名前 | 月氏(げっし) |
場所 | 河西回廊→イリ河畔→バクトリア地方 |
コメント | 匈奴に駆逐され西遷した民族 |
月氏は東アジアや中央アジアにいた遊牧民であり、トルコ系ともイラン系とも言われています。
月氏の民族系統は諸説があり、はっきりとしない状態です。
中国では春秋戦国時代や秦の時代がありましたが、戦国時代には既に月氏は河西回廊の付近にいたとされています。
しかし、後年に冒頓単于は漢の劉邦を破ると、河西回廊に攻撃を仕掛けて来て月氏は敗走し西遷しました。
西遷した月氏は西のイリ河畔にいた塞族を追い出し、その地を領有しますが、匈奴は烏孫を攻撃しています。
匈奴に敗れた烏孫がイリ河畔にやって来ると、月氏は駆逐され中央アジアのバクトリア地方に移る事になります。
この頃には、月氏は大月氏と小月氏に別れており、小月氏は早々と歴史から姿を消し大月氏はクシャーナ朝へと変わっていく事になります。
河西回廊を領有
匈奴は破れ勢力は後退する事になります。
この当時は匈奴が弱くなり北方は西の月氏と東の東胡が強かったわけです。
川西回廊は通商路であり、月氏は多くの財貨を得ていました。
月氏は遊牧民ではありますが、よい場所を得ていたと言えるでしょう。
冒頓単于の即位
冒頓単于は太子だった頃に父親の頭曼単于に疎まれて月氏の人質になっていた事があります。
頭曼単于は冒頓を亡き者にしようと、冒頓が人質になっているにも関わらず、月氏に攻撃を仕掛けました。
冒頓は月氏の駿馬を奪い匈奴まで逃げ延びて来ると、父親の頭曼単于は1万騎を預け褒美を与えています。
後に冒頓は父親の頭曼単于を殺害し、東胡を油断させて破り勢力を大きく広げました。
即位した冒頓単于は月氏にも攻撃を仕掛けてきますが、この時は月氏は匈奴の攻撃を耐えきった様です。
匈奴に敗れる
中華では楚漢戦争で項羽と劉邦が争いますが、劉邦が勝利しました。
匈奴の大王である冒頓単于は白登山の戦いで劉邦を破り、漢を弟分の国としました。
尚、楚漢戦争で項羽が勝っていたならば、項羽と冒頓単于の激突となり、匈奴は勝利する事が出来ず、莫大な財貨を手に入れる事が出来ない為に、月氏は匈奴の攻撃を受けなかったとも考えられています。
匈奴は漢に勝利し毎年、多くの財貨を漢から得られる様になり、国力を大幅に上昇させ河西回廊にいる月氏に攻撃を仕掛けてきました。
漢の文帝の時代である紀元前176年(前174年説もある)に冒頓単于が漢に送った手紙の中で、匈奴の右賢王が月氏を滅ぼし、楼蘭、烏孫、呼掲及び近隣の26カ国を平定したとあります。
ただし、冒頓単于が漢へ送った手紙には誇大表現もあり、この時にはまだ月氏を滅ぼしていなかった説があります。
実際のところは、月氏は匈奴の右賢王の攻撃により危機に立たされますが、完全に滅んだという訳ではなかったようです。
月氏の領域
冒頓単于が漢に宛てた手紙の中で、月氏を滅ぼし楼蘭、烏孫、呼掲を平定したとする記述があります。
これらの記述から、月氏は楼蘭、烏孫、呼掲らを従属させていたのではないか?とする説もあります。
それを考えると、月氏はかなりの大勢力になるはずです。
しかし、史記の大宛列伝では、張騫の記述の中で月氏の本来の土地は敦煌と祁連山の間だとされています
これだと月氏の勢力範囲が大きく縮小される事になるわけです。
これを埋める説として月氏の領域がモンゴル高原の西部から新疆までとする広大な領域を支配していたとする説もあります。
冒頓が即位した頃に月氏は東胡と共に強大であり、広範囲を支配していたのではないか?とする説です。
髑髏の盃
冒頓単于が亡くなると老上単于が即位しました。
老上単于の時代も匈奴は月氏に攻撃を仕掛け、月氏の王を殺害した話まであります。
この時に匈奴は月氏の王の皮を剥ぎ髑髏の盃にしてしまったとされています。
この話が織田信長が朝倉義景や浅井長政を滅ぼした時の髑髏の盃の話に繋がったとされています。
しかし、月氏の話も含めて髑髏の盃の話の真意は不明です。
月氏の王は殺害されましたが、まだまだ月氏は侮れない勢力だったともされています。
後の月氏
月氏は最終的には匈奴に押され河西回廊を完全に放棄し西に移ったのは確実でしょう。
ただし、甘粛方面に残った月氏もおり、残った月氏を小月氏と呼びますが、早々と歴史から姿を消す事になります。
西に移動した月氏はイリ河畔にいた塞族を駆逐し、その地を領有しました。
敗れた塞族はバクトリア王国に流れ込み、バクトリア王国は大混乱に陥ります。
イリ河畔にいた月氏も後に匈奴に故地を追われた烏孫の攻撃を受け、バクトリア地方に移動しました。
西に向かった月氏を大月氏と呼び、中央アジアで発展する事になります。
後に大月氏の支える部族だったクシャンが大月氏国に取って代わり、クシャーナ朝を建国する事になります。
尚、三国志の魏が倭国の親魏倭王と並ぶ、大月氏には親魏大月氏王を授与していますが、これは元の大月氏ではなくクシャーナ朝の事です。
クシャーナ朝も月氏の流れを汲むとする説もあれば、バクトリア地方の一部族だった説もありはっきりとしない部分と言えるでしょう。