名前 | 韓王安 |
生没年 | 生年不明ー紀元前226年 |
勢力 | 韓 |
年表 | 紀元前234年 韓非子を使者として秦に派遣 |
紀元前231年 南陽を秦に割譲、秦の捕虜となり呉房に移る | |
紀元前230年 新鄭が陥落 | |
紀元前226年 新鄭で叛乱が起きる | |
コメント | 最後の韓王 |
韓王安は韓の最後の王であり、即位したと時から秦の脅威に晒されていました。
秦と韓の国力の差は軽く10倍を超え、圧倒的な戦力差を前にして韓は滅んでいます。
史記を見ると韓王安の時代に韓非子が秦に行き李斯や姚賈とのやり取りの末に、秦で命を落とした話があります。
韓王安と韓非子の関係は明らかになっていませんが、兄弟や叔父だったりする可能性も残っているはずです。
さらに、秦の騰により韓は滅亡しています。
史記では韓王安の記述は簡略すぎて謎な部分が多いですが、近年では歳記や睡虎地秦簡により若干ではありますが、韓王安の内容も見えてきました。
韓王安が即位
紀元前239年に桓恵王が亡くなり子の韓王安が即位しました。
韓王安の元年は紀元前238年となります。
紀元前238年は嫪毐の乱があり昌平君や昌文君の活躍により、乱が鎮圧されましたが、呂不韋が失脚した年でもあり、秦の政局は荒れていました。
それでも、秦は楊端和が魏の衍氏を陥落させるなどの戦果も挙げています。
地図を見れば分かりますが、この時の韓は既に首都の近辺しか保有している土地があり、滅亡寸前の状態でした。
(画像:YouTubeより引用)
この状態では韓王安が優れた君主であったとしても、逆転は無理だったはずです。
逆を言えば、秦は韓を滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼせる様な状態でしたが、窮鼠猫を嚙むでの被害を恐れたのか、趙などを攻めています。
これまでに戦国七雄の一国が滅びた例が無く、秦も慎重に事を進めたのかも知れません。
韓非の死
史記の韓世家によると、韓王安の5年(紀元前234年)に、秦が韓を攻めて、韓は危急に瀕し韓非を使者として秦に派遣したとあります。
史記の老子韓非子列伝によると、韓非子は書簡で韓王安を諫めましたが、韓王安は韓非を用いる事が出来なかったと記録されています。
韓非子は後世に多大な影響を与えており、韓王安が無能に思えるかも知れませんが、韓が領有する中原の大都市では都市の独自性が強く、韓非子の思想にある様な王を中心とした法治国家には出来ないと考えたのでしょう。
秦は逆に辺境の地にあったが故に、国を纏める事が可能だった部分もあり、韓非子の思想が多いに役立ったと言えます。
尚、韓非子の言う事を韓王安が聞いていたとしても、国力の差が大きすぎて秦との逆転は難しかったはずです。
韓非子は秦の李斯や姚賈との人間関係のもつれもあり、秦で亡くなっています。
秦王政は韓非子の死を惜しんだ話がありますが、韓王安が韓非子の死を惜しんだのかは記録が無く分かっていません。
韓の滅亡
史記の韓の滅亡
韓王安の時代の最大の出来事と言えば、韓の滅亡でした。
韓の滅亡に関する記述は史記を頼る事が多かったわけですが、次の様に記載されています。
※ちくま学芸文庫 史記本紀より
9年、秦は王安を虜にし、その土地をことごとく手に入れ、潁川郡とした。
こうして韓はついに滅亡した。
史記の記述は簡略であり、どの様にして秦が韓を滅ぼしたのかが非常に分かりにくいです。
歳記の韓王安
2018年に湖北省荊州市で「歳記」なるものが発見されました。
歳記は秦の昭王の元年(紀元前306年)から前漢の文帝までの王朝の年代記となっています。
歳記は春秋戦国時代から始まり、秦、楚漢戦争、前漢と王朝の枠組みを超えた年代記です。
歳記によると始皇帝の16年(紀元前231年)に、次の記述があります。
※朝日新書 始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団より
破韓、得其王、王人呉房
(韓を破り、其の王を得て呉房に入らしむ)
史記では紀元前231年の段階では南陽の地を秦に奪われた事になっていますが、歳記だと秦軍が韓を破り韓王安を捕虜とし呉房に移らせた事が記録されています。
秦本紀では紀元前230年に内史騰により韓王安が捕虜になった事になっていますが、歳記では別の事が書かれているわけです。
それでも、史記も歳記も紀元前230年までには、韓王安が秦の捕虜になっている事が分かります。
□山に移された韓王安
紀元前230年以降の記述として睡虎地秦簡の編年記があり、始皇帝の20年(紀元前227年)に、次の記述があります。
韓王居□山
韓王、□山に居る
□の部分は読めなくなっており、韓王が□山に居る事が分かります。
一般的には□山は地名ではないかと考えられています。
歳記の記述だと韓王安は呉房にいたはずですが、睡虎地秦簡の編年記では□山に移された事になっているわけです。
□山の位置は不明ですが、睡虎地秦簡が南郡の地方官吏の年代記である事から、□山の位置は過去に楚の首都があった南郡だったのではないかとも考えられています。
(秦の行政区分より)
韓王安の最後
史記の始皇本紀を見ると、始皇21年(紀元前226年)に、新鄭で叛乱が起きた事が記録されています。
新鄭は韓の首都であった場所であり、この頃には潁川郡が設置されていました。
新鄭の反乱は韓の元貴族たちによる反乱だったとも考えられています。
韓の新鄭は交通の要衝として発展した大都市であり、秦の統治を受け入れられない部分もあったのでしょう。
史記の新鄭の反乱と時を合わせるかの様に、睡虎地秦簡の編年記では「韓王死」の言葉が続きます。
ここでいう韓王は韓王安を指す事は明らかであり、新鄭で叛乱が起きた年に亡くなっている事になります。
新鄭での反乱と韓王安の死の関係は不明ですが、偶然の一致の可能性も否定できません。
しかし、実際には秦王政の何かしらの判断により、韓王安は亡くなったと考える事が出来ます。
編年記では「韓王死」とありますが、秦王政が毒薬や剣などを韓王安に送りつけて亡くなった事も考えられます。
死というのは毒薬や剣を賜わり死を与える事であり、殺と言うのは処刑を指すわけです。
史記の記録を見ると韓は紀元前230年に滅亡した事になっていますが、編年記で「韓王」とする記述がある事で、紀元前226年の亡くなるまで韓王安は韓王だった事になります。
こうした事情から韓王安は呉房や□山に移されてからも韓王であり、反秦の行動を取り続け、結果として秦王政の怒りを買い死を命じられたとも考える事が出来ます。
ただし、それぞれの記述が簡略し過ぎており、想像の域を出ない部分が多いです。
尚、韓の滅亡と言っても、何かしらの紆余曲折があった事は確実でしょう。