三国志 魏(三国志)

龐林は離れ離れになっていた妻子と10年以上経って再開した

2022年8月12日

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名前龐林(ほうりん)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
主君劉備→曹丕
年表208年 妻と離れ離れとなる
 222年 魏に降伏(妻子と再開)

龐林は正史三国志に記述があり、龐統の弟だと記されています。

龐林の妻は習禎の妹でしたが、曹操が荊州を占拠した時に、妻と離れ離れとなってしまいました。

しかし、夷陵の戦いで劉備陸遜に敗れると、黄権と共に龐林は魏に降伏しています。

この時に、妻(習禎の妹)と再会した話があります。

龐林に関しての話は正史三国志の龐統伝や、注釈の襄陽記に少しばかりの記述があるだけです。

尚、従兄の龐徳公は兄の龐統を「鳳雛」と呼びましたが、龐林に関しては、そういう類の話は伝わっていません。

妻と離れ離れとなる

襄陽記によれば龐林の妻は習禎の妹だったとあり、次の記述が存在します。

※正史三国志 注釈・襄陽記より

曹公が荊州を破った時に、龐林の妻は龐林と離れ離れになった。

ここでいう曹公は曹操のはずであり、208年に曹操が劉琮を降伏させた時の事を指すのでしょう。

この時に龐林が何処にいたのかは不明ですが、故郷である襄陽にはいなかったのではないかと思われます。

赤壁の戦い後も曹操は襄陽を領地としており、龐林の妻は曹操の領内でそのまま暮らしたのでしょう。

曹操が襄陽を領地とした事で、龐林と妻は離れ離れとなります。

龐林の妻は、女一人で幼い娘を育て続ける事になりました。

龐林の方は蜀で、劉備に仕える事になります。

尚、龐林の兄の龐統は劉璋配下の劉循張任が守る雒城を攻撃している最中に戦死しました。

劉備は龐統の死を深く悲しみ、龐統の父を議郎に任命し、龐統の子である龐宏も大事に扱ったのでしょう。

龐統の死により龐統の一族は、劉備に厚遇されたとみる事も出来ます。

魏に降伏

劉備は龐林を荊州治中従事としました。

龐林は劉備が呉を攻撃した夷陵の戦いにも、参戦する事になります。

この時に、劉備は鎮北将軍の黄権を北方に配置し、龐林も黄権に従い北方に向かいます。

しかし、夷陵の戦いは陸遜の火計もあり、蜀軍は大敗北を喫しました。

蜀軍が歴史的な敗北を喫する中で、黄権と龐林は北方で孤立し、魏に降伏する道を選んだわけです。

これにより龐林は魏に移りました。

家族との再会

龐林は魏に降伏しましたが、魏の領内では龐林の妻が暮らしており、10数年ぶりに再開する事になります。

この時の事を襄陽記には、次の様に書き記されています。

※襄陽記より

再び親子が一緒になる事が出来た。

龐統と妻や娘がどの様な会話をしたのかは不明ですが、感動の再開だった可能性もあるはずです。

幼かった娘も大きくなっていたはずであり、龐林はビックリしたのかも知れません。

この時に魏では、曹丕の時代であり、曹丕は賢婦だと讃え寝台、とばり、衣服などを賜わった話があります。

曹丕は龐林の妻が女手一つで、娘を育てた事を立派だと考え称賛しました。

龐林の方は魏では列侯となり、鉅鹿太守にまで昇進したと記録されています。

尚、龐林は蜀から魏に移ったわけですが、龐統の子である龐宏は、そのまま蜀に仕え続けました。

龐宏の方は権力者の陳祗を軽く見た事で左遷されており、龐林と比べると優劣が分かれたと言えそうです。

龐林が魏で重用されたのは、妻の力も大きいと感じました。

龐林の能力値

三国志14統率54武力42知力67政治69魅力58

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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