その他 三国志 後漢

樊稠(はんちゅう)は疑いを招き最後を迎えていた

2023年2月14日

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宮下悠史

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名前樊稠(はんちゅう)
生没年生年不明ー195年
時代三国志、後漢末期
勢力董卓李傕
年表192年 右将軍・万年侯となる
画像©コーエーテクモゲームス

樊稠は正史三国志に名前が登場する人物であり、涼州の出身となります。

樊稠の出身地ですが、後に韓遂の口から「貴方と私は同郷人」とする言葉があり、涼州金城郡の出身だと考えられています。

192年に董卓王允呂布に殺害されると、樊稠は李蒙、王方らと共に李傕を助け長安を急襲しました。

後に樊稠は右将軍となりますが、結局は韓遂との一件で李傕に疑われた事で最後を迎えています。

今回は李傕政権で重きをなしたのに、結局は滅びた樊稠を解説します。

尚、三国志演義で華雄が討たれた後に、董卓が李儒、呂布、樊稠、張済を引き連れて虎牢関に向かう描写がありますが、これは史実にはありません。

虎牢関の戦い事態が創作であり、史実とは言えないでしょう。

因みに、樊稠は三国志演義でも、李傕に疑われ最後を迎えました。

董卓の仇を討つ

董卓は長安に遷都し後漢王朝の相国となり、絶大な権力を得ますが王允の策により呂布が動き最後を迎えました。

この時に牛輔配下の李傕郭汜は、賈詡の進言により、董卓の仇を討つべく長安に進撃します。

李傕が長安に向かっている情報をキャッチしたのか、樊稠は李蒙や王方と共に李傕の軍に合流しました。

長安の城内では呂布と李傕、郭汜、樊稠らの軍が戦いを繰り広げますが、最後は李傕らの軍が勝利し呂布は逃亡し、王允を処刑する事に成功します。

王允を討った事で李傕が献帝を擁し、李傕政権が誕生したわけです。

李傕政権では樊稠は右将軍・万年侯となった記録があり、さらには、次の記述まで存在します。

※正史三国志より

李傕、郭汜、樊稠は朝政を思いのままに動かした。

上記の記述から、樊稠が政権の重鎮となった事が分かるはずです。

後に樊稠は郭汜と共に、馮翊羌を破るなどの活躍も見せています。

尚、正史三国志の賈詡伝の注釈・献帝紀によると樊稠、郭汜が李傕と対立し、賈詡が宥めたとする記述があり、樊稠はどちらかと言えば郭汜に近い人物だった様にも感じます。

しかし、李傕、郭汜、樊稠らに天下を統べるだけの器量はありませんでした。

馬騰を破る

涼州の軍閥であった韓遂と馬騰が降伏し、軍勢を率いて長安に到着しました。

この時に李傕らは韓遂を涼州に帰らせ、馬騰を郿に駐屯させています。

しかし、後漢王朝の大臣である馬宇、种劭、劉範らが、馬騰に長安を襲撃させようと画策しました。

劉範は益州牧の劉焉の子であり、劉焉もこれらの計画に関わっていたのでしょう。

しかし、計画が露見すると樊稠が馬騰を急襲しました。

樊稠に襲撃された馬騰は、持ちこたえる事が出来ず結局は、涼州に逃亡しています。

樊稠は馬騰を破っただけではなく、槐里で馬宇らを討ち取る事にも成功しました。

これを見ると、樊稠の用兵自体は、それほど悪くはないのでしょう。

兵を率いるのに慣れていたとも言えるはずです。

樊稠と韓遂

樊稠は馬騰らを破ったわけですが、九州春秋では馬騰だけではなく、韓遂も樊稠が破った事になっています。

九州春秋では樊稠は陳倉まで馬騰や韓遂を追撃しており、涼州勢にそれなりの打撃を与えたはずです。

ここで韓遂が樊稠に、次の様に伝言しました。

※九州春秋より

韓遂「天下はひっくり返ってしまい、この先はどうなるのかは分からない。

そもそも抗争の原因は私怨ではなく、国家の事だったはずだ。

貴方(樊稠)と私は同郷人であり、現在は些細なすれ違いが起きてはいるが、大きな立場で考えれば同一である。

貴方と私で仲良く語り合った上で、別れようと思う。

万一思い通りに出会えなかったら、二度と顔を合わせられるのかは分からないだろう」

韓遂と樊稠は部下を遠ざけて、暫く語り合ってから別れました。

この時に、樊稠と韓遂が何を話したのかは不明ですが、周りの人から見ると親しげに話していたとあります。

樊稠の最後

樊稠と韓遂の様子を見ていた李利は、そのまま李傕に報告しました。

李利は李傕の兄の子です。

李利の話を聞いた李傕は、樊稠と韓遂の間で密約が結ばれ、異心を抱いたのではないか?と疑う事となります。

後に樊稠は函谷関から出たいと考え、李傕に兵を増やして欲しいと申し入れをします。

李傕は樊稠を会議に招き、その場で殺害してしまいました。

樊稠は韓遂と親しげに話してしまった事で、李傕に疑われ命を落してしまったと言えるでしょう。

樊稠を見ていると、やはり脇が甘いと思えてなりません。

尚、韓遂は樊稠と親しく話した事で、樊稠は命を落しましたが、後に韓遂は馬超と共に曹操と戦った時に、韓遂は曹操と親しげに話した事で馬超に疑われています。

この辺りは、歴史は繰り返すと思えてなりません。

因みに、樊稠の最後には異説もあり、李傕が樊稠の人望を恐れ胡封に暗殺させたとする説もあります。

どちらにしろ樊稠の最後と、李傕は深く関わっているのでしょう。

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