名前 | 菊池槍 |
別名 | 筑紫槍、菊池千本槍 |
時代 | 南北朝時代? |
考案者 | 菊池武重 |
コメント | 日本で最初の槍とも言われている。 |
菊池槍は菊池武重が箱根竹ノ下の戦いで敗走するなかで考案した武器だともされています。
戦いに敗れた菊池武重は追撃してくる足利軍を撃退する為に、千人の部下に竹の先に小刀を付ける様に命じたのが始りだともされています。
これが日本で最初に使われた槍だとも言われていますが、菊池武重の槍の話は創作だと考える人が多い状態です。
しかし、実際に九州では菊地槍が使われており、菊池氏の武勇から菊池槍の名前がつけられた話もあります。
尚、菊池槍は九州で使用されていた事から筑紫槍と呼ばれる場合もあります。
菊池槍の誕生
九州肥後の菊池氏の当主である菊池武重は後醍醐天皇の命令で、新田義貞と共に鎌倉にいる足利尊氏討伐に向かいました。
脇屋義助の配下にいた大友貞載らの裏切りにより、新田軍は敗走する事になります。
ここで菊池武重は竹の先に小刀を括りつけた武器を考えました。
これが菊池槍の誕生であり、日本で最初に使われた槍だったのではないかとされています。
後に菊池武重は肥後の菊池郡に戻ると槍の穂先を考えたともされており、これが菊池千本槍に繋がるとも考えられています。
箱根竹ノ下の戦いで敗走する中で菊池武重が菊池槍を思い浮かび、肥後に戻ると考案した武器を実践で使用できるように工夫したと言うのはあり得ない話ではないでしょう。
ただし、一般的には菊池槍が日本で最初に使われたと言うのは、あくまでも俗説ではないかと考えられています。
槍を使った集団戦法
菊池槍は日本で最初に使われた槍ではないかも知れませんが、菊池武重が菊池槍を使った集団戦法を思いつき実践した可能性は残っているとされています。
後に菊池武重は肥後に戻りますが、当時の菊池氏は菊池武敏が多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れ苦しい状況でもありました。
ここで帰国した菊池武重は阿蘇惟澄らと共に周辺勢力を討ち犬塚原の戦いでは一色範氏を破っています。
菊池武重は帰国してから何度か戦いで勝利しており、ここで新たに考案された菊池槍が威力を発揮した可能性もあるはずです。
槍を使った集団戦法に対処出来ず、九州の他勢力は敗れた可能性もあるでしょう。
尚、素槍や菊池槍などは南北朝時代に主力の武器となり、多くの人々が使う様になります。
槍は刀に比べて遠距離からの攻撃が可能で、弓矢と比べてみても練習期間が短くて済む事から、好まれました。
槍の集団戦法である槍衾などの技術も出来上がる事になります。