古代オリエント

イシン第一王朝はウルの後継国を名乗った

2026年6月10日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前イシン第一王朝
建国から滅亡紀元前2017年ー紀元前1794年
時代イシン・ラルサ時代
コメントウル第三王朝の後継国を名乗った。

イシン第一王朝はウル第三王朝が崩壊に向かう中で、イシュビエッラにより建国されました。

当然ながら本拠地はメソポタミア南部のイシンとなります。

イシン・ラルサ時代ラルサ王朝と並ぶ主役の国だと言えるでしょう。

イシン第一王朝はウル第三王朝の後継国を名乗り、求心力を得ようとする戦略に出ました。

エラムからウルを奪還するだけではなく、ナンナ神像も取り戻しています。

イディンダガンの時代に全盛期を迎えますが、リピトイシュタルの頃には衰えており、リピトイシュタル法典を制定しました。

ラルサ王朝がグングヌムにより独立すると、大半の都市が靡き窮地を迎えています。

最後はラルサ王朝のリムシンにより滅ぼされました。

お気づきの方もいるかも知れませんが、イシン第一王朝だけではなく、後年にイシン第二王朝も誕生しています。

イシン第一王朝と正統性

イシン第一王朝はウル第三王朝が衰退に向かう中で、イシュビエッラが建国した事になっています。

エラム人が首都ウルを攻略した際、ウルの守護神であるナンナ(月神)の神像を戦利品として持ち去りました。

宗教的・精神的衝撃: 当時のメソポタミアの価値観において、神像が持ち去られることは「神がその都市を見捨てた」ことを意味し、住民にとって極めて重大な精神的打撃となりました。

イシン第一王朝にとって、このナンナ神像を奪還することは、単なる宝物の回収ではなく、メソポタミアの伝統的な秩序を回復するための最優先課題となりました。

ウル第三王朝崩壊後の混乱期において、イシュビエッラは地域を安定させるために独自の政治戦略を展開しました。

当時の南部メソポタミアは、先住のシュメール人アッカド人に加え、流入したアムル人が混在する複雑な社会構成でした。

イシュビエッラは、既存のシュメール・アッカド的な政治・宗教・イデオロギーを意識的に採用しました。

これにより、新参の支配者としての違和感を払拭し、広範な住民の支持を取り付ける狙いがあったと考えられます。

イシン第一王朝は、自らを「ウル第三王朝の正統な後継国家」として定義しました。

エラムの支配下にあるウルを奪還することは、王朝の正統性を対外的に証明するための不可欠なプロセスでした。

ウルを奪還し、守護神ナンナの祭祀を再開することで、イシュビエッラは「ウル王家の権威を受け継ぐ者」としての地位を確立しようとしたと分析されます。

その後、イシュビエッラは8年の歳月を掛けて、ウルをエラムから取り返しています。

イシン第一王朝とエラムとラルサ

イシン第一王朝の二代目のシュイリシュの時代になると、エラムからナンナ神像を取り戻す事になります。

この頃から、イシン第一王朝とエラムが接近し、イッディンダガンの時代になると婚姻関係も結びました。

イッディンダガンの時代がイシン第一王朝の全盛期でしたが、ここから先は徐々に衰えていく事になります。

イシン第一王朝は第五代のリピトイシュタルの時代になると社会不安があり、こうした中でリピトイシュタル法典が制定されました。

しかし、衰退する国を立て直す事は出来ず、グングヌムによりラルサが独立し王を名乗る事になります。

これにより本格的なイシン・ラルサ時代に突入したと言えます。

ラルサ王朝はウルを奪取するだけではなく多くの都市を支配下に入れ、イシン第一王朝はイシンとニップルを領有するのみとなりました。

イシン第一王朝はシュメール人ウル第三王朝の後継国を名乗っており、ウルをラルサに取られてしまったのは正統性まで揺らいでしまったと言えるでしょう。

イシン第一王朝はラルサにより窮地に陥る事になります。

尚、ニップルに関してはイシンとラルサで取ったり、取られたりも繰り返しました。

イシン第一王朝の滅亡

イシン第一王朝はラルサ王朝に対し、圧倒的に不利な立場でしたが、エラムの援助もあり持ちこたえました。

エラムの援助により、イシン第一王朝は存続していたと言ってもよいでしょう。

イシン第一王朝では庭師から王になったエンリル・バーニなども国の立て直しに尽力しますが、成し遂げる事は出来ませんでした。

ライバルのラルサ王朝の方ではエラム人の攻撃を受け、シリ・アダドが殺害されワラドシンが王となっています。

ワラドシンはアムル人の名を持ったエラム人とも考えられており、この頃からエラムの援助を受けられなくなったと考えられています。

ラルサ王はアムル人の名前をしたエラム人だともされており、エラムからの援助は無くなり、むしろエラムはラルサに味方した可能性も指摘されている状態です。

紀元前1794年にラルサ王朝のリムシンの攻撃を受けて、イシン第一王朝は滅亡しました。

尚、カッシート王国の滅亡後にイシンを本拠地としたマルドゥク・カビト・アヘシュがイシン第二王朝を建国しています。

後にイシン第二王朝はバビロンも占拠しており、バビロン第四王朝とも呼ばれています。

イシン第一王朝の歴代王

イシュビエッラ

シュイリシュ

イディンダガン

イシュメダガン

リピトイシュタル

・ウルニヌルタ

・ブールシーン

・リピトエンリル

イルライミッティ

エンリルバーニ

・ザンビヤ

・イテルピシャ

・ウルドゥクガ

・シーンマギル

・ダミクイリシュ

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細