室町時代

一色道猷(範氏)は鎮西管領となり奮戦する

2024年10月23日

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宮下悠史

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名前一色道猷(法名)
本名一色範氏
生没年不明
時代南北朝時代
主君足利尊氏義詮
コメント鎮西管領となり九州で奮戦するも敗れる

一色道猷は南北朝時代に九州の鎮西管領として室町幕府の為に働いた人物です。

一色氏は足利一門の中では弱小勢力でしたが、建武の新政で足利尊氏は一色道猷を武蔵国の守護代に抜擢しました。

足利尊氏が九州に落ち延びて再度上洛する時には、後方の備えとして鎮西管領となり九州の南朝勢力と激戦を繰り広げる事になります。

観応の擾乱で足利直冬が九州に降って来ると、南朝と合わせて九州で三つ巴の戦いとなります。

一色道猷は少弐頼尚を追い詰めますが、最終的には懐良親王や菊池武光ら南朝勢に敗れて九州を追われました。

九州では敗れた一色氏ですが、最後まで一貫して幕府を支持しており、後に幕政の四職の一つとなり発展していく事になります。

尚、一色道猷の「道猷」は法名であり、本当の名前は一色範氏ですが、史料の中では「道猷」の名でしかみる事が出来ません。

こうした事情もあり、ここでは全て一色道猷で記載させて頂きます。

一色道猷の解説動画も作成してあり記事の最下部から視聴する事が出来ます。

一色道猷の家系

一色道猷は足利泰氏の孫であり、父親の公深が三河国幡豆郡吉良荘一色を本拠地とし一色姓を名乗る事になります。

一色公深の子が一色道猷であり、弟に一色頼行がいた事が分かっています。

一色道猷が生まれたのは鎌倉時代であった事は間違いありませんが、一色氏は足利一門の中でも家格が低くどの様な活躍があったのかも分かっていません。

ただし、一色道猷が鎌倉幕府の滅亡後に足利尊氏から優遇されている所を見ると、足利尊氏の元で高い功績を挙げたのではないかと考えられています。

尚、一色道猷及び父親の一色公深の生没年などは不明です。

武蔵の国の守護代

鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇による建武の新政が行われる事になります。

建武政権で足利尊氏は武蔵国の守護及び国司に任命されますが、一色道猷は武蔵国の守護代・目代に任命されました。

一色道猷は鎌倉時代には所領も小さく弱小で記録にすら残らない様な人物だったわけですが、武蔵の守護代に任命されたのは大抜擢だったと言えるでしょう。

さらに、足利直義が鎌倉将軍府の責任者となりますが、道猷の弟の一色頼行は関東庇番の四番手に任命されています。

関東庇番は上杉憲顕も任命されており、一色家は重用された事は間違いないでしょう。

北条時行による中先代の乱が勃発すると足利尊氏が鎮圧に成功しますが、これを機に足利尊氏は建武政権から離脱しました。

一色道猷は当然ながら、足利尊氏を支持し奮戦しますが、足利軍は楠木正成新田義貞北畠顕家に敗れ九州に落ち延びる事になります。

鎮西探題就任

足利尊氏は九州では多々良浜の戦い菊池武敏を破り勢力を盛り返しました。

足利尊氏は九州で戦力を整えると少弐頼尚、宇都宮冬綱、大友氏泰ら守護を引き連れて上洛し、さらには島津貞久も上洛軍に参戦する事になります。

足利尊氏は九州で大勢力となりましたが、菊池氏など南朝の全ての勢力を倒したわけではなく、九州にも従わない勢力が多くいたわけです。

後顧の憂いがある状態での上洛となり、足利尊氏は背後の備えとして一色道猷を配置し、日向の足利家領を守るために畠山直顕を派遣しました。

さらに、尊氏は各地の武士に迅速に恩賞を与える為に、一色道猷に所領を武士に給付する権限を与えています。

これにより一色道猷は敵対勢力を破り土地を没収し、功績のあった武士に与える事で求心力を高める事が可能となります。

一色道猷は鎮西管領となり九州で奮戦する事になります。

一色道猷が後方を任される辺りは、足利尊氏から高い信頼感を得ていたいと考える事が出来ます。

菊池氏との激戦

一色道猷は弟の一色頼行や小俣道剰、今川助時らと各地の従わない九州の国人勢力を攻撃しています。

九州の南朝勢力である菊池氏は一色道猷に従わず、激戦を繰り広げる事になります。

一色道猷は肥後の犬塚原で菊池武敏と戦っていますが、弟の一色頼行が戦死する程の激戦となりました。

一色道猷の目的は近畿で戦う足利尊氏の軍の後方を守る事であり、九州の敵対勢力を抑え込む必要に迫られており任務は重大だったわけです。

足利尊氏の方では圧倒的な戦力で湊川の戦いで楠木正成新田義貞を破り、後醍醐天皇を比叡山に囲み光厳上皇の院宣を獲得し光明天皇を即位させる事になります。

後に建武式目を制定し室町幕府を開きますが、後方を守り抜いた一色道猷の功績は大きく尊氏の信頼を得た事は間違いないでしょう。

一色道猷の嘆願書

近畿の情勢が安定して来ると、九州の守護達は帰国する事になります。

この時に一色道猷を幕府に対し八回も京都に戻りたいとする意向を伝えています。

関東の上杉憲顕も帰洛したいと考えていた話がありますが、同様に一色道猷も京都に戻りたいと考えていたのでしょう。

しかし、中央の室町幕府の方では一色道猷の鎮西管領の職務を留任させています。

一色道猷の方では「今のままでは九州を統治するのが困難」と判断したのか、以下の点を室町幕府側に嘆願書という形で提出しています。

九州での経済基盤が脆弱

鎮西管領と守護の軍事指揮権の棲み分けが整備されていない

自分(一色道猷)の拠点とすべき場所がない

一色道猷の嘆願書の内容から、一色道猷がかなり酷い状態で九州の統治をしなければいけない状態だった事が分かるはずです。

上記の嘆願書の内容から一色道猷は鎮西管領にはなりましたが、名前だけの弱小勢力だったとも考えられています。

ただし、現在の鎮西管領としての問題点を的確に指摘しているともされており、能力が高かったのではないかともされています。

室町幕府の方では一色道猷の要望に中々対処しようとせず、1346年になって漸く動き出す事になります。

これにより一色道猷の本拠地が博多となり、新たなる領地として大隅国の肝付郡を与えられました。

さらに、一色道猷の子の一色直氏、範光、範房、氏冬らも九州に上陸し、一色道猷を補佐する事になります。

一色道猷と足利直冬

後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開きますが、北畠顕家新田義貞と南朝方の主力の武士を失い勢力は大きく後退しました。

ここで南朝では結城宗広の進言により各地に親王を派遣する事になり、九州には懐良親王が上陸し菊池氏の支援の元で勢力を拡大する事になります。

北朝では足利直義の意向もあり紀伊征伐で活躍した足利直冬が長門探題に就任しました。

しかし、ここで室町幕府内で観応の擾乱が勃発し足利直義と高師直が対立する事になり、足利直義が出家する事態となります。

足利直義が出家すると養子の直冬にも出家命令が届きますが、直冬は応じず九州に逃れ肥後国河尻に落ち延びました。

足利直冬に対し最初のうちは一色道猷と少弐頼尚は協力して討伐を行う事になります。

実際に少弐頼尚が直冬に味方した河尻幸俊、宅磨宗尚を攻撃し、一色道猷が直冬方の今川直貞と戦う為に肥前国に出兵しています。

足利直冬の方では尊氏の子や直義の養子となっている事を利用し各地で勢力を増やし、少弐頼尚までもが足利直冬に味方する事態となります。

これにより九州は南朝の懐良親王を支持する勢力、幕府を後ろ盾とする一色道猷、足利直冬を擁立する勢力に分かれ三つ巴の戦いを繰り広げる事になります。

足利尊氏はを救う為に九州の武士に直冬追討を呼びかけますが、効果が殆どなく逆に直冬は勢力を拡大させました。

直冬の勢力拡大に伴い一色道猷は九州を追われ長門に移る事になります。

観応の擾乱

少弐頼尚足利直冬に味方した事は足利尊氏にとっても衝撃だったのか、高師直を連れて九州遠征を決行しました。

足利尊氏と高師直が京都から出るのを待っていたかの様に、足利直義が大和で挙兵し南朝の後村上天皇に降伏の意を伝えています。

観応の擾乱により足利尊氏は九州遠征が不可能となり、一色道猷は単独での直冬討伐を余儀なくされています。

一色道猷は豊前国と肥前国に一色範光、一色直氏を派遣し反直冬派の諸将を結集し直冬打倒を模索しました。

豊後の大友氏泰や薩摩大隅の島津貞久らも苦戦を強いられながらも、一色道猷の鎮西管領に味方しています。

足利直冬の鎮西探題就任

九州では一色道猷が何とか持ちこたえていましたが、近畿の戦いでは足利直義が勝利しています。

足利直義は足利尊氏と和睦はしましたが、高師直は最後を迎えています。

足利直冬は直義の養子となっており、直義の勝利により鎮西探題に就任しました。

これにより元の鎮西探題であった一色道猷は失脚しています。

これで普通であれば失脚した一色道猷は中央に帰るなりするはずですが、足利尊氏は直冬を信用する事が出来ず、一色道猷はそのまま九州に残りました。

直冬を九州から駆逐

観応の擾乱で高師直を倒した足利直義ですが、南朝との交渉が不発に終わるなど幕府内での居場所を無くしていきます。

播磨の赤松則祐と近江の佐々木道誉が突如として南朝に鞍替えし、これをきっかけに直義が出奔し尊氏と対立しました。

足利尊氏足利直冬が直義と通じていると考え直冬追討令が出され、一色道猷は足利直冬討伐に乗り出す事になります。

一色道猷は前回の経験で直冬の手強さが分かっており、大友氏や島津氏との連携を強化し、さらには南朝の懐良親王の勢力とも結びました。

一色道猷の南北から足利直冬を圧迫する策は功を奏し、1352年11月には遂に直冬を九州から駆逐する事に成功しています。

九州からの撤退

足利直冬が九州を去った事で、敵は筑前国浦城に籠る少弐頼尚だけとなります。

既に一色道猷は浦城を包囲しており、あと一歩の所まで来ていたわけです。

しかし、長門に逃れた足利直冬が大内弘世や山名時氏らに担がれて南朝の武将となります。

これにより少弐頼尚も南朝の武将となり、懐良親王の元に援軍要請をしました。

懐良親王の方では菊池武光を浦城への救援とし、一色道猷の軍に攻撃を仕掛ける事になります。

菊池武光の軍は一色道猷を破り少弐頼尚を救いました。

一色道猷は1353年2月に再び菊池武光・少弐頼尚の軍と戦いますが、針摺原の戦いでも敗れて影響力を失いました。

しかし、足利尊氏による九州征伐の話もあり、一色道猷は苦しいながらも持ちこたえる事になります。

足利直冬は大内氏や山名氏に担がれて再び京都に進撃しますが、東寺合戦で足利尊氏に敗れています。

それでも大内氏や山名氏は南朝の勢力であり、一色道猷は九州の征西府の懐良親王と中国の南朝勢力を挟まれ厳しい戦いが続きました。

1355年には大友氏が南朝の征西府に降伏した事で、一色道猷及び一色直氏は九州からの撤退を余儀なくされています。

九州での敗北

一色道猷は長門に子の一色直氏や一色範光を残し、自らは九州国人を連れて上洛しています。

近畿に向かった一色道猷は室町幕府に状況を説明し、足利尊氏による九州遠征の話まで出ました。

しかし、足利尊氏自身が1358年4月に没しており、九州遠征は中止される事になります。

これにより一色道猷の九州での戦いに終止符が打たれ敗北が決定したわけです。

忠義は無駄では無かった

近畿に戻った一色道猷は隠居したとも考えられています。

一色道猷は九州の統治に失敗しており、結果は出せなかったと言えるでしょう。

しかし、一色道猷は最初から最後まで室町幕府を支持しており、その姿勢は変わりませんでした。

一色氏のこうした姿勢を評価したのか、一色道猷の子である一色範光は播磨守護や三河守護となり幕府内で重用されました。

一色道氏は侍所頭人を務める家格(四職)となり幕府内の立場を固めて行く事になります。

一色氏の興隆には一色道猷の忠義と奮戦があった事は間違いないでしょう。

梅松論の中の足利尊氏の言葉で「忠功に励む者に対しては、ことさら莫大な恩賞を授けるべし」とありますが、ここで言う「忠功に励む者」は一色道猷の様な人を指すのでしょう。

実際に一色道猷は鎌倉時代には弱小で何をしていたのかも分からない様な人でしたが、尊氏は武蔵国の守護代として大抜擢しました。

一色道猷の忠義が一色氏の礎を築いたとも言えそうです。

一色道猷の動画

一色道猷の動画となっております。

この動画及び記事は戎光祥出版の南北朝武将列伝を元に記述しました。

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