名前 | 韓皋(かんこう) |
年表 | 紀元前243年 韓皋に城を築く |
コメント | キングダムでは韓皋の割譲が行われた事になっている。 |
漫画キングダムで呂不韋と李牧が交渉し、呂不韋が韓皋(かんこう)の割譲を要求するシーンがあります。
韓皋割譲が史実なのかですが、実際には趙が秦に韓皋を割譲したという記録はありません。
しかし、趙の記録では韓皋が実在した地名として記述されており、韓皋に趙が築城を行った事も事実です。
始皇帝本紀の記述も考えてみれば、韓皋割譲が実際にあった可能性も存在する様に感じました。
今回はキングダムの韓皋割譲を史実と合わせて解説します。
キングダムの韓皋割譲の経緯
キングダム第175話で秦が趙の悼襄王のお気に入りである春平君を拉致し、宰相の李牧が秦の咸陽で呂不韋と交渉を行う事になります。
呂不韋は李牧が只者ではないと判断し「死んでもらう」と宣言しました。
ここで李牧が趙申に地図の用意をさせ、秦と趙が同盟を結ぶ事もメリットを語りました。
秦趙同盟に対し秦の昌平君、李斯、蔡沢らは悪い話ではないと考えますが、呂不韋は「断る」と述べています。
ここで呂不韋は秦趙同盟を結ぶ条件として、趙の韓皋を割譲する様に要求しました。
韓皋の要求には昌文君も驚き、韓皋は秦、趙、魏の国境付近であり、李牧が宰相に就任し、一帯の防衛強化に着手した場所だとしています。
既に韓皋の城は完成間近にまでなっていたわけです。
李牧は韓皋の代わりに屯安の割譲を告げますが、呂不韋は一歩も引かず李牧は秦に韓皋の割譲を決めました。
これにより春申君は趙の悼襄王の元へ帰る事が出来る様になり、李牧も帰国が許されました。
秦趙同盟も成立したわけです。
史実で見る韓皋の割譲
趙世家の記述
趙の春平君や呂不韋、韓皋の話は、史記の趙世家の趙の悼襄王の二年(紀元前243年)に書かれています。
趙の悼襄王の二年の記述を最初から抜粋すると、次の様な事が書かれています。
・李牧が将軍として燕を攻撃し武遂と方城を抜いた。
・秦が趙の春申君を招き留置するも泄鈞が呂不韋を説得し春平君の帰還が認められた。
・趙が韓皋に城を気付いた。
上記の記述を見れば分かる様に、史記には春申君が秦から帰れなくなった話があり、韓皋の名前も登場しているわけです。
ただし、春申君が帰れる様に説得したのは、李牧ではなく泄鈞となっています。
さらに言えば、この時の李牧は北方の燕への遠征中であり、秦への交渉には行けなかったとみる事も出来るのではないでしょうか。
韓皋にしても、趙が城を築いた記録はありますが、秦に割譲したとは書かれてはいません。
それを考慮すれば、キングダムと似ている話は史実ではありますが、何処か微妙に違う印象を受けるわけです。
始皇本紀の記述
天下統一後に嬴政が趙について語るシーンが史記の始皇本紀にあります。
※史記 始皇帝本紀より
趙王は宰相の李牧を遣わし秦と盟約し、質子を返したのに盟約に背いて太原で乱を起こした。
上記の記述は何年の事なのかは不明ですが、宰相の李牧が秦にやってきて盟約し、質子が春平君であるなら、キングダムの話と合致する様に感じています。
原泰久先生は史記の、趙世家と始皇帝本紀の記述を元に、秦趙同盟の話を作成し、呂不韋の凄味を出す為に韓皋割譲の話も挿入した様に感じました。
韓皋の話が何処まで本当なのかは不明ですが、全くのデタラメという訳でもないのでしょう。