
| 名前 | 魏の文侯 |
| 名前 | 魏斯(ぎし) |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前396年 |
| 時代 | 春秋戦国時代 |
| 一族 | 父:魏駒 子:魏の武侯 |
| コメント | 周王や晋公の権威を利用し覇者体制を復活した。 |
魏の文侯は魏駒の子で、晋の正卿となり覇者体制を復活させ、魏を最強国に押し上げた君主です。
魏の文侯が君主の時代は、秦に対し呉起を登用し戦いを優位に進め、河西の地を奪っています。
斉との戦いでは晋の烈公の権威を利用し政治力を発揮し、長城の戦いで斉を破りました。
魏の文侯は周の威烈王に朝見し、韓や趙と共に諸侯として認められる事になります。
魏の文侯は「侯」の身分にはなりましたが、周王や晋公を奉じ続けており、勢力を拡大しようとしました。
魏の文公は孔子の弟子の子夏を登用した事でも知られ、配下には李克、西門豹、楽羊がいるなど人材にも恵まれた時代でした。
豊富な人材を使いこなし、魏を最強国に押し上げたのが魏の文侯となります。
晋の正卿に就任
趙襄子が紀元前425年に亡くなると、趙の献公が後継者となりますが、趙桓子との間で争いが起きました。
この隙に、晋の正卿に就任したのが、魏の文侯です。
趙襄子は北方の異民族支配の強化を狙っており、政治力を発揮し三晋(趙、魏、韓)を纏め上げて、勢力拡大しようとはしませんでした。
しかし、魏の文侯は晋の公室や周王の権威を活用し、政治力を発揮し勢力拡大を狙う事になります。
魏と秦の戦い
秦との戦いが始まる
この頃になると趙は衛へ向けて勢力拡大をし、韓は鄭を攻め滅ぼすべく動く事になります。
こうした中で魏の文侯は秦にターゲットを絞りました。
魏の文侯は紀元前419年に少梁に築城し、翌年には秦と戦っています。
秦も龐を整備し籍姑に築城するなどしており、魏との戦いに備えました。
晋の烈公を擁立
紀元前416年に、晋の幽公が何者かにより殺害されました。
史記などでは晋の幽公が街に出て夫人と戯れていた所を賊に襲撃された事になっています。
晋の幽公の夫人の秦嬴は秦の出身であり、晋の幽公は立場上として魏の文侯の秦との戦いを反対したと考えられます。
一つの説として、魏の文侯が邪魔な晋の幽公を暗殺し、秦嬴の責任として出兵し晋の混乱を収めた可能性も指摘されています。
魏の文侯は晋の烈公を擁立し、晋への影響力をさらに拡大しました。
魏の本拠地である安邑は晋の本拠地である新絳に近く、直ぐに混乱を治めてしまったのでしょう。
河西を手に入れる
魏は紀元前413年に渭水の南の鄭で秦軍を破っています。
紀元前412年には子の子撃(魏の武侯)に命じて、繁龐を包囲させました。
繁龐では、その民を城外に出し、兵禍から逃れさせたとあります。
紀元前409年には臨晋・元里に築城し、紀元前408年に鄭まで進出し、洛陰、合陽に築城しました。
この年に秦は洛水にまで防衛線を後退させており、魏は秦との戦いにおいて河西を奪取したと言えるでしょう。
これ以後は紀元前393年になるまで、魏と秦の戦いは見られず、魏の秦との戦いはひと段落しました。
魏の文侯は対秦戦争において、大成功を収めています。
この時の魏には呉起がおり、秦との戦いにおいて大いに奮戦したわけです。
斉との戦い
晋が紀元前421年に魯と楚丘で会合を行っており葭密に築城するなどしています。
魯との会合などは正卿である魏の文侯の意向を多く含んだ出来事だとみえる事も出来るはずです。
この時期に黄河の右岸に、晋は幾つかの拠点を設けたと考えられています。
越では越王朱句が滕を滅ぼすなど強勢であり、斉は晋を攻撃しました。
紀元前413年に斉は黄城を破壊した話がありますが、黄城は魏の城だったのではないかと考えられています。
斉は晋と同盟していた魯や衛を攻撃しました。
この時代は斉の宣公の時代でしたが、実権を握っていたのは、田悼子でした。
しかし、田悼子は紀元前405年に亡くなると、斉では内紛があり田会が廩丘を以て趙に帰順しています。
斉の田布が廩丘を攻撃しますが、晋が出兵し田布を龍沢で破りました。
晋が出兵した事になっていますが、実際には晋の正卿である魏の文侯の意向によるものだったのでしょう。
紀元前404年には斉との間で長城の戦いが勃発しました。
長城の戦いは周の威烈王の王命により、晋が斉を攻めた戦いとなり、斉の長城を超えて晋軍が侵入した事になります。
竹書紀年によると周の威烈王は韓景子、趙烈子、翟角に命じて斉を討伐させた事になっています。
翟角は魏の武将であり、魏の文侯が派遣したのでしょう。
繋年では魏の文侯の魏斯が、晋軍を率いて斉を大敗させた事が記述されています。
諸侯として認められる
繋年によると、斉の捕虜を周王に献じ、斉の康公や魯、宋、衛の君主と共に周王に朝見したとあります。
魏の文侯は尊王を明らかにし、絶大なる功績を挙げた事になるでしょう。
紀元前403年に魏の文侯、韓の景侯、趙の烈侯と共に諸侯として認められました。
魏、韓、趙が諸侯として認められた時が、春秋時代と戦国時代の分かれだとする見解もあります。
ただし、斉が紀元前401年に陽狐まで侵攻した記録もあり、紛争は終わってはいなかったとする指摘もある状態です。
魏は諸侯として認められますが、魏の文公は引き続き晋公や周王を尊ぶ姿勢を見せます。
名目上は晋の覇権が復活した様に見えますが、実質的には魏の覇権だったと言えるでしょう。
魏の文侯と斉の田和
史記の田敬仲完世家に魏の文侯と斉の田和の話が掲載されています。
田敬仲完世家によると、魏の文侯と斉の田和が濁沢で会合を行ったとあります。
この時に斉の君主として、斉の康公がいましたが、田和は斉公の位を望みました。
魏の文侯は周王や諸侯に働きかけ、田和を諸侯として認められる様に取り計らったと言います。
しかし、田和が斉の君主として認めらえるのは、魏の武侯の時代であり、この記述は何処までが本当なのか分からない部分でもあります。
それでも、長城の戦いの時には険悪だった魏と斉の仲は回復に向かったのでしょう。
魏の文侯の最後
魏の文侯は紀元前396年に亡くなった事が分かっています。
魏の文侯の時代に、魏は最強国にのし上がりました。
後継者は魏の武侯となり、魏の覇権は引き継がれる事になります。
魏の文侯は魏を覇権国に押し上げた名君だと言えるでしょう。
| 先代:魏駒 | 魏の文侯 | 次代:武侯 |