季雍は正史三国志の注釈・九州春秋に登場する人物です。
残念ながら正史三国志の本文や三国志演義に季雍は登場しません。
季雍が裏切った事を知った袁紹は朱霊に討伐を命じています。
朱霊が討伐にやってくると、季雍は朱霊の家族を人質に取りました。
しかし、朱霊は家族よりも任務を大事にする人であり、季雍を攻撃し撃破しています。
それを考えれば季雍の人質作戦は失敗したと言えるでしょう。
鄃県で背く
先にも述べましたが、季雍の名前が登場するのは正史三国志の徐晃伝の注釈・九州春秋のみです。
九州春秋によると季雍は鄃県で袁紹に背いたとあります。
鄃県で反旗を翻した季雍は公孫瓚に降伏しました。
公孫瓚は降伏した季雍を守るために兵を派遣しています。
袁紹は朱霊を派遣し季雍討伐に向かわせました。
季雍が袁紹から離反し、公孫瓚に味方したのが何年なのかは記載がありません。
しかし、193年には朱霊が曹操の配下になった事を考えると、少なくとも193年よりも前という事になります。
さらに、袁紹は反董卓連合の盟主でしたが、董卓が長安遷都後に連合は瓦解し、袁紹は名があっても実が無く兵を養うのにも事欠く始末でした。
袁紹は後に韓馥から冀州を譲り受けますが、逢紀の策で公孫瓚の不興を買った事実もあります。
それを考えれば季雍が乱を起こしたのは、袁紹が韓馥から領土を得た191年頃だった事でしょう。
191年の界橋の戦いよりも前の状態では、袁紹よりも公孫瓚の方が優勢だったわけです。
朱霊の涙
朱霊は鄃県に向かいますが、季雍が籠る鄃県には朱霊の家族もいました。
九州春秋に「公孫瓚が朱霊の家族を連れて来た」とする記載があり、公孫瓚は朱霊が袁紹軍の大将だと知ると朱霊の家族を捕えて鄃県に送ったとも考えられるはずです。
これにより季雍は朱霊の家族という人質を得ました。
季雍は朱霊の家族を城壁の上にやり朱霊に味方になる様に呼び掛けました。
朱霊と季雍は顔なじみでもあった様に感じています。
しかし、朱霊は涙を流し季雍に味方する事を拒絶しました。
朱霊は果敢に城攻めをし、季雍は捕らえられる事になります。
これにより季雍の乱は終結しました。
朱霊の捕虜になった季雍が、この後にどうなったのかは記録がなく分かっていません。
しかし、季雍は朱霊の家族を全て処刑してしまった様であり、この後に登場しない事から、鄃県が陥落し捕虜となった時点で処刑された様に感じています。
尚、季雍を倒した朱霊は袁紹から曹操に主君を変えますが、曹操陣営の将軍として多くの功績を残す事になります。