春秋戦国時代

番吾の戦い

2022年1月23日

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番吾の戦い・紀元前232年  
交戦勢力
指揮官李牧不明
兵力不明不明
損害不明不明

番吾の戦いは李牧が秦軍を破った戦いです。

李牧は番吾の戦いの前にも、桓齮を宜安の戦い肥下の戦いで破った実績があります。

は一気に趙を滅ぼそうと考えていたのかも知れませんが、李牧の前に方針転換を余儀なくされたとも言えるでしょう。

番吾の戦いは李牧を春秋戦国時代きっての名将として、押し上げた戦いの総仕上げの様にも感じました。

尚、番吾の戦いは李牧の勝利に終わりますが、敗れた秦側の将軍の名前が記録に無く分からない状態です。

今回は番吾の戦いを解説します。

番吾の戦いが起きた経緯

番吾の戦いですが、史記には簡略な記述しかなく、宜安の戦いや肥下の戦いと同様に戦いの内容は分かっていません。

しかし、李牧が秦軍を破った事だけは間違いないのでしょう。

番吾の戦いが起きた経緯ですが、秦軍は桓齮が李牧に敗れ、さらに秦軍は李牧の軍を打倒する為に、兵を繰り出したのでしょう。

李牧に敗れた桓齮は王翦楊端和らと鄴攻めで活躍し、平陽の戦いでは趙の扈輒を破り10万の趙兵を斬るなど決して、愚将ではありません。

秦王政も桓齮に対して、それなりの兵士を与えて戦場に挑ませたはずです。

しかし、李牧の采配は桓齮の上を行き、宜安や肥下での戦いで秦軍を大敗させたのでしょう。

李牧は秦軍を破りましたが、この時点で、秦と趙の国力の差は10倍以上あったはずであり、秦は直ぐに大軍を編成し趙を攻撃する事が出来た様に思います。

三国志で219年に関羽と曹仁の樊城の戦いがありましたが、関羽が魏の援軍である于禁や龐徳の軍を大破しました。

しかし、魏は大国であり、直ぐに徐晃に軍を授けて関羽と戦い、関羽を撃退し樊城を救う事に成功しています。

同じ様に、秦は大国であり桓齮が戦いに敗れても、直ぐに軍隊を編成する事も可能だったのでしょう。

番吾、宜安、肥下、赤麗の重要性

番吾、宜安、肥下、赤麗で李牧と秦軍は戦った記録がありますが、番吾、宜安、肥下、赤麗は現在の石家荘市の辺りだとされています。

現在の地図を見ると、趙の首都である邯鄲から北に170キロほど行った地点となります。

紀元前234年から232年の戦いで、秦と趙の係争地になったのは石家荘市の付近だと言う事になります。

趙の首都の近郊が係争地になっている辺りは、趙が苦境に陥っているのが分かるはずです。

秦としては石家荘市の付近の都市である番吾、宜安、肥下、赤麗を支配下に組み込みたかったのでしょう。

番吾、宜安、肥下、赤麗に秦兵を駐屯させる事が出来れば、趙の首都である邯鄲を攻略する時の、重要な拠点になるとも考えたはずです。

補給線には限界があり、趙の邯鄲を落とす為には何としても、番吾、宜安、肥下、赤麗辺りを秦は手に入れたかったと感じます。

尚、下記の動画は補給線に関して語っており、馬車限界などの記述は大変興味深いと感じております。

話しを戻しますが、趙は番吾、宜安、肥下、赤麗などの土地を取られてしまえば、南北に分断され国として非常に苦しい状態となります。

秦としては白起長平の戦いで、趙括率いる趙軍40万を穴埋めにした後に、秦の王齕、王陵、鄭安平などが邯鄲を包囲した過去があります。

この時に、魏の信陵君、楚の春申君らが趙の援軍に来た事もありますが、秦軍は趙の孝成王や宰相の平原君が強固に守る邯鄲を攻略する事が出来ませんでした。

秦軍は邯鄲の堅牢さを知っており、万全を期して趙を攻略したいと考え、番吾などの地を手にしておきたかったのでしょう。

番吾の戦いはどの様な戦いだったのか?

番吾の戦いですが、史記趙世家の趙の幽穆王の3年から見ると、次の様な経過があったと記載されています。

幽穆王の3年に秦が宜安、赤麗を攻撃した。

李牧は軍を率いて肥下で戦い、秦軍を退けた。

李牧を封じて武安君とした。

幽穆王の4年に秦が番吾を攻めた。

李牧は秦軍と戦って退けた。

これを見ると番吾の戦いがあった事は事実のようですが、戦いの詳細に関しては一切分からない状態です。

しかし、ここでも名将李牧の采配が光り、秦軍を寄せ付けなかったと見るべきでしょう。

幽穆王も李牧の功績を認め武安君に任命しました。

李牧が率いていた軍は代の軍勢だったはずであり、代は趙の北部に位置し、強力な武力を持っていた匈奴と接していた土地となります。

代の人々は匈奴との戦いにより、戦闘に慣れていた事もあると思いますし、匈奴の軍勢を完膚なきまでに破った李牧の采配を信じていたのでしょう。

李牧は番吾の戦いも含め、当時最強と言われた秦軍を何度も破った事で、天下に名が鳴り響いたはずです。

戦国時代末期で秦軍相手に勝利する事が出来たのは、李牧と楚の項燕しかいなかったとも言えます。

趙と秦の講和

李牧が秦に対して連勝した事で、秦は趙の攻略は一旦は諦めたのでしょう。

李牧が番吾の戦いで秦軍を破ってから、次に秦が趙を攻撃するのは、趙の幽穆王の7年であり、それまでの間は秦が趙を攻撃した記録がありません。

さらに、史記の始皇本紀には、李斯が次の様に進言した話があります。

李斯「まずは韓を取って諸侯を恐れさせるのが宜しいでしょう」

この記述を見ると分かる様に、李斯は韓を攻める様に、秦王政に進言しています。

番吾の戦いで李牧が秦を破ったのが、紀元前232年であり、韓が内史騰により滅亡したのが、2年後の紀元前230年です。

それを考えると、李斯の言葉は「秦は李牧の連敗し、威信が揺らぎ始めているから、弱小国の韓を攻撃し秦の強さを見せつけるのが良い」と述べた事にもなる様に思います。

さらに、史記の始皇本紀に、始皇帝が天下統一後に、次の様に発言した記録が残っています。

始皇帝「趙王は宰相の李牧を遣わして盟約したのに、太原で反乱を起こした。

だから秦は兵を興し趙を攻撃し王を虜にしたのである。」

これを見ると、秦と趙はどこかのタイミングで講和した事になるはずです。

さらに、始皇本紀の記述からは、李牧が宰相になっている事が分かります。

李牧が趙の宰相になったのは、肥下の戦いで秦軍を破って武安君に封じられた時の様に感じました。

過去に廉頗が趙の信平君となり、仮の宰相になっていますが、同じように李牧も武安君になったタイミングで、趙の宰相も兼ねる事になった様に思います。

その後に、李牧は番吾の戦いで秦軍を破り、秦も李牧がいる限りは、趙を攻め落とす事が出来ないと判断し、趙と秦は講和を結んだ様に感じました。

不運の趙

番吾の戦いで李牧が秦軍を破り講和が結ばれ、普通で考えれば趙に平和がやってきた様に思うかも知れません。

しかし、趙の幽穆王の5年には代で大地震が起きた記録があります。

さらに、幽穆王の6年には大飢饉が発生するなど、趙は泣きっ面に蜂とも言える状態となります。

趙の幽穆王の7年には、秦の王翦、楊端和、羌瘣が趙を攻めて李牧、司馬尚が応戦する事となります。

しかし、は李牧に番吾の戦いなどで敗れた過去があり、趙の郭開に賄賂を贈り、趙の幽穆王は李牧を処刑し趙葱と顔聚を将軍としました。

王翦、楊端和、羌瘣は、趙葱と顔聚を破り、邯鄲を陥落させ趙の幽穆王は捕らえられています。

趙は首都の邯鄲は落とされますが、趙の悼襄王の元の太子であった趙嘉が代で即位しました。

しかし、結局は代王嘉も王賁李信に攻められた事で、趙は完全に滅亡しています。

李牧は番吾の戦いで秦軍は破りましたが、趙は数年間寿命が延びたに過ぎなかったと言う事です。

ただし、絶望的な戦力差を前にして、秦に対し連勝した趙の李牧は間違いなく名将と言えるでしょう。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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