室町時代

北畠顕家は花将軍と呼ばれた儚き貴公子

2024年11月3日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前北畠顕家
生没年1318年ー1338年
時代南北朝時代
主君後醍醐天皇
年表1338年 青野原の戦い
1338年 石津の戦い
コメント南北朝随一のイケメンでもある

北畠顕家は公家でありながら奥州に下向し義良親王を奉じ、陸奥将軍府のトップとして君臨しました。

北畠顕家は容姿端麗であり花将軍とも呼ばれており、天才的な軍事能力を持った人物でもあります。

一部では「北畠顕家は戦術の天才」とする評価されています。

足利尊氏が建武政権から離脱し近畿に転戦すると、北畠顕家は奥州から上洛し足利尊氏の軍を破っています。

足利尊氏が九州に逃れると奥州に戻りますが、奥州は混乱しており北畠顕家は本拠地を多賀城から伊達霊山城に移しました。

こうした中で楠木正成新田義貞が湊川の戦いで敗れ、後醍醐天皇はは幽閉されますが、幽閉先を脱出し吉野に逃れ南朝を開きました。

後醍醐天皇は起死回生の一手として北畠顕家を奥州から再上洛させますが、北畠顕家は高師直に石津の戦いで敗れ最後を迎えています。

北畠顕家は僅か21歳で亡くなっており、容姿も美しく儚き貴公子として人気を集めています。

尚、北畠顕家の解説動画も既に作成してあり、記事の最下部から読む事が出来ます。

北畠顕家の誕生

北畠顕家は北畠親房の長男として文保2年(1318年)に生まれました。

北畠顕家が誕生する前年である1317年には、文和の和談が成立し両統迭立が定められています。

1318年に後醍醐天皇が即位しました。

お気づきの方もいるのかも知れませんが、奇しくも後醍醐天皇が即位した年に北畠顕家は生まれたわけです。

北畠顕家は公家であり4歳の時には従五位下となり、5歳になると従五位上となり若年ながらも出世を重ねました。

14歳の時には正四位上、参議、左近衛中将になっています。

北畠顕家は美少年

1331年3月4日に後醍醐天皇は西園寺公宗の北山邸に数日間滞在しました。

ここで宴を行った時に、北畠顕家が陵王の入綾を後醍醐天皇の前で舞っています。

陵王は中国の北斉の高長恭の事であり、別名として蘭陵王と呼ばれています。

蘭陵王は天才的な軍事能力を持った武将でありながら容姿は美しく、仮面を付けて戦ったとする記録があります。

北畠顕家も美少年だった話もあり、美しさと勇猛さで蘭陵王と共通する部分があったのでしょう。

北畠顕家が見事な舞を披露すると関白の二条道平より衣を賜わった話もあります。

この時の北畠顕家の優雅な姿は増鏡でも特筆されています。

北畠顕家が花将軍と呼ばれる由縁は舞を巧みな部分もある様に感じました。

元弘の変

北畠顕家が後醍醐天皇の前で素晴らしい舞を披露したわけですが、それから間もなく元弘の変が勃発しました。

後醍醐天皇や護良親王らは倒幕を目指しますが、笠置山の戦いで後醍醐天皇は捕虜となり隠岐に流されています。

護良親王は引き続き倒幕を目指しますが、宗良親王も捕虜となっており讃岐に配流されています。

北畠氏は皇室と繋がりが深いわけですが、一族の北畠具行が処刑されました。

鎌倉幕府では両統迭立により持明院統の光厳天皇を即位させますが、北畠顕家は年齢も若く首謀者の一味ともされず引き続き朝廷で重用された様です。

北畠顕家は後醍醐天皇が隠岐に流された後に、従三位に昇進し参議・左中将となっています。

陸奥将軍府への下向

護良親王による倒幕の動きは進み楠木正成が千早城で幕府軍を翻弄する中で、足利尊氏細川和氏らの言葉で後醍醐方に寝返り六波羅探題を滅ぼしてしまいました。

さらに、関東では新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条高時を自害に追い込み鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇が帰京すると建武の新政が始まる事になります。

北畠顕家は弾正大弼・陸奥守となり、後には正三位にまで昇進しました。

建武政権の地方統治の一環として陸奥将軍府が設置される事になり、後醍醐天皇の皇子である義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州に下向する事になります。

因みに、北畠親房の神皇正統記には後醍醐天皇は何度も北畠顕家に陸奥将軍府の件を打診し断られ、最後には自ら北畠顕家を召し出し旗の銘を書き多数の武器を与えて強く命じた話があります。

奥州に行く事になった北畠顕家ですが、まだ16歳であり心配もあったのか、北畠親房が同道しています。

尚、北畠顕家は16歳の若者だと言いましたが、陸奥将軍府の権威である義良親王はまだ6歳の子供でした。

こうした事情から陸奥将軍府の実質的なトップは北畠顕家だと考えられています。

北畠顕家は陸奥の安定のために尽力する事になります。

多賀国府に入城

北畠顕家は奥州の多賀国府に入りました。

当時の将軍府は陸奥だけではなく出羽も管轄しており、奥州全体を統治する機構だったのでしょう。

奥州は広大な広さを持っているだけではなく、北条氏の一族の領地も多くあり治めにくい地域でした。

この様な統治が難しい地域を南部師行伊達行朝結城宗広らと共に北畠顕家は治めて行く事になります。

北条氏の残党は石川楯に籠城したり、抵抗勢力が持寄城で反抗しますが、奥州将軍府では鎮圧していく事になりました。

外ヶ浜では式部卿宮と称する悪党が現れ名越時如や安藤家季も割拠するなどしましたが、伊賀盛光や南部師行らが反乱を鎮圧しています。

これらの戦いを津軽合戦と呼びます。

北畠顕家は反乱鎮圧の功績により従二位に叙されました。

中先代の乱と奥州

建武の新政が始まって2年後の1335年に北条時行による中先代の乱が勃発しました。

鎌倉将軍府を任された足利直義は北条時行の軍に敗れ鎌倉を占拠されています。

この時に薩摩刑部左衛門入道が北条時行に寝返り北畠顕家の元から離脱しています。

津軽の山辺郡でも反乱が勃発し南部政長が鎮圧に動きました。

尚、中先代の乱が勃発した頃から北畠顕家の袖判下文が激減し宛行、安堵の大半が陸奥国宣形式の文書で行われています。

宛行の国宣も殆ど無くなっており、事情は不明ですが、何かしらの問題があったのではないかと考えられています。

北畠顕家は公家出身であり、これらの事も関係しているのかも知れません。

中先代の乱は足利尊氏が配下の者を連れて勝手に東国に向かい、北条時行の軍を破り鎌倉を奪還した事で終結しました。

北畠顕家の第一時上洛

上洛戦の始まり

中先代の乱が終わると足利尊氏は論功行賞を始めてしまい後醍醐天皇は建武政権への裏切り行為と判断しました。

後醍醐天皇は新田義貞に鎌倉討伐を命じました。

この頃に北畠顕家は鎮守府将軍に任命されています。

足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞の軍を破り近畿に向かいました。

後醍醐天皇は北畠顕家に上洛の為の軍を興す様に命じる事になります。

北畠顕家は義良親王と共に多賀国府を出発し、足利尊氏の軍を追いかける形となります。

異常な程に早い奥州軍

多賀城から京都までは800キロもの距離があり、現代でも移動するにはかなりの時間が掛かります。

しかし、北畠顕家は僅か22日で到達しており、異常な程の早さで進んだ事が分かります。

戦国時代に本能寺の変があり、豊臣秀吉が明智光秀を電撃作戦で破る為に中国大返しを行い、10日間で230キロを踏破しましたが、それを上回るスピードでの移動となります。

中国大返し奥州軍の第一時上洛
指揮官豊臣秀吉北畠顕家
移動距離230キロ800キロ
日数10日22日
1日の移動距離約23キロ約36キロ

北畠顕家は1日あたり36キロも進んだ事になり、信じられない位の進軍スピードだった事が分かります。

奥州軍の異常なまでの早さを支えたのが奥州の南部馬だったともされています。

南部師行が馬の逃亡や殺害で調査に乗り出した話も伝わっており、奥州は馬の産地であり重宝されていた事が分かります。

本郷和人氏は北畠顕家の異常な行軍スピードを支えたのが普通の馬よりも体が大きい南部馬だと考えたわけです。

尚、南部馬は明治時代に絶滅しており、現在ではみる事が出来ません。

名将と呼ばれる人物は極めて軍を自在に操り極めて行軍速度が速い事が多く、行軍スピードの速さが北畠顕家が名将と呼ばれる由縁なのでしょう。

北畠顕家と足利尊氏の戦い

足利尊氏は京都を占拠しますが、その頃に北畠顕家率いる奥州軍は近江の愛知川宿に到着しました。

北畠顕家の奥州軍は大館幸氏と六角時信が籠る観音寺城を陥落させ、東坂本で後醍醐天皇と面会しています。

奥州軍は山田・矢橋から琵琶湖を渡河させ官軍の士気が多いに高まったとあります。

その後に新田義貞と共に足利方の園城寺を陥落させました。

北畠顕家は京都から非難した後醍醐天皇の行宮所の警備も行っています。

北畠顕家は粟田口から京都に入り車大路に火を放ち足利尊氏の軍と激戦を繰り広げる事になります。

京都での戦いは北畠顕家に軍配が上がり、足利尊氏や直義は丹波国まで撤退しました。

足利尊氏を京都から駆逐し後醍醐天皇は京都に戻っています。

北畠顕家は鎮守府大将軍の位を望み後醍醐天皇は許可しました。

北畠顕家は右衛門督や検非違使別当にも任命されており、後醍醐天皇は功績を高く評価したわけです。

足利尊氏は反撃を目論んでいましたが、北畠顕家は新田義貞と共に摂津国の芥川で足利尊氏の軍を撃破しました。

足利尊氏は戦いに敗れると、赤松円心や石橋和義に後方を任せ九州に落ち延びていく事になります。

これにより北畠顕家の第一時上洛戦は勝利が決まったわけです。

陸奥大介

足利尊氏が九州に退くと北畠顕家は権中納言に任命されました。

さらに、義良親王(後村上天皇)が元服し陸奥太守となり、陸奥は義良親王の任国となり、関東の常陸や下野も陸奥将軍府の管轄となります。

北畠顕家は陸奥守から陸奥大介となり再び奥州に戻る事になります。

奥州軍は相模の片瀬川で斯波家長の軍勢を打ち破るなど敵と戦いながらの奥州下向となりました。

北畠顕家が奥州を留守にしている間に、東北地方は足利尊氏に味方する者が続出しており、苦しい立場での船出となったわけです。

伊賀盛光など過去に北畠顕家に協力的だった者までもが足利尊氏に与しており、北畠顕家が奥州を開けた影響は大きかったと言えるでしょう。

混乱する奥州

奥州では相馬光胤が猛威を振るっており、北畠顕家は自ら討伐を行っています。

北畠顕家が相馬光胤を討伐し小高城を陥落させ討ち取った事は事実ですが、これが奥州軍が奥州に帰る途中だったのか、一度奥州に帰ってから行ったのかは不明です。

北畠顕家は相馬光胤の小高城を陥落させはしましたが、既にこの頃には足利尊氏が復活しており、湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を破りました。

足利尊氏は比叡山で後醍醐天皇と新田義貞を包囲し、光厳上皇の院宣を獲得し光明天皇を即位させています。

建武式目も制定され室町幕府が始り、足利尊氏に追い風が吹き奥州でも足利方に味方する者の勢いが増しました。

室町幕府の誕生は北畠顕家にとっては逆風が吹いたと言えるでしょう。

伊達霊山城に本拠地を移す

近畿では後醍醐天皇が足利尊氏により花山院に幽閉されますが、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開きました。

これにより後醍醐天皇の南朝と室町幕府が推戴する北朝が誕生し、南北朝時代が始まる事になります。

吉野の後醍醐天皇は奥州軍の力を信じており、北畠顕家や結城宗広ら奥州の諸将に再上洛する様に指示しています。

しかし、南朝の奥州の重要拠点である瓜連城が陥落するなど、戦況が芳しくなく北畠顕家も直ぐに上洛できる様な状態ではありませんでした。

奥州将軍府の拠点である多賀城にも危機が忍び寄っており、北畠顕家は防備に適した伊達霊山城に拠点を移しています。

伊達霊山城は伊達行朝の居城とも考えられており、北畠顕家は伊達霊山城を本拠地としたのでしょう。

尚、北畠顕家は後醍醐天皇の上洛の勅書に対し断りを入れていますが、伊達霊山城が幕府軍に包囲されていた話があります。

第二次上洛戦の始まり

北畠顕家は後醍醐天皇の上洛要請を断ったわけですが、1337年8月に再び上洛の途につきました。

北畠顕家としては混乱する奥州に残りたい気持ちもあったかと思いますが、義良親王を奉じて上洛する事になったわけです。

これが北畠顕家の第二次上洛戦となります。

第一次上洛戦では圧倒的なスピードを見せた奥州軍ですが、第二次上洛戦では以上に遅く利根川まで辿り着くのに4カ月も掛かった話があります。

しかし、利根川で幕府軍を破ると勢いに乗ったのか進軍が早くなりました。

北畠顕家率いる奥州軍は幕府軍を破り鎌倉も占拠しています。

関東での戦いで北畠顕家は斯波家長を討ち取り、足利義詮を三浦半島に駆逐しており、戦巧者ぶりを発揮しています。

斯波家長との戦いの中で北条時行や新田義興らが奥州軍に加わりました。

さらに、遠江では宗良親王が奥州軍に合流しています。

青野原の戦い

奥州軍は美濃に進軍し青野原の戦いで幕府軍を破りました。

奥州軍は青野原の戦いで勝利はしましたが、土岐頼遠が奮戦した事で被害も大きかったわけです。

こうした中で幕府軍は後詰として近江方面から高師泰や高師冬を派遣し黒血川に布陣する事になります。

北畠顕家は青野原での損耗を危惧し伊勢路にルートを変更しています。

伊勢路に向かった北畠顕家に対し高師泰が伊勢まで追撃した話もありますが、北畠顕家は吉野にまで辿り着いています。

北畠顕家と新田義貞

北畠顕家は伊勢路を通り吉野に向かいましたが、当時の北陸には尊良親王や恒良親王を擁す新田義貞がいました。

一つの考え方として、新田義貞と北畠顕家は連携して幕府軍に対処するべきだったとする説です。

伊勢路は隘路であり多くの武士を損耗する可能性が高いルートであった事から、勝利の為には北陸の新田義貞との連携が不可欠だったのではないかとされています。

太平記の記述などから北畠顕家は公家の出身であり、新田義貞の態度が気に入らないなかったなどの話もあります。

北畠顕家が私心により新田義貞と連携しなかった事で、北畠親房が北畠顕家を「甘い」と叱責したなどの逸話もある程です。

他にも、奥州軍の中には北条時行が含まれており、父親である北条高時の仇でもある新田義貞との連携に猛反対したのではないかとする説もあります。

ただし、奥州軍の中には新田義貞の子である新田義興も加わっており、北条時行が新田義貞との連携に反対するのはあり得ないとする考えもあります。

それに対し亀田俊和氏は青野原の戦いで損耗が大きかった奥州軍が大勢を立て直す為に、南朝の勢力が強い伊勢や大和を通過したのではないかと考えました。

実際に北畠顕家が何を考えていたのかは不明ですが、青野ヶ原の戦いで勝利した後に、高師泰と黒地川で対峙し伊勢路に向かい吉野に入った事だけは確かなのでしょう。

般若坂の戦い

北畠顕家は奈良から京都奪還を目指す事になります。

室町幕府の内部では高師直が桃井直常を推薦し奥州軍を迎え撃つ事になります。

ここにおいて般若坂の戦いが勃発しました。

般若坂の戦いでは桃井直常と弟の桃井直信の奮戦が光り北畠顕家は敗れています。

般若坂の戦いの頃から室町幕府では足利直義と高師直の間で分捕切棄の法が採用される様になったとも考えられています。

従来は戦争が終わるまで捕った首を持ち歩く必要がありましたが、分捕切棄の法により得た首は見方に示し証人とし直ぐに捨てると言う決まりです。

北畠顕家にとってみれば思わぬ所で敗れたとも言えるでしょう。

般若坂の戦いで北畠顕家は敗れはしましたが、再起不能になる事もなく直ぐに動き出す事になります。

尚、般若坂の戦いでは勝馬に乗れとばかりに戦争の役にも立たない公家や盗賊たちが参加し、足を引っ張った事で敗れたとする話もありますが、信憑性には疑問視されています。

河内や摂津で奮戦

般若坂の戦いで敗れた後に、北畠顕家は吉野に一回戻り義良親王を後醍醐天皇に預けています。

吉野に戻った北畠顕家ですが、直ぐに軍事行動を行い河内国へ向けて出陣しました。

摂津国の四天王寺で北畠顕家は幕府軍を破り勝利しています。

北畠顕家の勝利に驚いたのが足利直義であり、自ら東寺に移動し臨戦態勢を取っています。

この時に北畠顕家の弟である北畠顕信が石清水八幡宮を占拠しました。

北畠顕家は摂津国渡辺でも幕府軍と戦い上杉憲藤や重行を破る戦功を挙げています。

ここにおいて高師直も出撃して来ると、阿倍野、天王寺で奥州軍を破っています。

高師直は北畠顕家にとって天敵の様な存在ともなっているわけです。

北畠顕家上奏文

ここで戦いは一旦収まった様であり、北畠顕家は後醍醐天皇に意見書を提出しました。

これが北畠顕家上奏文となります。

北畠顕家上奏文は後醍醐天皇の政治姿勢を批判している事で注目されています。

北畠顕家上奏文は欠文個所もあり、七か条だけが残っている状態です。

北畠顕家上奏文に関しては亀田俊和さんの見解をベースに記述しました。

北畠顕家上奏文の第一条で建武政権の中央集権化を批判しています。

しかし、建武政権では北畠顕家の陸奥将軍府や足利直義が長だった鎌倉将軍府を設置しており、後の世には懐良親王の征西府を設置しています。

鎌倉将軍府、陸奥将軍府、征西府の存在から、既に後醍醐天皇は地方分権政策を行っていた事になるわけです。

亀田俊和氏は北畠顕家の建武政権の地方分権化は実情とはズレていると述べています。

北畠顕家上奏文の第二条では後醍醐天皇の奢侈を批判し減税を訴えています。

北畠顕家は後醍醐天皇が大内裏を造営する為に、民からの徴収を強化した事を批判しているわけです。

しかし、後醍醐天皇が崩御した時に室町幕府では天龍寺を建立しており、この時も徴収の強化に反対する意見が出ました。

室町幕府内で天龍寺反対の声は出ましたが、室町幕府は増税を強化し天龍寺を建立しています。

室町幕府の天龍寺建立は容認し後醍醐天皇の大内裏の造営は批判する事は出来ないとする見方があります。

北畠顕家上奏文の第五条では行幸や宴会を控える様に述べており、第六条では法令を徹底する様にと促す文章が続きます。

仁徳天皇の民の竈の話を模範とする様な聖王の話は、日本だけではなく中国などでもよく言われる事であり、現代でも無駄を省き法令を徹底する様に意見される事は多いです。

他にも、北畠顕家上奏文では後醍醐天皇が身分や秩序を無視して女官や僧侶の言葉を信じて高い権限などを与えた事を指摘しています。

ただし、人事に関しても味方を変えれば後醍醐天皇が身分に関わらず様々な人々から意見を求めたと言えるでしょう。

実際に楠木正成は下級武士でしたが、後醍醐天皇は楠木正成を用いた事で倒幕を成し遂げています。

それでも北畠顕家は最後に「天皇が過ちを改めず平和を築く事が出来ないなら官を去り山中に籠る」の言葉で締められています。

北畠顕家は熱意を持って後醍醐天皇を諫め問題点を指摘した事だけは間違いなさそうです。

北畠顕家の最後

上奏文を提出してから1週間後位に起きたのが石津の戦いです。

北畠顕家は堺浦に進出し幕府軍の高師直と戦う事になります。

石津の戦いの後に足利尊氏直義の母親である上杉清子が石津の戦いに関して述べた書状が見つかっており、それによると「船が6艘焼けて沈んだ」と書かれており陸上だけではなく海上でも戦いが起きていたのでしょう。

石津の戦いは陸と海を合わせた大規模な戦いだったと思われますが、北畠顕家は高師直との戦いに敗れました。

北畠顕家は奥州軍の忠臣である南部師行らと共に自害したわけです。

享年は21歳だと伝わっています。

北畠顕家は養子も美しく花将軍と呼ばれていましたが、儚き花将軍の最後だったと言えるでしょう。

北畠顕家の墓

大阪市に北畠公園があり北畠顕家のお墓があります。

ただし、北畠公園に北畠顕家が眠っているのかと言われれば別の様で、北畠公園のお墓は1720年頃に並河誠所が建てたものだという事が分かっています。

さらに、明治時代に建てられた阿倍野神社は父親の北畠親房と共に北畠顕家も祀られています。

大阪市の堺市に北畠顕家が戦死したと伝わる場所には北畠顕家の供養塔が立っています。

北畠顕家は石津の戦いで敗れて戦死してしまいましたが、年齢的にも若く生きていればまだまだ活躍出来たのはないかと感じました。

尚、北畠顕家は世を去りますが父親の北畠親房や弟の北畠顕信は南朝の武将として戦い続ける事になります。

北畠顕家の動画

北畠顕家のゆっくり解説動画となっております。

尚、北畠顕家の記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝・南朝編をベースにして作成してあります。

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