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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

宜安の戦いは趙側と秦側で記録が正反対になっていた

2022年1月22日

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宜安の戦い・紀元前233年
交戦勢力
指揮官李牧桓齮
兵力不明不明
損害不明不明

宜安の戦い(ぎあんのたたかい)は、戦国時代末期に起きた趙の李牧と、秦の桓齮の間で起きた戦闘を指します。

秦の桓齮は鄴攻めで活躍した武将であり、平陽の戦いでは趙の扈輒率いる10万を葬り波に乗っていた将軍です。

それに対し、李牧は趙の北方の長官として、匈奴に対し様々な奇策を以って完膚なきまでに破った実績がある将軍と言えます。

名将同士の夢の対決となったのが、宜安の戦いとも言えるでしょう。

宜安の戦いは一般的には李牧が勝利したと思われがちですが、史記の始皇本紀には桓齮が宜安を奪った記述が存在します。

宜安の戦いは趙と秦で、反対の記録が記載されているわけです。

今回は謎が多いともされている宜安の戦いを解説します。

尚、同時期に行われた肥下の戦いに関しても、合わせて考察したので興味があれば読んでみてください。

上記のユーチューブ動画はゆっくり解説で、宜安の戦いを解説しております。

ゆっくり解説動画で視覚的に分かる様にしました。

宜安の戦いが起きた背景

苦境に陥る趙

宜安の戦いは李牧と桓齮が戦ったわけですが、開戦となった経緯から解説します。

趙は太行山脈の東西に領地を持っていたわけですが、紀元前236年に趙将龐煖は燕を攻撃していました。

この隙をついて、秦の王翦楊端和、桓齮は邯鄲の南部にある鄴を攻略してしまいます。

これにより太行山脈の西側の領地が奪われて、趙は大打撃を食らいました。

さらに、秦は紀元前234年の平陽の戦いで桓齮が趙の扈輒を破り、趙兵10万を斬首するなど大戦果を挙げています。

扈輒が桓齮に敗れた事で、趙は首都の邯鄲周辺で、秦兵が闊歩する様な状況となり、苦境に陥る事となります。

尚、桓齮が10万人を斬首した後に、秦王政が「河南を遊幸した」とする記述があります。

遊幸とは皇帝や王が遊び目的で外出する事を指しますが、この時の秦王政は桓齮を労ったり、次の指示をした可能性も高いでしょう。

春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムでは、嬴政が桓齮を叱責した話がありますが、実際に10万人斬首に対し、やり過ぎだと叱責した可能性もある様に思います。

ただし、桓齮は将軍を解任される事も無く、李牧との戦いに向かう事となります。

 

李牧が大将軍に任ぜられる

平陽の戦いで10万の兵士を失った趙は、首都の近辺では徴兵を行う事が出来なくなってしまったのでしょう。

この時に、趙の首脳部は代の司令官である李牧を、大将軍に任命しました。

李牧は過去に匈奴を大破した実績があり、当時の趙ではまともに戦える軍が、代の軍勢しかいなかったのかも知れません。

趙としても代の李牧が、秦に内通すれば国が滅びる様な状況でもあり、李牧に対し最大限の配慮を行った様に思います。

尚、当時の趙では過去に恵文王、孝成王の時代に活躍した廉頗待望論も沸き上がったのではないか?とも考えられています。

しかし、趙の幽穆王のお気に入りともされる郭開の意向もあり、楚にいた廉頗が趙に復帰する事はありませんでした。

 

宜安の戦いの謎

宜安の戦いは、史記の複数の部分に記載があり、趙の李牧と秦の桓齮との間で、戦いが起きた事は間違いないでしょう。

しかし、史記では複数の記述に差異があり、宜安の戦いの内容に関しては、結果しか記載されていません。

ここでは、少ない記述を元に、宜安の戦いを見てみたいと思います。

最初に廉頗、藺相如趙奢、李牧の個人の記録が掲載されている、史記の廉頗藺相如列伝には下記の記述が存在します。

※廉頗藺相如列伝の記述

秦は趙将扈輒を武遂で破り殺害し、10万人を斬首した。

そこで趙は李牧を大将軍として、秦の軍を宜安で破り将軍桓齮を敗走させた。

王は李牧を封じて武安君とした。

廉頗藺相如列伝の内容を見ると趙は扈輒が敗れ10万を失った後に、李牧が桓齮を破り敗走させた事が分かるはずです。

戦いの内容は不明ですが、廉頗藺相如列伝を見る限りだと李牧の勝利は間違いないと感じます。

次に趙国の歴史が記録されている史記の趙世家を見ると、下記の様になっています。

※趙世家の記述

幽穆王の3年、秦が赤麗、宜安を攻めた。

李牧が軍を率いて肥下で戦って、これを退けた。

趙世家の記述だと、秦が赤麗、宜安を攻撃し、李牧が秦軍と戦い肥下の戦いで秦軍を破った事になっています。

趙世家には桓齮の名前が登場しませんが、秦軍を率いていたのは桓齮なのでしょう。

廉頗藺相如列伝だと李牧と桓齮が戦った場所が、宜安ではなく肥下となっています。

ただし、宜安も肥下も邯鄲の北・約170キロの石家荘市であり、距離的に近い事もあり、戦いが起きた場所が一カ所ではなかった可能性もある様に思います。

ここまでの記録を見ると、李牧が桓齮を破ったと思うかも知れません。

しかし、ここが史記の怖い部分でもあり、秦の始皇帝や前漢の劉邦、楚の項羽、周王朝の君主など歴代帝王の事が記録されている始皇本紀には、次の記述が存在します。

※始皇本紀の記述

桓齮は平陽を攻撃し宜安を取り、

その軍を破り将軍を殺し、平陽、武城を平定した。

趙世家や廉頗藺相如列伝の記述と違い、始皇本紀では、桓齮が宜安を取り、将軍を殺し武城を平定した事になっているわけです。

始皇本紀の記述を見る限りだと、桓齮が宜安の戦いに勝利したとも読み取る事が出来ます。

始皇本紀の「桓齮は平陽を攻撃し宜安を取り」の記述からは、桓齮が平陽の戦いで扈輒を破った勢いで、宜安を占拠したかの様にも見えます。

さらに、始皇本紀では「その軍を破り将軍を殺し、平陽、武城を平定した。」と記載があり、趙側の将軍が亡くなった事も分かります。

桓齮軍が討ち取った将軍ですが、趙の邯鄲でも最終決戦で李牧や司馬尚の名前が挙がる事から、李牧と司馬尚でない事は間違いないでしょう。

「平陽」の名前も見える事から、扈輒の事を指す様に思いました。

しかし、始皇本紀の記述だと桓齮が宜安の戦いに勝利したのではないか?とも感じます。

 

宜安の戦いは、どちらが勝利したのか?

先に述べた様に、宜安の戦いは趙側の記録と秦側の記録で差異があり、どちらが勝利したのかは分からない状態です。

しかし、個人的には李牧が桓齮を大破した様に思います。

その理由ですが、桓齮の名前は宜安や肥下で戦った以降は、名前が歴史から姿を消す事となります。

桓齮が突然死したなどの可能性もありますが、桓齮の名前が消える事を考えると、李牧に敗れたと考えるのが妥当の様に思います。

それに対し、李牧は宜安の戦いの後に、番吾の戦いでも秦軍を破った記録があり、将軍を続投している事が分かります。

それらを考慮すると、桓齮が李牧に敗れたと考えるのが妥当だと感じました。

司馬遷は秦本紀や始皇本紀を記述する時に、の歴史書を見て書いたともされています。

自国の歴史書に関しては、敗戦の記録を書かないなどは世界中である事であり、秦も趙に敗れた事を記録しなかった様にも感じています。

尚、先にも述べた様に宜安の戦いと同時期に行われた肥下の戦いの項目にて、さらなる考察をする様にしています。

 

 

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