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カデシュの戦いを徹底解説

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宮下悠史

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カデシュの戦い紀元前1274年
勢力エジプト第19王朝ヒッタイト
総大将ラムセス2世ムワタリ2世
兵力2万?4万?
損害不明不明
勝敗不明不明

カデシュの戦いは、エジプト第19王朝とヒッタイトの間で起きた戦いです。

シリアのカデシュの付近で争いました。

古代オリエントの大国同士の戦いでもあります。

エジプト側の記録ではファラオのラムセス2世の驚異的な奮戦があり、ヒッタイトを追い詰め勝利したかの様な内容となっています。

しかし、エジプトはカデシュの戦いの目的であるカデシュの奪取に失敗しており、ヒッタイトはアムル王国の属国化に成功しており、ヒッタイトの勝利だったとか、よくて引き分けだったと考えられています。

それでも、古代オリエントの世界ではアッシリアやカッシートも大国であり、第19王朝とヒッタイトの戦いは彼らを喜ばせるものと考えたのか、カデシュの戦いが終わり15年程が経過すると、カデシュ条約を結びました。

カデシュの戦いの記録

エジプト側の記録

カデシュの戦いはエジプト側の記録によれば、ラムセス2世の治世5年にヒッタイトとの間で大規模な戦いが起こった事になっています。

紀元前1274年頃に起きたと考えられています。

シリアのカデシュの付近が戦場となっており「カデシュの戦い」と呼ばれました。

ラムセス2世はエジプトにおいて、カデシュの戦いの記録を複数の建築物に大々的に残しており、青銅器時代で最も詳細な記録がある戦争となっています。

戦闘場面のレリーフも残っている状態です。

カデシュの戦いの碑文は韻文形式で書かれた「詩」と散文形式の「報告」があります。

さらに、図像の付近に示されている碑文もある状態です。

エジプト側のカデシュの戦いの記録が残っているのは、アビドスのラムセス2世の神殿、カルナク神殿、ルクソール神殿、ラムセウム、アブシンベル大神殿となります。

ヒエログリフを解読したシャンポリオンは、カデシュの戦いの壁画も記録し出版している状態です。

ヒッタイト側の記録

ヒッタイトで「これがカデシュの戦いだ」とする様な記録は見つかっていません。

エジプト新王国の軍と戦った記録はありますが、カデシュについて述べているものはないという事です。

ヒッタイト側はレヴァントのアムル国を征伐した記録だけが残っています。

アムル国の位置は交通の要衝でもあり、ヒッタイトはエジプト新王国の勢力に寝返れば、征伐を繰り返していたのでしょう。

尚、カデシュの戦いではエジプト第19王朝の別動隊であるカナン人傭兵部隊が、レヴァント地方の沿岸を移動した事になっており、アムル王国を通過した事になります。

これを考えれば、カデシュの戦いもアムル国がエジプト第19王朝に寝返った事で、ヒッタイトは出兵したとみる事も出来るのではないでしょうか。

カデシュの戦いの戦力

エジプト軍の戦力

カデシュの戦いにおいてエジプト軍は総大将がファラオのラムセス2世であり、アメン師団、ラー師団、プタハ師団、セト師団が出陣しました。

アメン神、ラー神、プタハ神、セト神と神様の名前が師団名となっており、一師団が5000人程であり兵力は2万ほどだったと考えられています。

エジプト第19王朝はナイルデルタのシレ(チャルウ)から出兵しました。

ここで注目したいのは、エジプト第19王朝の軍に、シェルデンと呼ばれる人々が加わっていたという事です。

シェルデンは過去にエジプト軍と戦った人々であり、敗戦後にエジプト軍に加わったとする外来勢力となります。

描かれた姿からシェルデンの人々の武器は円形の盾に長い剣を持っており、独特な武器を使ったと考えられています。

尚、シェルデンに関しては、海の民の集団の一つにも含まれており、注目されている部分でもあります。

ヒッタイト軍の戦力

カデシュの戦いで、ヒッタイト軍は総大将がヒッタイト王のムワタリ2世だったと伝わっています。

ヒッタイト軍は1万8千の本隊に別動隊が1万7千おり、2千5百の戦車部隊がいたとされています。

あくまでも記録上ではありますが、エジプト第19王朝の軍の2倍ほどいた事になるでしょう。

さらに言えば、カデシュの戦いの直前では「海岸の砂より多い」「蝗のごとく」などの言葉もあり、圧倒的な大軍だったと表現されています。

ヒッタイト軍にはアルザワ、カシュカ、キズワトナ、ルッカ、ミタンニ、ウガリト、ヌハッシェ、カルケミシュなど多数の都市の軍も含まれていたようです。

尚、ヒッタイトと言えば、バビロン第一王朝を鉄の力で滅ぼしたなどとも言われており、強力な鉄製の武器を持っていたと考えられがちです。

しかし、最近の研究ではヒッタイト軍が鉄製の武器でカデシュの戦いに挑んだわけではなく、両軍ともに主力の武器は青銅製だったとみられています。

それでも、ヒッタイトは組織づくりなども巧みであり、強力な軍隊を擁していたと考えられています。

ただし、カデシュの戦いの時期にヒッタイトは隣国のアッシリアや、エーゲ文明の勢力とも関係が悪化していたとも考えられており、不安もあったとみられています。

カデシュ近郊まで進軍

エジプト軍はシナイ半島を抜け、沿岸地域を進軍しレヴァントに入りました。

途中から東に入る内陸部を進んだとされています。

エジプト側の記録ではラムセスメリアメンに到達した記録があり、現在のベカー渓谷に存在したエジプトの拠点であるクミディだと考えられています。

クミディは現在のカミド・エル=ロズ遺跡だとみられています。

エジプト第19王朝の軍は一カ月ほどで、カデシュの近郊にまでやってきたと考えられています。

エジプト軍はカデシュ南方のシャブトゥナに駐屯しました。

ヒッタイト軍はアレッポに駐屯していたとされています。

カデシュの戦いの流れ

ヒッタイトの策

カデシュの戦いの開戦前にヒッタイトでは、脱走兵をわざと作り、エジプト側に送り込んだとされています。

エジプト第19王朝の軍は脱走兵を捕らえると「エジプト軍を恐れ、ヒッタイト軍は南下できず遠くにいる」とする情報を得ました。

これはヒッタイト側の策であり、ラムセス2世及びエジプト第19王朝の軍を誘き寄せる為の策だったわけです。

ラムセス2世は、偽情報を信じてしまい兵をカデシュの北西に前進させました。

この時にラムセス2世は平原が多い地形で、急襲され一網打尽にされる事を恐れ、4つの軍団を距離を開けて進軍させたわけです。

エジプト第19王朝の軍は、間延びした陣形となってしまいました。

先頭のアメン師団とラムセス2世は、陣を張る事になります。

軍を前に進めたラムセス2世ですが、ヒッタイトのスパイを捕虜とし尋問すると「既にヒッタイトの軍は近くにいる」とする情報を得る事になります。

ヒッタイトの策に完全にラムセス2世は嵌っており、いつ攻撃を受けてもおかしくない様な危機的な状況にいました。

この時にヒッタイトは「オールド・カデシュ」と呼ばれる場所にいたとされています。

現在のテル・ネビ=メンドの北東にあるセフィネト・ヌーだったのではないかと考えられている状態です。

オールド・カデシュは、カデシュの戦いが行われた紀元前13世紀には、廃墟になっていたのではないかとも考えられています。

ラムセス2世が孤立

ラムセス2世の周りにはアメン師団しかおらず、危機的な状況であり、急いで伝令を送り後続部隊を前進させる様に指示しました。

ヒッタイト軍はカデシュの小高い丘から、エジプト第19王朝の動きを見ており、カデシュの南のオロンテス川を渡河し、攻撃を始める事になります。

ハットゥシリ3世が指揮するヒッタイト軍の別動隊は、先回りし兵を隠し後続のラー師団を狙いました。

これが記録に残る人類最初の待ち伏せ作戦だとも言われています。

ハットゥシリ3世の軍が無防備なラー師団に襲い掛かり、カデシュの戦いは開戦しました。

ヒッタイトの攻撃により後続のラー師団が敗走し、エジプト第19王朝の軍は分断されラムセス2世とアメン師団が、前方で孤立する事になります。

ラムセス2世も最悪な状況に陥ってしまったと悟りますが、兵を鼓舞した話があります。

ハットゥシリ3世が率いるヒッタイト軍は2500の戦車を持っており、兵の一部を割きラムセス2世の退路を断つべく包囲陣を布く様に動いたわけです。

ここまでを見ると、カデシュの戦いは戦術面ではヒッタイトが第19王朝の軍を圧倒していた事になります。

しかし、ラムセス2世も地中海の沿岸にカナン人の傭兵部隊2000を派遣しており、この軍はヒッタイトのムワタリ2世の戦術の外にいました。

アメン神への祈り

危機的な状況になったラムセス2世は、アメン神に語り掛ける事になります。

ラムセス2世はアメン神に対して祈り、アメン神へ今までの行いを告げました。

困った時の神頼みなのか、アメン神に対して多くの事をしてきたと告げる事になります。

ラムセス2世はアメン神に助けを求めたと言えるでしょう。

これがエジプトのテーベまで繋がりアメン神は「前へ。我は其方と共にいる。我は勝利の主であり、勇猛さを愛する者なり」と応えました。

ラムセス2世の圧倒的な武勇

ラムセス2世は恐怖で怯える御者のメンナを励まし、ヒッタイト軍に突撃を仕掛ける事になります。

この時にラムセス2世はたった一人で、2500もの戦車隊を相手にしたとあります。

メンナは腰を抜かしており、ラムセス2世は手綱を腰に巻き、馬を操りながらの戦いになった話があります。

記録によればラムセス2世に従うのは「テーベの勝利」という名の馬とライオンだけでした。

アブシンベル大神殿の北側のレリーフも残されており、ラムセス2世が敵を次々に倒した事になっています。

ラムセス2世は一人の個人の圧倒的な武勇により、ヒッタイト兵を次々に討ち取り、包囲陣に風穴を開けようとした事が記録されているわけです。

当然ながら、一人で2500の戦車部隊(7500人?)を相手にするのは不可能であり、事実ではないでしょう。

ただし、ラムセス2世が卓越した統率力で脱走兵を出さず、先頭に立ち戦ったのは事実だったのではないかとも考えられています。

アメン師団の歩兵たちも王を助ける為に動きました。

死地を抜ける

ヒッタイトは重装騎兵を使っており接近戦には強いわけですが機動力は弱く、逆にエジプト軍は軽装騎兵であり機動力が高く風穴が空けば逃げるのには有利だったと考えられています。

それでも、数に勝るヒッタイト兵は野営地に攻撃を仕掛けますが、ファラオの所持品である黄金などにより略奪に夢中となり、攻撃がおろそかになりました。

このタイミングでエジプト軍の別動隊であるカナン人傭兵部隊が到着したわけです。

ラムセス2世は態勢を整え奮戦しますが、ヒッタイトのムワタリ2世は千の戦車隊を前進させ、アメン師団を壊滅させるべく動き出しました。

一進一退の攻防となりますが、ここでエジプト軍のプタハ師団が現れ、エジプト軍が有利となります。

ムワタリ2世の親族もエジプト側の記録では、多く討ち取られた記録がある状態です。

決着

ラムセス2世は自分の活躍を誇示すると同時に、自分を見捨てて戦場から離脱した兵士らを叱責しました。

翌日に再び戦いが行われますが、ここでもラムセス2世が大活躍した記録が残っています。

ムワタリ2世はカデシュで籠城戦を展開しました。

最終的にムワタリ2世がラムセス2世のもとに使者を派遣し「戦いよりも平和の方が価値が高い」とし、降伏を伝えた話があります。

ラムセス2世もここで戦いを打ち切り、首都のペルラムセスに帰還しました。

これによりカデシュの戦いは終焉を迎える事になります。

カデシュの戦いはエジプト第19王朝の軍が、ヒッタイトを破った事になっています。

カデシュの戦いの結果

一般的にはカデシュの戦いでは、エジプト第19王朝の軍が勝利した事になっています。

確かに、エジプト側の記録だとラムセス2世の驚異的な活躍により、ヒッタイトを寄せ付けず圧倒した事になっています。

しかし、エジプト第19王朝のカデシュの戦いの目的は、カデシュの奪取にあったはずです。

実際問題としてカデシュの戦いで、エジプト側はカデシュを得る事が出来ず、撤退しました。

ヒッタイト側の記録を見ると、アムル国がエジプト側に寝返り討伐に出た事になっています。

ヒッタイトはアムル国を傘下に加えており、目的は達成した事になります。

これらを考えると、ヒッタイトの勝利と言ってもよいのかも知れません。

実際に多くの専門家は「カデシュの戦いはエジプトがよくて引き分け」とする見解を述べています。

カデシュの戦いで学んだこと

当時のオリエントの世界はエジプト第19王朝、ヒッタイト、アッシリア、カッシート王国の四強状態だったはずです。

カデシュの戦いは四大強国のエジプトとヒッタイトが戦いました。

カデシュの戦い以降では、ラムセス2世の8年と10年にレヴァント遠征は行いましたが、これ以降に遠征を行った記録は見つかっていません。

カデシュの北方のダプルをエジプト軍が攻略した話もありますが、支配期間は短かったと考えられています。

しかし、これ以降にエジプト新王国の勢力とヒッタイトが戦った記録はありません。

一つの説として再び第19王朝とヒッタイトが前面衝突をしなかったのは、コスパが悪いと認識したからではないかとする説があります。

カデシュの戦い以降もラムセス2世は西アジアに兵は出しましたが、ヒッタイトとの全面戦争は起きなかったわけです。

これを考えると、大国同士で戦争を行っても、犠牲が多く利益は少ないと考え両国の思惑が一致し、戦争が起きなくなったと考えられています。

尚、カデシュの戦いから15年が経過した頃に、カデシュ条約を結び第19王朝及びヒッタイトは和平を結びました。

※この記事は有村元春先生のNHKカルチャー講座をベースに作成しました。

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