単大嶺)の東を玄菟郡に合併させた様であり、玄菟郡の領有する地域は、かなり広くなったと見られています。
玄菟郡は広域を支配する様になり、楽浪郡よりも支配領域は多かったのではないでしょうか。
玄菟郡の移動
前漢の昭帝の元鳳6年(前75年)の記述に「郡国の徒を募り、遼東の玄菟郡を築く」とあります。
これを読むと、玄菟郡は玄菟城を築き防備を固めた様に思うかも知れません。
しかし、玄菟城を築いた場所は遼東となっており、玄菟郡の支配領域ではありません。
この続きとして、玄菟が本拠地を高句麗に遷したとあり、それに伴い太白山脈の東の地を楽浪郡に属したとあります。
紀元前82年の第一次再編の時に、臨屯郡から合併した領地を楽浪郡に合併させたという事なのでしょう。
玄菟郡は東の遼東に遷り、郡治が置かれた沃沮県も楽浪郡に合併されました。
貊や高句麗の激しい抵抗があり、玄菟郡は東に遷ったと考えられています。
その後の玄菟郡
前漢は王莽により滅亡し、新王朝も滅びると後漢王朝の時代となりました。
この時代になっても、玄菟郡は楽浪郡と共に存在していたわけです。
後漢の安帝の時代である紀元前106年頃に、高句麗の力が強大となり、抑え込むのが難しかったのか、玄菟郡はさらに遼東寄りに移動しました。
三国志の時代に公孫度が遼東で勢力を拡大させると、玄菟郡も傘下に入る事になります。
遼東公孫氏の公孫康は楽浪郡の南部を帯方郡として分割しました。
魏の時代に玄菟郡は平州に属したり、幽州に属すなどしていた事が分かっています。
晋書地理志によると、平州に楽浪郡、帯方郡、遼東郡、昌黎郡、玄菟郡が組み込まれていた記録があります。
この時に玄菟郡の記録として、高句麗県、望平県、高顕県と三県を管轄し、戸数は3200戸だったとされています。
魏は西晋に代わり呉を滅ぼし天下統一しますが、八王の乱や永嘉の乱により弱体化し、異民族も入り込み五胡十六国の時代に向かっていきました。
こうした中で楽浪郡が消滅し、紀元前315年には高句麗により玄菟郡も消滅したとされています。
玄菟郡は西晋が崩壊する中で姿を消しました。