室町時代

北畠親房は南朝の実質的な指導者

2025年3月16日

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宮下悠史

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名前北畠親房
法名宗玄、覚空
生没年1293年ー1354年
一族父:北畠師重 子:顕家、顕信、顕能、顕子
コメント南朝の実質的な指導者だった

北畠親房は後醍醐天皇に仕え頭角を現していきます。

ただし、鎌倉幕府の滅亡の戦いでは出家していた事で、活動は見られません。

息子の北畠顕家が陸奥将軍府に長官となると奥州まで同行し、政界復帰しました。

後醍醐天皇が崩御すると後村上天皇に仕え、高師冬と常陸合戦を行うなどしています。

北畠親房は南朝の軍事だけではなく、神皇正統記を著すなど精神および論理の上でも南朝の中心人物であり、実質的な指導者でした。

北畠親房の著作物としては朝廷の官位や歴史を綴った職原抄も有名です。

尚、北畠親房は多くの人々に能力を認められており、万里小路宣房、吉田定房と共に「後の三房」の一人に数えられています。

北畠親房の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できるようになっています。

北畠親房の誕生

北畠親房は永仁元年(1293年)の正月に、北畠師重の子として誕生しました。

北畠親房は持明院統の伏見天皇の御世に誕生しましたが、当時の朝廷は大覚寺統と持明院統により皇位継承を争っていた時代でもあります。

イメージ的に北畠親房は教養も高く名門出身ではないかと思う所があるのかも知れません。

北畠親房の先祖を辿って行くと村上天皇の子孫である村上源氏ではありますが、久我家の分家の中院家の傍流に過ぎませんでした。

村上天皇の皇子である具平親王の子孫としては、久我、堀川、土御門、中院などがあります。

尚、北畠親房の父である北畠師重は後宇多上皇の出家に伴い出家するなど、北畠氏は大覚寺統の為に尽くす事になります。

当時の公家衆は大覚寺統と持明院統の間を揺れ動く場合が多かったのですが、北畠氏では一貫して大覚寺統の為に尽力しました。

北畠氏が大覚寺統の為に尽くすのは忠義だとも言われていますが、中院家の様に鎌倉幕府と関係が築けず、大覚寺統に尽くす以外に北畠氏が生き残る道が無かったからではないかともされています。

こうした北畠氏の家風がある中で、北畠親房は成長していく事になります。

北畠親房は両統迭立の時代に生まれますが、生後五か月ほどが経つと従五位下となりました。

生後間もなく公家社会デビューを果たしており、順調な滑り出しだったと言えるでしょう。

生まれながらの公家だったとみる事も出来ます。

因みに、大覚寺統の後宇多院は真言密教に傾倒しており、北畠親房の思想形成に大きく影響したとも考えられています。

北畠親房と北畠師親

北畠親房ですが、尊卑分脈によると祖父である北畠師親の養子になったとあります。

北畠親房が師親の養子になった理由ですが、父親の北畠師重の出世が送れ参議にしかなれていなかった事で、北畠親房の出世を危ぶんだ話があります。

祖父の北畠師親は既に参議になっており、将来の事を考え北畠親房は師親の養子になったとも考えられています。

ただし、師親は亀山上皇の側近となっており、父親の師重は後宇多上皇の側近として活動しており、親子の方向性の違いによる対立があったのではないかともされているわけです。

尚、北畠親房は北畠師親の養子になった事で、北畠師親の所持していた荘園や屋敷などの財産を継承する事が出来たともされています。

出世を重ねる

北畠親房は正安二年(1300年)には伏見上皇により従四位上となっており、順調に出世していた事が分かります。

北畠親房はこの時にまだ8歳だったと伝わっています。

当時は後伏見天皇の時代であり、北畠氏にも関わらず、持明院統の計らいにより出世しているのは注目すべき点でしょう。

さらに、兵部権大輔に補任されました。

後二条天皇の時代である1303年には左少将となります。

権左少弁を辞任

北畠親房は嘉元三年(1305年)に権左少弁に任じられました。

しかし、徳治二年(1307年)に権左少弁を突如として辞任しました。

北畠親房の権左少弁辞任の背景には、冷泉頼俊の右大弁就任への抗議だと考えられています。

当時の慣習として少弁、中弁、大弁と昇進していくのが普通ですが、冷泉頼俊のいきなりの右大弁就任への反発と考えられています。

権左少弁辞任に関しては、青年北畠親房の判断ではなく、親である北畠師重の指示があったのではないかとされています。

ただし、辞任後すぐに弾正大弼に任命されており、公家社会に残った事は確実でしょう。

北畠親房への期待

1308年に持明院統の花園天皇が践祚しました。

この時に北畠親房は従三位に叙されています。

ただし、この時の花園天皇はまだ12歳であり、従三位叙任を決定したのは治天の君である伏見上皇なのでしょう。

延慶三年(1310年)12月に北畠親房は参議に昇進しました。

北畠親房は左少将任官から参議まで7年で達していますが、父親や祖父は15年ほど掛かっており、出世スピードが如何に早いか分かるはずです。

しかも、両統迭立の中で持明院統の御世で出世する辺りは、北畠親房の能力が大きく認められたいたのでしょう。

北畠親房は左兵衛督や検非違使別当にもなっていますが、検非違使別当は後宇多上皇や後醍醐天皇も重視していた役職であり、北畠親房への期待度の高さを伺う事になります。

検非違使別当は洛中の治安を守る役職であり、日野資朝、万里小路藤房、四条隆資なども名を連ねました。

後醍醐天皇からの信頼

文保二年(1318年)に後醍醐天皇が即位しました。

祖父の北畠師親が亡くなった事で服喪の為に散位となっていましたが、後醍醐天皇の即位の年に権中納言となります。

元亨三年(1323年)には権大納言になりました。

この時の北畠親房は31歳だったと伝わっています。

北畠氏は代々に渡り権中納言までであり、北畠親房は先例を超えたと言えるでしょう。

勿論、この陰には後醍醐天皇の配慮もあったはずです。

北畠親房の出家

北畠親房は世良親王の教育係を任された話があります。

世良親王は後醍醐天皇が後継者として期待しており、北畠親房への信頼度の高さが分かるはずです。

しかし、世良親王は1330年に亡くなってしまいました。

北畠親房は世良親王の死にショックを受けたのか、深く悲しみ、その日のうちに出家しています。

この時に北畠親房はまだ38歳であり、後醍醐天皇は世良親王の最後を悲しむだけではなく、北畠親房の出家を惜しんだと伝わっています。

北畠親房の父親や祖父も30歳後半から40歳で出家しており、決して北畠親房の出家も早いとは言えないでしょう。

しかし、生涯の主君として仰いでいた世良親王の死の衝撃は大きかったとみる事も出来ます。

後醍醐天皇は護良親王楠木正成と共に、倒幕を企て実行しますが、北畠親房は参戦しなかった事が分かっています。

ただし、北畠氏全体が倒幕に参加しなかったわけではなく、一族の北畠具行が元弘の変で命を落とすなどの一幕もありました。

建武の新政が始まりますが、建武政権でも北畠親房は厚遇されたわけでもありません。

北畠親房が鎌倉幕府打倒に動かなかったり、建武政権でも重用されなかったのは、出家していた事が原因だと考えられています。

こうした事情から北畠親房の出家は政界からの引退だったと見る事も出来るはずです。

しかし、北畠親房の嫡男である北畠顕家が陸奥守になるなど重用されており、北畠親房は北畠顕家の補佐として政界に戻る事になります。

北畠顕家の奥州下向

建武政権では北畠顕家を陸奥守として奥州に下向する事が決定しました。

この時の北畠顕家の年齢は僅か16才だったと伝わっています。

この話を聞いた北畠親房は後醍醐天皇に謁見を望む事になります。

北畠親房は「北畠氏は和歌や漢詩を以って朝廷に仕え政務だけを行ってきた。国司としての行政や武芸にも疎い」と伝えました。

北畠親房は北畠顕家の奥州下向を取りやめる様に、後醍醐天皇に要請したわけです。

しかし、後醍醐天皇は「今の世の中は公武一統であり、文と武を区別するべきではない」と述べています。

後醍醐天皇は北畠顕家を義良親王と共に奥州に向かわせる事にしました。

尚、北畠親房も同道する事になります。

因みに、建武政権では公家が優遇されたとも伝わっていますが、北畠親房の話から公家も優遇はされたが、なれない事をする羽目になったとする指摘もあります。

ここから北畠親房の長く困難な第二の人生が始まるわけです。

北畠親房の奥州下向

北畠親房も奥州へ行く事になりますが、次の説があります。

後醍醐天皇は北畠親房を信頼しており東北に向かわせた。

後醍醐天皇は倒幕で功績のない北畠親房が不満であり、奥州へ左遷した。

護良親王の奥州小幕府構想が発動した。

奥州小幕府構想ですが、保暦間記に記述があり、護良親王が敵対した足利尊氏を排除する為に、自分と親しい北畠親房を奥州に派遣したとする説です。

足利尊氏の勢力基盤をなっている東国武士の切り崩しの為に、護良親王は北畠親房を奥州に下向させたとも考えられています。

北畠親房の娘が護良親王の妻になっている事も注目できる点です。

ただし、保暦間記が後世の編纂であり、信憑性が危ぶまれています。

後醍醐天皇が北畠親房を疎んだ結果として左遷した説ですが、寵愛している阿野廉子の子である義良親王を伴っている事から、北畠親房の東国下向は左遷ではないと解釈できるはずです。

陸奥国府において長官は北畠顕家ですが、北畠氏の一族も評定衆になっており、北畠親房だけが役職を与えられていません。

しかし、北畠親房は長官である北畠顕家よりの上の存在であり、就任すべき役職が存在しなかったと考える事が出来ます。

北畠親房の諫言

北畠親房が奥州にいる間に、北条時行による中先代の乱が勃発しました。

中先代の乱への対応なのか建武二年(1335年)10月までには、京都に戻ってきた事が確認されています。

中先代の乱は足利尊氏が鎮圧し、その後に勝手に論功行賞が行われました。

これに激怒したのが後醍醐天皇であり、鎌倉にいる足利尊氏に対し討伐軍を派遣しようとします。

太平記によると後醍醐天皇の足利尊氏討伐に対し北畠親房は「忠功のある尊氏に対し、不確実な情報をもとに討伐するのは仁政ではない」と諫めたとあります。

北畠親房の着眼点は武士への嫌悪感ではなく、天皇の行動が仁政を呼ぶのに相応しいのかが判断基準だった事が分かるはずです。

この判断基準からズレていれば、天皇であっても容赦なく諫言するのが北畠親房だったのでしょう。

しかし、後醍醐天皇は新田義貞を尊氏討伐の大将として出陣させるも、箱根竹ノ下の戦いで敗れ、逆に近畿にまで攻め込まれました。

奥州の北畠顕家が軍を率いて上洛した事で、足利尊氏は敗れ九州に落ち延びる事になります。

因みに、北畠親房は後醍醐天皇の施策や方針を何度も批判する様な言動を見せています。

従一位に叙位

足利尊氏は近畿で敗れ九州に向かいますが、この間に北畠親房は従一位に叙位されています。

出家者である北畠親房の従一位は異例の事であるばかりではなく、歴代の北畠氏の中で従一位になったものはいません。

建武三年(1336年)正月に北畠親房は従一位になったとされていますが、理由ははっきりとしません。

子の北畠顕家を奥州から呼び出す事に成功した手柄とも、この時点で北畠顕家が従二位となっており、父親の北畠親房の官位を低くするわけにもいかず、従一位になったともされています。

尚、足利軍を撃退した後の北畠顕家は義良親王と共に奥州に帰還しますが、この時の北畠親房は同道しませんでした。

北畠氏と伊勢

伊勢に入国

足利尊氏は九州では少弐頼尚の助力を得て大軍となり復活しました。

朝廷軍は湊川の戦いで楠木正成を失うなど苦しい立場となります。

この時の足利尊氏は光厳上皇の院宣を所持しており、官軍として後醍醐天皇の軍との戦いとなりました。

後醍醐天皇は比叡山に追い詰められる事になります。

最終的に後醍醐天皇は足利尊氏と和議を結びますが、北畠親房は和議成立前に比叡山を脱出し伊勢に向かった事が分かっています。

北畠親房が伊勢に渡ったのは、後醍醐天皇を伊勢に迎え入れる為だった様です。

北畠顕家に出した手紙にも、北畠親房が伊勢に入ったとあり、伊勢にいた事は間違いないのでしょう。

北畠親房は宗良親王や、北畠顕信、北畠顕能と共に伊勢に入りました。

北畠親房は玉丸城を本拠地としています。

尚、伊勢に北畠親房が下向した理由ですが、天武天皇が壬申の乱で吉野から伊勢を経由して、勝利を勝ち取った例に倣ったとも考えられています。

ただし、後醍醐天皇は吉野に移りますが、伊勢に移る事はなく南北朝時代が始まりました。

伊勢に入った北畠親房は伊勢神道に深い関心を寄せた話があります。

伊勢で勢力拡大を狙う

伊勢に入った北畠親房は近隣の武士たちに、味方になる様に要請するだけではなく、寺社には祈祷を行う様にと命令しています。

北畠親房の呼びかけに応じ、伊勢神宮の外宮前禰宜度会家行などが味方した事が分かっています。

尚、当時の伊勢神宮の祭主は北朝の大中臣頼忠でしたが、前の祭主は南朝を支持する大中臣蔭直でした。

大中臣頼忠は北朝側にとって都合の良い人物であり、任命したとみる事が出来ます。

北畠親房は伊勢とは無縁の人物でしたが、呼びかけに応じた者も多かったのでしょう。

因みに、伊勢北畠氏の初代は北畠親房の子である北畠顕能です。

北畠氏の当主は伊勢に在国するのが普通であり、戦国時代にまで勢力を維持する事になります。

常陸合戦

常陸に漂着

北畠顕家が石津の戦いで高師直に敗れ世を去りました。

同時期に北陸では新田義貞も世を去っており、南朝の軍事の柱が消滅しています。

こうした中で後醍醐天皇は結城宗広の策で、南朝の重臣たちを地方に派遣し、地方から挽回する策を考案しました。

北畠親房は東国に新たなる南朝の勢力基盤を創り上げる為に、伊勢の大湊を出港する事になります。

子の北畠顕信が鎮守府将軍への就任が決定し、義良親王を奉じて出港しました。

しかし、南朝の船団は房総半島での暴風雨により義良親王、北畠顕信、結城宗広らは吉野に戻る事になります。

北畠親房は伊達行朝らと共に何とか常陸に上陸する事になり、後醍醐天皇が崩御した事で義良親王は後村上天皇として即位しました。

尚、北畠顕信は再度東国を目指し陸奥に辿り着く事になります。

北畠親房と結城親朝

北畠親房は小田治久の居城である小田城に迎え入れられる事になります。

小田城に入った北畠親房に対し、室町幕府では高師冬を派遣してきました。

奥州において北畠親房が最も期待したのは、結城親朝であり、何度も兵を動かすように要請しています。

北畠親房は常陸合戦が行われている5年の間に、70通もの手紙を結城親朝に向けて出しています。

しかし、北畠親房は結城親朝に対し、十分な恩賞を約束する事が出来ず、相手の忠義を頼りとするやり方であり味方に引き入れる事が出来なかったわけです。

結城親朝の父と兄である結城宗広と結城親光は南朝への忠義を尽くして亡くなりましたが、結城親朝は北朝への味方を決断しました。

北畠親房を迎え入れた小田氏治も北朝への鞍替えを決断した事で、北畠親房は関城に移ったわけです。

北畠親房は春日顕国らと奮戦しますが、最終的には関宗祐が自害し常陸合戦に敗れています。

この後に、春日顕国は東国に残りますが、北畠親房は吉野に戻る事になります。

常陸合戦で北畠親房が高師冬に敗れた理由ですが、十分な恩賞の約束の用意を出来なかった事や興良親王が小山朝郷の元に出奔しており、団結力にも欠いたとする指摘もあります。

尚、吉野に戻った北畠親房ですが、伊勢で袖判御教書が見つかっており「大納言某御房」とあり、これが北畠親房ではないかと考えられており、吉野に戻ってから直ぐに軍事行動を行ったのではないかともされています。

北畠親房と神皇正統記

北畠親房が常陸合戦で小田城にいる時に、執筆が始まったのが神皇正統記です。

神皇正統記の「第日本は神国なり」とする印象的な言葉で始まります。

神皇正統記では特定の誰かに向けて執筆されたと考えられています。

「或童蒙」がその人物とされていますが、東国の武士とする説もあれば後村上天皇、結城親朝を指すとする説があります。

尚、神皇正統記では「正統」というのが一つのポイントであり、直系で繋がる皇統を正統とみなしているのが特徴です。

神皇正統記は北朝に対する南朝の正統性を説く為に執筆したともされています。

因みに、北畠親房の神皇正統記の説では、仁徳天皇の子孫は現在の武烈天皇で終わっており、正統から外れる事になります。

他にも、皇位継承において三種の神器を重視するのも特徴の一つです。

北畠親房は武士を見下していたともされていますが、神皇正統記では源頼朝や北条泰時を高く評価しており、決して武士を見下していたわけではない事も分かります。

さらに言えば、後鳥羽上皇には低い評価を与えています。

北畠親房は幕府に対し、主権を犯さず天皇に対して従順であれば存在を否定しないとする見解を示しました。

北畠親房は「幕府」や「武士」であっても全否定する様な人物ではありません。

北畠親房は常陸合戦で執筆を始めましたが、出来上がったものに納得がいかず、吉野に帰ってから修正した話もあります。

准大臣宣下の噂

南北朝時代が終わった1425年の話なのですが、従一位大納言広橋兼宜が出家しましたが、それに先立ち准大臣宣下が成されました。

これを聞いて激怒したのが、日野資教であり「長老である私が官位において広橋兼宜に超越されるのは老後の屈辱」と後小松上皇に猛抗議しています。

この時に中山定親は北畠親房が出家した後に、准大臣になったとする噂を掲載しています。

今の話は薩戒記に書かれている話ですが、実際の資料を確認してみると北畠親房に准大臣宣下があった形跡はなく、単なる噂に過ぎなかった様です。

宗玄から覚空へ

吉野に戻ってからの北畠親房は法名を宗玄人から覚空に変更しています。

宗玄は禅宗の法名ですが、覚空は真言宗の法名です。

さらに、北畠親房は吉野で暮らすようになってから真言内証義を著しており、真言宗に傾倒していたとも考えられています。

吉野に戻ってからの北畠親房は何かしらの変化があったとされています。

北畠親房と楠木正行

当時の南朝では室町幕府との和平派と強硬派で分裂していました。

北畠親房が吉野に戻った事で、強硬派が優勢になり楠木正行の挙兵に繋がったともされています。

楠木正行は藤井寺合戦で細川顕氏を破り、住吉合戦では山名時氏を破るなど室町幕府を震撼させました。

しかし、高師直との四条畷の戦いでは大敗北を喫し世を去っています。

高師直は吉野に攻撃を加え、南朝は本拠地を賀名生にまで移しています。

北畠親房が和平派と強硬派を纏め上げて、楠木正行に挙兵させたとも言われていますが、結果として上手くは行きませんでした。

正平一統

北畠親房の戦略

南朝は高師直により滅亡寸前に追い込まれますが、室町幕府の内部抗争である観応の擾乱により延命する事になります。

足利直義は高師直により失脚しますが、足利尊氏と高師直が九州の足利直冬討伐に出陣した隙に挙兵しました。

この時に、足利直義は南朝への降伏を申し出ています。

足利直義の南朝への降伏は、南朝の朝廷においても当然ながら激論が繰り返されました。

強硬派の筆頭が洞院実世であり、中先代乱の後に帰京しようとする足利尊氏を止めた話しや、罪人になっていたとはいえ護良親王を殺害した事などを問題視しました。

洞院実世は尊氏よりも直義の方が憎むべき相手だとし、直義の降伏を受けるべきではないと強硬に反対したわけです。

実際の所として後村上天皇も後醍醐天皇の理想を受け継いだ形となっており、強硬派だったともされています。

北畠親房は臨機応変に対応すべきと考えていた様であり、直義との和睦に応じて朝廷を一つに統一するべきだと説きました。

南北に分かれた朝廷を一つにする考えは、楠木正儀とも一致しています。

楠木正儀は南朝において和平派に位置づけられています。

北畠親房は直義と結び、尊氏を攻撃した方が得策だと考えたわけです。

南朝での激論は北畠親房の意見が採用され、足利直義は南朝に降伏しました。

多くの武士が南朝支持を鮮明にした事で、足利直義は打出浜の戦いで足利尊氏と高師直を破る事になります。

北畠親房と足利直義の論争

足利直義は南朝との交渉に入りますが、房玄法印記によると南朝に銭一万疋の大金を献上したと書かれています。

直義は何としても南北合一を成し遂げようと考えたのでしょう。

さらに、和平に熱心だったのが楠木正儀であり、楠木正儀は南朝側の使者として双方の連絡役も行いました。

北畠親房を筆頭とする南朝首脳部と直義の交渉は、非常に高度で格式が高い議論であり、高く評価されています。

北畠親房と足利直義の激論によれば内乱の原因が、国家体制の見解の相違と所領問題にあると結論付けたわけです。

当時の北朝と南朝の考えでは天皇親政か幕府主権かで分かれており、さらに恩賞問題があった事を的確に見抜いていました。

ただし、北畠親房の主張はあくまでも南朝による独占的な支配であり、足利直義は南朝皇統の維持だけを保証する内容であり、合意が難しい状態だったわけです。

五カ月に及ぶ交渉が成されましたが、国家体制にしても所領問題にしても両者の隔たりが大きく、合意には至らず決裂しています。

直義が提出した内容を見た北畠親房は一方的に拒絶し、直義の文書を後村上天皇に取り次ぐ事さえせず、直義に突き返した話もあります。

この時の北畠親房の態度は無礼過ぎるなどと批判される事もあります。

尚、交渉の決裂を決断した南朝首脳部に激怒したのが、和平派の楠木正儀であり、北畠親房が反対した事で講和が成立しなかった事を怒り、幕府に対し「幕府方に寝返るから大将を派遣して欲しい」と幕府に申し出ています。

この時は実行には移しませんでしたが、激怒した楠木正儀が幕府に寝返り吉野を攻撃しようとした事になるでしょう。

因みに、北畠親房と激論を交わした足利直義は、力を使い果たし、ここから先は無気力状態だったのではないかともされています。

正平一統と准后

この後に足利尊氏と直義が再度敵対し、直義が関東に向かった事で、足利尊氏までも南朝に降伏しました。

これが正平一統です。

形式的には後村上天皇が京都を支配する形となりました。

足利尊氏は京都の守備を足利義詮に任せて、関東にいる足利直義を討つ事に成功しています。

正平一統を主導したのは北畠親房であり、後村上天皇は准后としました。

准后は公家衆では摂関家のみに許された称号でもあり、北畠親房は例外中の例外として准后になったと言えるでしょう。

それと同時に、後村上天皇が如何に北畠親房を信頼していたのかが分かる話でもあります。

正平一統の破棄

室町幕府の降伏により北朝は消滅しましたが、南朝の首脳部は観応の擾乱での苦し紛れの一手だと気が付いていました。

南朝の後村上天皇は楠木正儀や北畠顕能らと共に軍を北上させ、京都を襲撃する事になります。

京都にいた足利義詮は狼狽し、北朝の皇族を置き去りにしたまま近江に避難しています。

足利義詮は佐々木道誉らと共に、直ぐに京都奪還に動いた事で後村上天皇は賀名生まで避難しました。

この時の北畠親房は在京していましたが、賀名生に戻る事になります。

足利義詮は三種の神器も上皇もいない状態で、後光厳天皇を即位させ北朝が復活しました。

北畠親房の最後

北畠親房が主導する南朝は1353年にも、北上し京都を奪還しますが、短期間で奪い返されています。

この後の北畠親房が何をしていたのかはイマイチ分からず、文和三年(1354年)に賀名生で亡くなったと考えられています。

ただし、隠居したなども説もある状態です。

北畠親房は南北朝時代の動乱期に、東国から近畿を転戦し各地で戦ったと言えるでしょう。

北畠親房の動画

北畠親房のゆっくり解説動画です。

この記事及び動画は南北朝武将列伝、南朝の真実 忠臣という幻想、南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝までをベースに作成しました。

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