懐良親王は後醍醐天皇の子で「征西大将軍」として九州に赴いた人物です。
五条頼元を側近とし、菊池武光に輔弼され九州征西府の絶頂期を築きあげました。
南朝は全国的には不利でしたが、九州南朝だけは手強かったと言えるでしょう。
懐良親王は九州を席巻しており、さぞかし雄偉な人物の思うかもしれません。
しかし、実際には「出家」の言葉を出したりしており、世俗から離れたいと思っていた部分も多いようです。
尚、懐良親王は九州征西府の黄金期を築き上げると同時に、今川了俊に敗れ九州南朝の凋落も味わいました。
一代で栄枯盛衰を味わった人物でもあります。
征西大将軍
延元三年(1338年)9月までには南朝の有力武将であった新田義貞、北畠顕家、楠木正成らが全員世を去っていました。
こうした中で後醍醐天皇は懐良親王を「征西大将軍」として九州に派遣する事を、阿蘇惟時に通達しています。
後醍醐天皇は阿蘇氏に懐良親王を任せ九州から南朝の復活を願ったわけです。
さらに、後醍醐天皇は懐良親王に恩賞や賞罰の権利を与えた状態で、九州に送り込む事にしました。
ただし、懐良親王は幼かった事もあり、五条頼元が実質的な指導者となり、九州に向かったと言えるでしょう。
忽那島に滞在
近畿を出発した懐良親王の一行は延元四年(1339年)4月には、伊予の忽那島に到着しました。
忽那一族軍忠次第によると、懐良親王の一行は僅か十二名だったとあり、少人数での移動となりました。
忽那島には忽那氏がおり、優秀な水軍が組織され、情報収集も活発に行われています。
懐良親王が任されたのは九州であり、忽那島は近畿と九州の中継地点としても役割を期待された事でしょう。
尚、懐良親王が忽那島に滞在している時期に父親である後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が践祚しています。
懐良親王は忽那島で数年を過ごしていますが、九州に入れる目途が立たなかったと考える事が出来ます。
薩摩での戦い
興国三年(1342年)に懐良親王は、九州に向けて出発し薩摩の谷山城に入りました。
薩摩の谷山郡司の谷山隆信は南朝を支持しており、懐良親王を迎え入れたわけです。
薩摩には室町幕府の薩摩守護の島津氏がおり、谷山隆信は島津氏に対抗する為に、懐良親王を欲したのでしょう。
懐良親王が薩摩に入り綸旨所望注文を発行すると、183名もの武士たちが名を連ねました。
薩摩の各地で北朝を支持する者たちとの戦いが起きますが、一進一退の攻防が続き中々戦果を挙げる事が出来ませんでした。
しかし、1347年になると四国・中国海賊・熊野海賊らが南朝に味方した事で、パワーバランスが崩れ懐良親王は優位に立ちます。
谷山城に向かう島津勢に攻撃を仕掛けると島津貞久の子である島津重久や島津氏久が負傷するなどし、大勝しました。
島津氏の被害は大きく当分の間は活動が自粛される事になります。
菊池入り
島津氏の勢力が弱まると、懐良親王の一行は肥後を目指す事になります。
懐良親王の側近である五条頼元は阿蘇氏に味方になる様に働き掛けると、庶子家筆頭の阿蘇惟澄は積極的に南朝の武将として働く事になります。
しかし、阿蘇氏惣領の阿蘇惟時は曖昧な態度を繰り返し、懐良親王や五条頼元を悩ましました。
こうした事情もあり、懐良親王は菊池氏を頼る事にしました。
1348年になると懐良親王の一行は肥後国宇土津に到着し、阿蘇惟澄の御船御所に入り菊池に移る事になります。
菊池武光は懐良親王の一行を迎え入れました。
懐良親王の成人
正平三年(1348年)に懐良親王は肥後で成人を迎えました。
これまでは五条頼元が中心となり政務を行っていましたが、ここから先は懐良親王が主導する体制にシフトしていく事になります。
懐良親王を頂点とする征西将軍府が動きだしたとも言えるでしょう。
九州の観応の擾乱
室町幕府の中央では高師直と足利直義の対立により、観応の擾乱が勃発しました。
足利直義が失脚すると、身の危険を感じた足利直冬が九州に下向し、独自勢力を築く事になります。
九州での足利直冬は「准将軍」として期待され、急激に勢力が拡大しました。
鎮西管領の一色道猷は足利尊氏や高師直を支持しており、足利直冬とは対立しています。
少弐頼尚は幕府に対して不満があったのか足利直冬に味方しました。
幕府内が二分され争った事で、懐良親王は漁夫の利を得る事になります。
観応の擾乱で幕府方と南朝は共同戦線を張る事もあり、懐良親王が自ら軍を率いて筑後国に進出し、国府に陣を置くなどしています。
東国では足利尊氏が足利直義を破り、足利直義の世を去りました。
後ろ盾であった足利直義を失った直冬の勢力は縮小し、一色道猷の攻勢により九州から離脱しています。
足利直冬はその後は大内弘世に迎え入れられるなどしており、南朝の武将となりました。
正平八年(1353年)になると菊池武澄が一色範光を攻撃し、一色道猷に追い詰められていた少弐頼尚の援軍として菊池武光が動きました。
足利直冬が南朝の武将になった事で、少弐頼尚も南朝の武将となり懐良親王の九州征西府では、少弐頼尚の援軍として菊池武光を派遣したわけです。
菊池武光は針摺原の戦いで一色道猷の軍を多いに破りました。
一色氏は肥前国に逃れますが、これで九州の観応の擾乱は幕を閉じたと言えるでしょう。
九州でも観応の擾乱が終わってみれば、懐良親王の勢力が大きく力を伸ばしました。
懐良親王の親征
正平十年(1355年)になると懐良親王は菊池武光らと肥前国に向かいました。
千葉胤泰が籠る小城城を陥落させ、その後も各地を転戦しています。
さらに、豊後守護の大友氏時を下し、豊前城井城の宇都宮守綱も帰順させています。
これらの地域は態度が流動的な武士が多く、こうした勢力を懐良親王は九州征西府に取り込む事に成功したわけです。
九州征西府が力を強める中で一色道猷と一色直氏の親子は九州にいる事が出来なくなり、長門に向かいました。
足利尊氏は九州の状況を見て「鎮西凶徒」を退治する為に出征すると告げ、室町幕府を支持する武士たちを繋ぎとめようとしています。
吉野の後村上天皇は懐良親王が上洛する話を聞き、喜んだ話があります。
しかし、足利尊氏は1358年に亡くなっており、懐良親王の上洛も果たされる事はありませんでした。
筑後川の戦い
少弐頼尚の裏切り
北九州の大半は九州征西府の支配下となります。
南九州では日向の畠山直顕と島津氏が争っており、島津氏が南朝に与していました。
懐良親王の九州征西府では菊池武光に畠山直顕を討たせました。
太平記では、日向遠征の最中に大友氏時が室町幕府に与した話も掲載されています。
ここで懐良親王は自ら出陣し豊後国狭間に向かい、菊池武光と合流し豊後国高崎城を包囲しました。
こうした中で少弐頼尚が室町幕府に与する事になります。
少弐頼尚が南朝に与した理由は一色道猷に勝つためであり、一色道猷が既に九州から撤退した事で南朝にいるメリットがないと感じたのか反旗を翻したのでしょう。
懐良親王と菊池武光は高崎城の包囲を解き、肥後へ帰国しました。
大保原の戦い
正平十四年(1359年)7月に少弐頼尚は味坂荘に陣を置き、九州征西府の軍は高良山、柳坂、耳納山に布陣しました。
菊池武光が筑後川を渡ると、少弐頼尚は兵を大保原まで後退させています。
菊池勢が攻勢に出ると激戦となり、これが日本三大合戦の一つとされる筑後川の戦いです。
筑後川の戦いの別名が大保原の戦いとなります。
懐良親王は第三陣にあり三千余騎の軍で敵兵と戦っています。
この戦いは激戦であり懐良親王自身が三カ所に深手を負いました。
洞院権大納言らは懐良親王を逃がす為に奮戦し討死しています。
この後に、新田一族や菊池武光らの奮戦があり、筑後川の戦いで勝利しました。
太平記の筑後川の戦いは創作とする見解もありますが、筑後川の合戦で南朝方が勝利した事は間違いないでしょう。
大宰府征西府の成立
畠山直顕が没落すると、島津氏は再び室町幕府に帰順しました。
正平十六年(1361年)に懐良親王は日向遠征を行うも、少弐頼尚の動きが活発となります。
懐良親王と菊池武光は肥後に撤退しました。
少弐頼国が筑前国加布里城を陥落させています。
この動きに対して菊池武光が筑前国長鳥山に陣を置きました。
細峰城や飯盛城で戦闘が行われ、少弐軍は油山に追い詰められています。
この時の菊池氏の軍は強く少弐氏や大友氏の軍を破り、懐良親王は遂に大宰府へ入る事になりました。
大宰府は古代より九州の中心地として栄えた地域であり、伝統的な九州の中心都市を懐良親王が抑えた事になります。
懐良親王が吉野を出てから既に23年の月日が経ち、九州に上陸してからも19年の月日が経っていました。
この大宰府征西府の時代が、九州南朝の全盛期だったとも言えるでしょう。
鎮西管領の一色道猷と一色直氏の親子は帰京し、室町幕府では斯波氏経や渋川義行を九州に派遣してきましたが、成果を上げる事が出来ませんでした。
斯波氏経は長者原の戦いで菊池軍に敗れ九州から退き、渋川義行は九州に入る事すら出来ていません。
懐良親王と河野氏
河野氏は伊予の伝統的な豪族であり、観応の擾乱が行われる中で伊予守護にもなっています。
しかし、細川頼之が伊予守護となった事で、幕府との間に軋轢が生じました。
貞治三年(1364年)11月には細川頼之の伊予侵攻もあり、河野氏の惣領である河野通朝が亡くなっています。
こうした中で子の河野通堯は九州に向かい懐良親王に助けを求めたわけです。
正平二十年(1365年)に懐良親王は令旨を発行し、河野通堯の帰参を受け入れました。
吉野朝廷には伊予国守護の座と、河野通信の跡を認めてもらう様に働き掛けています。
懐良親王は河野通堯と大宰府で会見を行いました。
こうして九州征西府の勢力は四国にまで影響を及ぼす様になります。
後征西将軍宮
征西将軍府の四国進出において重要な役目を果たしたのが、後征西将軍宮だと言われています。
後征西将軍宮は後村上天皇の皇子であり、後には懐良親王の後継者となる良成親王だと考えられています。
ここでは良成親王で話を進めていきます。
良成親王がいつ頃に九州に来たのかは不明であり、正確な部分は分かりません。
正平二十四年に良成親王は「四国大将」として伊予に派遣され、この前年に河野通堯が大宰府から帰国しており、九州に良成親王を迎える事が出来る様になったのでしょう。
伊予は瀬戸内海を通り上洛する場合の海上の要でもあり、懐良親王としては是非とも抑えておきたい地域だったはずです。
日本国王懐良
明に朝貢
中国では元が北方に追いやられ北元となり、明が勃興していました。
1368年に明の初代皇帝である朱元璋は、アジアの近隣の国に明の建国を知らせ朝貢を求めました。
朱元璋は日本にも使者を派遣し、倭寇の取り締まりを求めています。
この時に朱元璋は九州で猛威を振るう懐良親王を交渉相手に選びました。
勿論、日本には北朝や南朝の朝廷があり室町幕府もありましたが、倭寇の拠点がある九州の大部分を支配していたのは、九州征西府であり懐良親王を交渉相手としたわけです。
明の最初の施設は懐良親王の元まで届かず五島列島の辺りで殺害されました。
朱元璋は二度目の使節として楊載を派遣し、大宰府の懐良親王の元までやってきたわけです。
懐良親王は明を無礼だとし使者を斬るなどしました。
朱元璋は激怒しますが、1370年3月に趙秩を再び懐良親王の元に派遣しました。
懐良親王は明と国交を結ぶつもりはありませんでしたが、趙秩が「私を斬れば、貴方にも禍が降りかかる」と述べた事で、明への入貢を決断しています。
1371年の10月には僧の祖来を派遣称臣上奏の為の名馬と特産物を明に献じました。
これにより朱元璋は懐良親王を日本国王として認めたわけです。
明からは大統暦、文綺、紗羅を返礼品として授けました。
懐良親王は日本国王にはなりましたが、日本の国内で「日本国王」として認められたわけではなく、中国の王朝である明から「日本国王」に認められたわけです。
ただし、明の使者が日本国王である懐良親王に再びあう事はありませんでした。
懐良親王が日本国王になった理由
懐良親王が明からの冊封により、日本国王になったのかですが、今川了俊の脅威が迫っていたからだともされています。
さらに言えば、明からの援軍を期待したとする説もあります。
ただし、海外の中国から日本に援軍にやってきた例はなく、交易による利益を期待したとする説もあります。
懐良親王が日本国王になった話は明側の史料によりますが、明側は懐良親王は明の脅威に屈した事になっています。
しかし、九州の交易都市である高瀬などを潤す為に、朝貢して日本国王になったのではないかとも考えられているという事です。
他にも、懐良親王は南朝からの自立も考えており、日本国王になったとする説もあります。
懐良親王と足利義満
懐良親王をみると、朱元璋の方から朝貢を願い、いとも簡単に日本国王に冊封された様に思うかも知れません。
懐良親王が明から「日本国王」に認められた事実が、足利義満を阻む事になります。
足利義満は明との通行を望んだ事は多くの方が知っているかと思います。
しかし、足利義満は明に朝貢し日本国王として認められるまでに、30年程の月日を擁しています。
足利義満がここまで日本国王に冊封されなかったのは、明では懐良親王を「日本国王に冊封した」という既成事実がありました。
つまり、懐良親王が日本国王になったという事実が、足利義満の前に立ちはだかり、約30年もの歳月を掛けて漸く日本国王に冊封されたと言えるでしょう。
足利義満の日本国王就任に、懐良親王が立ち塞がった事になるでしょう。
懐良親王が征夷大将軍に就任??
懐良親王は「征西将軍」でしたが、建徳二年(1371年)と三年に「征夷大将軍」とする令旨が残されています。
懐良親王が征夷大将軍になったのは自称とする説もありますが、今川了俊に対抗する為に南朝の方で征夷大将軍に任命した可能性もあります。
尚、この時期に懐良親王は信濃にいる兄の宗良親王に「出家」を匂わせる様な和歌を贈っています。
九州征西府の絶頂にありながらも、懐良親王の心は何処か晴れなかったのかも知れません。
懐良親王が九州で自立を狙っていたとする説もありますが、出家を匂わせる辺りは隠遁生活にあこがれを持っており野望は少なかった可能性もあります。
ただし、別の見解も存在し、懐良親王が自立の道を歩まなかったのは、時期がこなかったからだとも考えられています。
懐良親王が征夷大将軍になった事は間違いなさそうですが、個人的には自称と言うよりも、南朝から征夷大将軍に補任されたという方が正しいのではないでしょうか。
大宰府征西府の終焉
今川了俊が九州に上陸
応安三年(1370年)になると、既に足利義詮、後村上天皇なども世を去っており、幕府では足利義満を細川頼之が補佐していました。
南朝でも長慶天皇の時代となっていたわけです。
細川頼之は文武両道の武将として評価が高かった今川了俊を九州探題に任じました。
今川了俊は中国地方の大内氏や有力者と関係強化した上で、九州に上陸する事になります。
ここにおいて懐良親王は、最大の試練を迎える事になります。
今川了俊は今川義範と今川頼泰を別動隊とし、三方向から九州征西府を挟撃する作戦を取りました。
1371年に今川義範が豊後の高崎城に入りました。
菊池武光が征西府の主力を率いて高崎城を攻撃しますが、落とす事はできなかったわけです。
今川了俊も豊前門司に上陸し、今川頼泰も肥前松浦に入っています。
大宰府の陥落
今川了俊は筑前麻生山の多良倉・鷹見嶽城を陥落させました。
今川了俊の軍は大宰府に迫り、懐良親王は苦しい立場となっていきます。
肥前では今川頼泰に進撃により、菊池武政が烏帽子嶽で敗れました。
懐良親王や菊池武光は大宰府に籠城しますが、今川了俊が包囲する事になります。
大宰府が包囲されている間にも、今川頼泰は肥前、筑後を転戦し、菊池武安を破るなどしました。
九州征西府の軍は各地で幕府軍に敗れたわけです。
今川頼泰の軍は今川了俊と合流し、大宰府に総攻撃を仕掛けました。
こうした中で有智山城は陥落し、大宰府も抜かれ、懐良親王や菊池武光は何とか撤退に成功し、筑後の髙良山に移りました。
九州征西府は十一年に渡り支配した大宰府を手放す事になったわけです。
九州以外では室町幕府の勢力が圧倒しており、物理的にも今川了俊に勝つのは難しかたっとする見解もあります。
大宰府征西府の時代は終焉を迎えました。
肥後に撤退
高良山は交通の要衝でもあり、懐良親王らは今川了俊の幕府軍に抵抗を試みる事になります。
文中二年(1373年)に菊池武政と菊池武安は肥前国本折城を攻撃しました。
菊池武政は今川に与する本折城を攻めたわけですが、この時に阿蘇惟武にしきりに援軍要請をしています。
この時期には懐良親王の股肱の臣とも言える菊池武光が病に伏せていました。
しかし、菊池武光の病は癒えず結局は没しています。
菊池武光が亡くなった翌年には、後継者の菊池武政までもが亡くなり、厳しい立場となります。
それでも、南朝の軍は福童原に進出するなどしていますが、今川了俊により頓挫しています。
翌日には今川氏兼・田原氏能らが今川了俊に合流し、石垣城、耳納山、黒木城の南朝軍を破りました。
九州征西府の軍は完全に劣勢となっており、懐良親王も高良山から出ねばならなくなります。
懐良親王は菊池氏の本拠地である肥後まで撤退しました。
今川了俊は筑後の完全平定に向けて動いています。
懐良親王は肥後まで後退したと言えるでしょう。
懐良親王は引退したのか
この頃に懐良親王が引退したとする話があります。
一般的には、懐良親王が引退し矢部に移り、良成親王が九州南朝のトップになったとされています。
しかし、近年では菊地康貴氏により、懐良親王が所領安堵を行い、良成親王が実行するとした役割だった事が指摘されており、懐良親王は隠居したわけではないとも考えられています。
懐良親王は菊池に入った後に、阿蘇社に参詣しており目的は軍勢催促にあったのではないかと考えられています。
阿蘇惟村は北朝に与しており、懐良親王が小国に向かったと今川了俊に報告しています。
これらの事から懐良親王は引退したわけではなく、阿蘇や豊後の勢力を味方にする為に動いていたと考える事も出来るはずです。
九州征西府が壊滅的な打撃を受ける
永和元年(1375年)になると、今川了俊は菊池武朝(賀々丸)と対峙していました。
この時に島津氏久と大友親世がやってきますが、少弐氏は動かなかったわけです。
島津氏久な熱心に少弐冬資を誘い、少弐冬資は水島に来ますが、今川了俊は暗殺してしまいました。
これに激怒したのが島津氏久であり、帰国しました。
菊池勢は攻勢に出て今川了俊を撤退に追い込んでいます。
しかし、1377年には肥前や肥後で戦いが起り稙田宮・菊池武義・菊池武安・阿蘇惟武らが世を去りました。
多くの有力武将を失った南朝は北朝の勢力への抵抗が難しくなります。
こうした時期に懐良親王は古傷が痛んだのか、既に戦場には立たなくなっていた様です。
懐良親王の願い
九州南朝の衰退が決定的となる中で、懐良親王は高良山の下宮社に願文を捧げています。
筑前国富永庄地頭職を寄進し、祭礼の興行、社殿の造営を立願しました。
懐良親王は「九州で戦乱が続くのは自分の徳が足らなかったからだ」とし自らを戒めています。
懐良親王は九州征西府の絶頂期と衰退を見たとも言える状況であり、想いを吐露したのでしょう。
懐良親王の最後
菊池武朝や良成親王も幕府方の攻勢により苦しい立場となりました。
こうした中で懐良親王は筑後矢部の山中にいたわけです。
この時期に懐良親王と良成親王が不和になっていた様であり、長慶天皇が仲介する様な事態となっています。
各地で九州征西府の軍が敗れ居所を多く移した事で、懐良親王と良成親王の意思疎通が困難になったとも考えられています。
弘和三年(1383年)までには懐良親王は病に掛かっており、五条良遠らが看病していました。
結局、懐良親王は回復する事もなく、同年に亡くなっています。
享年は55歳だったと伝わっています。
五条頼元と共に九州に降り立ち、亡くなるまでに40年はいた事になり、波乱万丈の生涯に幕を閉じたと言えるでしょう。
懐良親王の評価
懐良親王は父の後醍醐天皇からは九州の武士たちを束ね上洛し、南朝を興隆させる事を期待されたはずです。
北畠顕家が奥州から上洛し、足利尊氏の軍を倒したのと同じ役目を担わされた事でしょう。
懐良親王は九州の武士を束ね後醍醐天皇の期待に応えました。
最終的に懐良親王は今川了俊に敗れはしましたが、懐良親王のやり方に問題があったわけではなく、九州以外の地方では南朝が圧倒的に不利な状況にいた事が原因です。
ただし、懐良親王は九州南朝の黄金期であっても「出家」を口にしたり、父母の供養の為に経典を自ら書写し寺社に収めるなどし、本来であれば世俗からの離脱を望んでいたのではないでしょうか。
それでも、責任感からなのか九州をよく纏め上げ、全国的に不利な状況の中でも九州南朝を興隆させた手腕は素晴らしいと感じています。