肥下の戦いに関しては、趙世家に記録があり、李牧が趙軍を率いて秦を破った戦いでもあります。
肥下の戦いと同時期に、宜安の戦いも行われており、宜安の戦いでも李牧が秦の桓齮を退けています。
史記の記録が曖昧な事もあり、宜安の戦いと肥下の戦いが同じ戦いを指すのかは不明です。
既に宜安の戦いに関しては記事にしてあり、史記の廉頗藺相如列伝や始皇本紀、趙世家の記録に関しては記述してあります。
ここでは、肥下の戦いと題して、李牧と桓齮の戦いを記録を元に整合性を取ると、どの様になるのかを解説します。
今回の記事に関しては、私の空想の部分も含まれていますので、その点は注意してください。
桓齮が宜安を取る
肥下の戦いの前年である紀元前234年に、桓齮が趙の扈輒を平陽の戦いで破り、10万を斬首するなど大戦果を挙げた記録があります。
始皇本紀には、次の記述が存在します。
※始皇本紀の記述
桓齮は平陽を攻撃し宜安を取り、
その軍を破り将軍を殺し、平陽、武城を平定した。
これを見ると分かる様に、桓齮は平陽を取った勢いで、趙の首都邯鄲の北に位置する宜安を攻め取った様にも思います。
既に邯鄲の南の地域は、王翦、楊端和らと行った鄴の戦いで、秦の支配地域となっており、桓齮は趙を南北に分断する為に宜安を攻撃し陥落させたのでしょう。
趙は扈輒が平陽の戦いで破れ10万の兵を失っていた事もあり、邯鄲の付近では兵を集めるのが難しく、いい様に桓齮にやられてしまった様にも感じました。
大将軍李牧
当時の趙の領土は太山脈よりも西側は秦に取られてしまい、南北に長い領土となっていたはずです。
首都の邯鄲は南方にあり、北方の代には李牧が控えていた事になるでしょう。
桓齮が邯鄲と代の中間地点である宜安を奪った事で、趙の首脳部は李牧を大将軍に任じ南下させ、桓齮を討つ様に命じたとも考えられます。
代の李牧は普通であれば、北方の匈奴に睨みを利かせなければならない存在です。
しかし、この時には李牧が匈奴を大破し大打撃を与えていた事で、北方は安定していたのでしょう。
李牧率いる代の軍勢は、桓齮と雌雄を決する為に、南下しました。
肥下の戦いが勃発
趙側の記録である史記の趙世家には、下記の記述が存在します。
※趙世家の記述
幽穆王の3年、秦が赤麗、宜安を攻めた。
李牧が軍を率いて肥下で戦って、これを退けた。
趙の幽穆王の3年に「秦が赤麗、宜安を攻めた。」とありますが、始皇本紀の記述を尊重すれば、この時の秦の将軍は桓齮であり、赤麗及び宜安を陥落させる事に成功したのでしょう。
この後に、李牧の軍が桓齮の軍を急襲し、肥下の戦い李牧が大勝した様に思います。
桓齮は一度は宜安を攻略しますが、援軍に来た李牧に敗れたと考えるのが妥当だと感じました。
想像の域に入ってしまうのですが、桓齮は宜安を攻略した事で調子に乗り油断した所に、李牧が急激が接近し秦軍を破った可能性もある様に思います。
項羽と劉邦が戦った彭城の戦いの様な内容だった可能性もあるでしょう。
秦本紀は桓齮が宜安を攻略した事位しか記述がありませんが、李牧は桓齮と戦った後に、番吾の戦いでも秦軍を破った記録があり、李牧が普通に考えて勝利したのではないかと考えられます。
尚、戦いに敗れた桓齮は秦に帰れば秦王政に罰せられると考えたのか、燕に逃亡した話があります。
燕には太子丹がおり秦王政に対し深い恨みを抱いており、後に荊軻を刺客として秦に派遣しました。
この時に、秦王政を油断させる為の手土産として自刃した樊於期と桓齮の同一人物説があります。
肥下の戦いは天下統一は時間の問題と思われた時に、李牧が秦に思わぬ土をつけた戦いになるはずです。