
| 名前 | 韓の景侯 |
| 姓・諱 | 韓虔 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前400年 |
| 在位 | 紀元前408年ー紀元前400年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:韓武子 子:烈公 |
| 年表 | 紀元前403年 韓、魏、趙が諸侯として認定される |
| コメント | 鄭からの侵攻を受けた |
紀元前403年に魏の文侯、趙の烈侯と共に周の威烈王から諸侯として認められました。
韓の景侯の時代は、鄭が斉や楚の支援を受け韓に侵攻した時代でもあります。
しかし、韓の景侯は魏の文侯を中心とした三晋で纏まり、斉を破るのに協力したりもしました。
韓の景侯の時代は、三晋が協力して中原の外の勢力に挑んだ時代でもあります。
韓鄭戦争は続く
韓の景侯は韓武子が亡くなると、韓の君主となりますが、史記によると即位元年(紀元前408年)に鄭を攻撃し雍丘を取ったとあります。
父親の韓武士は本拠地を宜陽に遷し、鄭への攻勢を強めていましたが、韓の景侯も同様に鄭への侵攻を強めました。
何年の事なのかは不明ですが、呂氏春秋の高誘注に「武子・景侯が宜陽、陽翟に都した」と記録されており、韓の景侯は鄭に近い陽翟に本拠地を移し、攻勢をさらに強めたとみる事も出来るはずです。
韓の景侯の時代は晋の烈公を魏の文侯が正卿となり利用し、魏、韓、趙は纏まって斉などと対峙している時代でした。
こうした中で韓は鄭を狙い、趙は衛を狙い、魏は秦の河西攻略戦が一段落しており、斉に攻勢を仕掛けている時代でもあったわけです。
史記によると、韓の景侯の2年に鄭が韓を負黍を破ったとあります。
鄭が韓に反撃したとみる事が出来ますが、斉の助けで鄭は戦いに勝利したと考えられています。
諸侯となる
紀元前404年に晋が斉を長城の戦いで大破しました。
晋とは言いますが、実際には魏の文侯が実権を握り斉に兵を進めたのでしょう。
長城の戦いには韓の景公も参戦しており、戦後に魏の文侯、趙の烈侯と共に韓の景侯も諸侯として認められました。
史記の韓世家にも韓の景侯の6年(紀元前403年)に、韓は魏、趙と共に諸侯の列に連なる事が出来たと記録されています。
韓は周の威烈王により、魏、趙と共に諸侯として認められました。
ただし、韓の景侯らは「侯」の身分であり、晋の烈公は「公」の身分となっており、魏の文侯は相変わらず晋の公室の権威を利用しています。
陽翟を包囲される
史記によると、韓の景侯の9年(紀元前400年)に、鄭が韓の陽翟を囲んだとあります。
呂氏春秋の韓の景侯が陽翟に本拠地を遷した記述を信じるのであれば、韓の景侯は本拠地を鄭に包囲された事になります。
当時の韓と鄭を比べた場合に、韓の方が圧倒的に強国であり、普通に考えれば鄭が単独で韓の陽翟を包囲するのは無理があるとも感じています。
一つの説として、紀元前404年に斉が三晋連合に敗れ、鄭は斉の支援を受けられなくなり、楚に接近したと考えられます。
鄭は楚の援助により、韓の陽翟を包囲した事にもなるのでしょう。
さらに言えば、紀元前400年は三晋が楚を攻撃し乗丘にまで侵攻しており、三晋に対抗する為に楚と鄭は同盟を結んでいた可能性があります。
尚、韓の景侯が亡くなった後ですが、紀元前399年に楚は楡関を鄭に返還したとあり、楚と鄭の間に何かしらの友好関係があったのでしょう。
韓の景侯の最後
韓の陽翟が鄭に包囲された年に、韓の景侯が亡くなりました。
史記では韓の景侯は、その9年で亡くなったとあり、紀元前400年に世を去った事になります。
韓の景侯が世を去ると、子の韓の烈公が後継者となりました。
尚、韓の景侯の最後の詳細は記録がなく分かっておらず、陽翟籠城戦の中で亡くなった可能性もあるはずです。
または、既に韓の景侯は体調を崩しており、こうした中で鄭の繻公に攻められ陣中で亡くなったか、戦いに勝利し一息ついた所で亡くなってしまったのかも知れません。
| 先代:韓武子 | 景侯 | 次代:烈公 |