名前 | 鶏鳴狗盗 |
読み方 | けいめいくとう |
意味 | 鶏の鳴き声や犬の様に盗むなど低俗な能力しかない者 |
つまらぬ能力でも役に立つ |
鶏鳴狗盗は史記の孟嘗君列伝に記載された故事です。
鶏鳴狗盗の故事は諺にもなっており意味は「犬の様に物を盗んだり鶏の真似などつまらぬ能力」を指します。
ただし、それと同時に鶏鳴狗盗の故事は「つまらない能力でも役立つ事はある」という教えにもなっています。
孟嘗君列伝では孟嘗君本人の実績と言うよりは、食客達の活躍の話が記載されているわけであり、そのうちの一つが鶏鳴狗盗の逸話となっているわけです。
鶏鳴狗盗の話は普段は役に立たない者が活躍する事もあり、一種の爽快感がありますが、本当にあったのか?に関しては疑問があります。
今回は鶏鳴狗盗のあらすじを紹介すると共に、この話が本当にあった話なのか?を解説します。
鶏鳴狗盗のあらすじ
孟嘗君の食客
孟嘗君は史記の孟嘗君列伝で薛の領主であり田嬰の子だと記載があります。
孟嘗君は戦国四君の一人に数えられ多くの食客を抱えていましたが、その中には盗みの達人や鶏の鳴き声が上手な者など玉石混交でした。
孟嘗君の食客の中には知識人もいましたが、乱暴者など様々な人々がいたわけです。
薛の領土だけでは食客を養う事が出来ず、孟嘗君の家計は火の車だった話もあります。
しかし、多くの食客を養った事で、孟嘗君の名は賢人として天下に鳴り響いていました。
秦の昭王の誘い
孟嘗君の名に興味を持ったのが戦国七雄の最強国の王である秦の昭王です。
秦の昭王は孟嘗君を秦に招き、孟嘗君は行こうとしますが、蘇代が諫止した話があります。
しかし、後に孟嘗君は秦の昭王が望んだ為か、斉の湣王の王命により秦に行く事になりました。
秦の昭王は孟嘗君に会えると知り多いに喜んだわけです。
孟嘗君は秦に行くと秦の昭王に献上物として天下無双の一品の狐白裘を贈りました。
狐白裘は狐のわきの下の白い毛だけで作った珍奇な品物であり、天下に名高い宝物です。
この狐白裘が鶏鳴狗盗の話のポイントとなります。
讒言
秦の昭王は孟嘗君が賢人だと悟り宰相にしようとしますが、次の様に言う者がいました。
孟嘗君は天下の賢人ではありますが、斉王の一族でもあります。
孟嘗君を秦の宰相にしてしまったら、斉を利益を先とし秦を後とするに違いありません。
孟嘗君は賢人であり、この様な人物を外に出してしまうのも危険な事なのです。
秦の昭王は思う所があったのか、孟嘗君の宿舎を包囲し誅殺しようとも考える様になります。
秦の昭王の愛妾
孟嘗君は周囲の様相が異様を呈している事に気が付き、秦の昭王の愛妾に使者を派遣し、秦の昭王を説得して貰おうと考えました。
秦の昭王の愛妾は次の様に述べています。
私は狐白裘が欲しいと考えております。
秦の昭王の愛妾は狐白裘を孟嘗君に要求し、狐白裘を得る事が出来たなら秦の昭王への口添えをすると約束したわけです。
しかし、孟嘗君は狐白裘は既に秦の昭王に献上しており、手元にありませんでした。
狗盗
孟嘗君は困りますが、食客達に相談しても良いアイデアが出る事はありませんでした。
この時に末席に座っていた狗盗の達人が名乗り上げる事になります。
狗盗とは犬の様に物を盗む者であり、泥棒の達人は、次の様に述べ自薦しました。
狗盗の達人「私が狐白裘を盗み出して見せます」
泥棒の達人は秦の宝物庫から狐白裘を盗み出し、ここに持ってくると宣言したわけです。
泥棒の達人は狗の真似をして秦の蔵に忍び込み、狐白裘を持ち出す事に成功しました。
孟嘗君は手に入れた狐白裘を秦の昭王の愛妾に渡し、愛妾は秦の昭王に孟嘗君を許す様に働きかける事になります。
鶏鳴
秦の昭王の愛妾の働きかけが功を奏し、孟嘗君の宿舎の包囲は解かれました。
孟嘗君は急いで秦を脱出するべく動きだし、手形を偽造し関所を抜けようとします。
孟嘗君は夜半に函谷関の近辺まで辿り着きますが、朝を告げる鶏が鳴くまで門は開かない事になっていました。
秦の昭王の方では孟嘗君を許した事を後悔し、追手を出していたわけです。
孟嘗君は追手の追撃を畏れますが、ここで鶏の鳴き声の名人が進み出て、鶏の鳴き声をまねたわけです。
鶏の鳴き声の名人が鳴けば、周りの鶏が一斉に鳴き始め函谷関の門は開きました。
孟嘗君は偽造した手形を出し、無事に函谷関を抜けたわけです。
鶏鳴狗盗の食客の活躍により孟嘗君は無事に斉に戻る事が出来ました。
鶏鳴狗盗の食客
過去に孟嘗君が泥棒の名人と鶏の鳴き声が上手い男を食客に加えた時に、多くの食客が同列にされた事を恥じたと言います。
しかし、鶏鳴狗盗の食客が秦で孟嘗君の危難を救った事を目の当たりにすると、皆が納得したとあります。
鶏鳴狗盗の話は「人間は様々な能力を持っており、誰が何処で役に立つのか分からない」という教えにもなっているわけです。
ただし、孟嘗君の食客に関しては平原君の所に立ち寄った時に、街を破壊してしまうなど荒っぽい者も多かったのでしょう。
司馬遷も薛に行った時に乱暴者が多かったと記述しています。
鶏鳴狗盗の故事は本当なのか?
鶏鳴狗盗の故事ですが、話としては面白いと感じています。
しかし、鶏鳴狗盗の故事が真実なのか?と聞かれると疑問があるわけです。
最初に鶏は早朝に鳴くイメージが強いですが、夜明けの直前に鳴くわけでもなくなく時間も一定ではありません。
鶏鳴狗盗の話では「秦の法律」として鶏が鳴くまで函谷関は開かない事になっていますが、現実的ではないはずです。
さらに、鶏鳴狗盗の泥棒の名人であっても鍵もなく宝物庫に忍び込み、狐白裘を盗み出す事が出来るのか?という疑問もあります。
他にも、秦の昭王の愛妾は天下無双の一品である狐白裘を望みましたが、愛妾が狐白裘を所有していれば盗んだ疑いが掛けられてもおかしくはないでしょう。
それを考えると、鶏鳴狗盗の話は創作ではないかと考えられます。
さらに言えば、孟嘗君は斉からの正式な使者として秦を訪れたのではないか?とする説もあります。
孟嘗君は秦の昭王からいきなり宰相に任じられた逸話もありますが、実際には客卿であり他国出身の大臣だったのではないか?ともされています。
当時は各国との外交を円滑にする為に、他国出身の大臣を登用するのは良くありました。
尚、孟嘗君は斉に戻ると宰相に任じられており、秦との外交において何かしらの功績があったのではないか?と考える趣も存在します。
ただし、孟嘗君は斉に戻って来ると斉、魏、韓の合従軍を結成し、秦を攻撃し函谷関を抜くほどの戦果を挙げています。
それを考えれば、鶏鳴狗盗の故事が創作であったとしても、孟嘗君と秦の昭王の間で何かしらの事はあったのかも知れません。