室町時代

光厳天皇は二度の苦難を味わった

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前光厳天皇
別名光厳上皇、光厳法皇、量仁親王、
勝光智、正慶皇帝、持明院上皇、小倉法皇、持明院法皇
伏見大法皇、無範和尚など
生没年1313年ー1364年
時代南北朝時代
一族父:後伏見天皇 母:西園寺寧子
兄弟:珣子内親王、景仁親王、豊仁親王(光明天皇)
子:光子内親王、崇光天皇、後光厳天皇、義仁親王、尊朝入道親王
年表1333年 六波羅探題の滅亡
1351年 正平一統
コメント2度の地獄を見た天皇

光厳天皇は持明院統の皇族の一人で、後伏見天皇の子でもあります。

光厳天皇は伯父の花園上皇から多くの事を学びました。

後醍醐天皇が元弘の変を起こすと、光厳天皇は鎌倉幕府の働きかけにより天皇として即位しました。

しかし、後醍醐天皇は倒幕を諦めておらず、護良親王楠木正成が乱を起こし、足利尊氏が後醍醐方に寝返ると京都は危機的な状況となります。

足利尊氏により六波羅館が落とされると、光厳天皇らは東国を目指しますが、ここで六波羅探題の集団自決という悲惨な光景を目の当たりにしました。

鎌倉幕府が滅亡すると天皇の位を廃されてしまいますが、足利尊氏が室町幕府を開くと弟の光明天皇が即位し、光厳上皇は治天に君となります。

しかし、観応の擾乱が勃発し室町幕府が南朝に降伏し、正平一統が破棄されると足利義詮が逃亡した事で、南朝の捕虜となりました。

室町幕府は北朝を再建させますが、後光厳天皇を即位させた事で、光厳上皇は宙に浮く存在となっています。

後に京都に帰還しますが、公家などを近づけず隠棲生活を送り最後を迎えました。

光厳天皇は松井優征先生が描く「逃げ上手の若君」にも登場し「足利の傀儡に思われがちだが、政治に熱心で民にも慕われた賢君だった」と評価されています。

尚、光厳天皇の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

光厳天皇の誕生

光厳天皇は正和二年(1313年)に誕生した事が分かっています。

父親は後伏見上皇であり、母親は西園寺寧子です。

当時は両統迭立の時代で花園天皇の御世でもありました。

しかし、花園天皇には後継者がおらず、持明院統にとっては待ちに待った皇子が光厳天皇(量仁親王)だったわけです。

光厳天皇の後継者になる光明天皇(豊仁親王)も後伏見天皇と西園寺寧子の子です。

小さい頃の光厳天皇は犬を可愛がった話があります。

帝王学を学ぶ

大覚寺統の攻勢により、1318年に花園天皇は後醍醐天皇に譲位しました。

これにより治天の君が後宇多上皇、践祚した天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王となり、全て大覚寺統に抑えられてしまったわけです。

持明院統では、辛うじて量仁親王が邦良親王の皇太子になる事が決まりましたが、危機的な状況だったと言えるでしょう。

持明院統では成り行きによっては皇位継承が出来ない可能性もあり、一家総出で量仁親王に帝王学を学ばせる事になります。

花園天皇は当代随一の学者と呼ばれた人物であり、量仁親王の学問の師となりました。

さらに、持明院統では後深草天皇の時代より琵琶を習得するのが慣例となっており、後伏見上皇が量仁親王に琵琶を授けています。

他にも、永福門院が和歌を教え、広義門院、西園寺兼季、菅原在高、菅原家高らも師となり帝王学を授けました。

量仁親王を一人前の天皇にすると言うのは、持明院統の一大事業でもあったわけです。

尚、1326年に後醍醐天皇の後継者であった邦良親王が亡くなっており、鎌倉幕府に意向により量仁親王が皇太子となりました。

後醍醐天皇が退位すれば、量仁親王が天皇に即位する事が可能であり、1326年の段階では量仁親王は践祚まであと一歩の段階まで来ていたわけです。

1324年に正中の変が勃発し後醍醐天皇が鎌倉幕府より疑われた事件が発生しており、持明院統が画策したとする説もありますが、この時の量仁親王は、まだ子供であり正中の変とは無関係だった事でしょう。

量仁親王と花園上皇

花園上皇の夢

ある日、花園上皇は夢を見ました。

夢の中で花園上皇は観音像を持った仏師と語り合い「親王(量仁親王)は民を思いやる心を持っており、学問にも精通し賢さを身に付けたら、ますますの賢王になるだろう」と聞かされたと言います。

花園上皇は北野天神を深く信仰しており、醍醐天皇の治世を支えた北野天神が量仁親王の行く末を保証してくれたと多いの喜んだはずです。

花園上皇と量仁親王は人間的にも馬があったのでしょう。

誡太子書

元徳二年(1330年)に量仁親王は元服しました。

花園天皇は誡太子書と題する文書で、次の様に量仁親王に対し述べています。

※戎光祥出版 室町・戦国天皇列伝からの引用

「今日・大乱は起こっていないが、その兆しはすでに現れている。

太子(量仁)即位の頃には、天下が衰乱するだろう。乱れた国を治めるには、ただ詩書礼学を身につけることだ。

ただし、ただ詩をうまく作り、または議論にふけることは天子の務めではない。

よい政事を行うため学問を修めることこそが大切なのだ」

花園天皇は量仁親王に天皇としてあるべき姿を伝えました。

光厳天皇にとって花園上皇は人生の師のような存在だったのでしょう。

光厳天皇の即位

1331年に後醍醐天皇が護良親王楠木正成と共謀し、笠置山で挙兵しました。

倒幕の狼煙を後醍醐天皇が挙げた事で、量仁親王の践祚が早まる事になります。

元弘の乱で量仁親王は六波羅探題に避難していましたが、二条良基の計らいもあり、光厳天皇として即位しました。

後醍醐天皇はいませんでしたが、後伏見上皇の詔が践祚の正統性になっています。

ただし、後醍醐天皇が三種の神器を持ち去った事もあり、三種の神器なしでの践祚でしたが、後に三種の神器は返還されました。

三種の神器を返還しない後醍醐天皇に対し、鎌倉幕府は日野資名を派遣し交渉に当たらせた話も残っています。

光厳天皇ですが、鎌倉幕府の意向により誕生した天皇だとみる事も出来ます。

笠置山の戦いで敗れた後醍醐天皇は宗良親王北畠具行らと共に、捕虜となり千種忠顕や阿野廉子らと共に隠岐に配流されました。

しかし、後醍醐天皇は諦めてはおらず、護良親王や楠木正成も行方を晦まし倒幕の機会を伺う事になります。

後醍醐天皇は承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇の様にはならなかったわけです。

大嘗会

元弘の変が勃発した翌年に、光厳天皇は即位式及び大嘗会が開催されました。

大嘗会は天皇が即位する時に行われる皇室の伝統行事でもあります。

花園上皇は光厳天皇の大嘗会を見守り、大嘗会御禊行幸の見物指図も描き残しています。

花園上皇は自らの日記で「兵乱があったのに大嘗会が盛会で成し遂げられたのは宗廟のお陰」と書き示しています。

量仁親王が無事に天皇になれたのは、教育係の花園上皇にとって大きな喜びでもあったはずです。

鎌倉幕府の滅亡

楠木正成の挙兵

1333年に突入すると早々と楠木正成護良親王が挙兵し、播磨では赤松円心が兵を挙げる事になります。

京中が不安となり二条道平の日記によると「六波羅探題が光厳天皇を関東に移す計画」まであった事も分かっています。

後伏見上皇や花園上皇も寺社に祈願を命じており、光厳天皇も不安になった事でしょう。

鎌倉幕府の中央では最初は大した事にならないと考えていましたが、楠木正成らが驚異的な粘りを見せる事になります。

幕府軍は楠木正成が籠城する千早城を落す事が出来ず、そうこうしている内に大番衆の新田義貞が本拠地の上野に戻り、後醍醐天皇は隠岐を脱出しました。

隠岐を脱出した後醍醐天皇は名和長年に迎え入れられ、船上山の戦いで佐々木清高に勝利しました。

後醍醐天皇が隠岐を脱出した事で反幕府軍は勢いづき寝返る者も続出する事になります。

こうした中で光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らは皇族や廷臣らと共に六波羅館に避難する事になります。

戦場の衝撃

鎌倉幕府の最高責任者である北条高時は、名越高家と足利尊氏を近畿への援軍に派遣しました。

名越高家と足利尊氏は後醍醐天皇を捕虜にすべく船上山を目指しますが、名越高家は赤松円心により呆気なく討ち取られています。

さらに、足利尊氏は朝廷軍に寝返り、六波羅探題を滅ぼすべく京都に進軍してきました。

増鏡によると、この時の光厳天皇、康仁親王、後伏見上皇、花園上皇らは味わった事のない恐怖を得た話があります。

当然ながら光厳天皇及び皇族たちは戦争の経験がなく、恐怖を味わったのでしょう。

梅松論によれば細川和氏が「普通に攻撃しては大きな損害が出る」と述べ、包囲網の一角を開けておくように進言した話があります。

太平記では包囲網の一角を開けた事で、多くの武士が六波羅館から逃げ去ってしまった話があります。

六波羅探題の決断

六波羅探題は二人制が採用されており、最高責任者は北条仲時と北条時益でした。

幕府軍に囲まれた光厳天皇ら皇族たちは方針を北条仲時と時益に託す事になります。

北条仲時と北条時益は「武士は都で討死するのが本望」としながらも、光厳天皇ら皇族に気を遣い洛中への脱出を試みる事になります。

六波羅探題の方針としては洛中を脱出し、鎌倉幕府からの援軍を待つなり、鎌倉まで逃げ延びるなど考えたわけです。

取りあえず洛中を脱出し、情報を集めながら臨機応変に対応するつもりだったのでしょう。

光厳天皇が負傷

六波羅探題の役人らと共に、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らは京都を脱出し近江を目指しました。

光厳天皇に北条仲時、北条時益、糟屋宗秋ら、が従う事になります。

しかし、早々と六波羅探題の長官の一人である北条時益が命を落とす事態となります。

さらに、四宮河原を通過し逢坂の関の手前で休憩を取っている時に、流れ矢があり光厳天皇に左肘に直撃しました。

この時に、陶山備中守が矢を抜き手当を行い難を逃れる事になります。

光厳天皇自身が負傷しており、苦難の旅路だった事が分かるはずです。

光厳天皇の一行は前に進みますが、5百人ほどの野伏に道を塞がれてしまいました。

ここでは中吉弥八が機転を利かせ野伏に嘘をついた事で、光厳天皇の一行は篠原に到着する事になります。

ただし、この時点で傷を負うなどし離脱した者も多くいた事が分かっています。

六波羅探題官人の集団自決

光厳天皇の一行は近江の番場宿に辿り着く事になります。

この時点で北条仲時を大将とする軍勢は、700にまで兵士が減っていたと言われています。

さらに、六波羅探題が滅びたとする情報が各地に流れ、多くの落武者狩りが現れたわけです。

近江の佐々木道誉も後醍醐天皇に味方し、軍勢を動員するなど六波羅勢は危機的な状況にありました。

糟屋宗秋が奮戦する場面もありましたが、大軍に道は塞がれ後軍を任せていた佐々木時信も京都に戻り降伏しています。

梅松論によると、光厳天皇に従った武士たちは「もう逃れる事が出来ない。院を害した後に自害すべきである」と述べました。

つまり、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を殺害した後に、六波羅探題の被官たちが自害すべきだと述べた事になります。

武士たちは皇族を敵に奪われるのは「恥辱」と考え、自害させようとしたのでしょう。

しかし、北条仲時は「我らが生き延び敵に皇族を奪われるのが恥辱であり、我らは命を捨てて後は残された者達に託すべきだ」と諭しました。

北条仲時、佐々木清高、糟屋宗秋ら数百人が自害する事になります。

飯倉晴武氏は六波羅探題集団自決と光厳天皇に関して、次の様に述べています。

※地獄を二度も見た天皇光厳院 (歴史文化ライブラリー 147)より

歴代天皇の中で戦乱に会った人は何人もいたが、ならず者のような反乱軍に包囲され、いままで護衛して来た何百人もの武士が目の前でつぎつぎと切腹する場におかれた天皇は光厳天皇だけである。

当然ながら後伏見上皇や花園上皇も歴代上皇が見た事もない光景を目にした事になるでしょう。

さらに、一歩間違えれば自分達も命を落としていた状況です。

尚、光厳天皇らは足利尊氏の裏切りにより悲劇を生む結果になったとも言えるでしょう。

しかし、後年に光厳天皇は足利尊氏により再び地獄を見る事になります。

光厳天皇の退位

近江国太平護国寺に光厳天皇らは幽閉されました。

元弘の変の勝者である後醍醐天皇は証書により、光厳天皇を退位させています。

退位した光厳上皇、後伏見上皇、花園上皇は京都に戻る事になります。

この時に付き従ったのは、勧修寺経顕と六条有光の二人だけであり、粗末な輿に乗り嘲笑を浮かべる兵士に囲まれた行列で帰京したと伝わっています。

光厳上皇の帰京に対しては嘲笑するものもいれば、同情する者もおり多くの見物人を集めました。

さらに、新田義貞が北条高時を自害に追い込み、鎌倉幕府の滅亡を耳にした事でしょう。

ただし、後醍醐天皇は持明院統を潰すつもりもなく、後伏見法王と西園寺寧子の子である珣子内親王を皇后とし、皇子の誕生を望みました。

後醍醐天皇は自らの子に皇位継承を行わせるつもりでしたが、持明院統にも気を遣い珣子内親王の子を皇太子にしたかったのでしょう。

しかし、珣子内親王は男子を生む事がありませんでした。

光厳天皇の院宣

後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、倒幕の大功労者である護良親王との関係が上手くいかなくなり、足利尊氏北条時行による中先代の乱が終わると建武政権から離脱しました。

足利尊氏は楠木正成新田義貞北畠顕家らと交戦しますが、九州に落ち延びています。

足利尊氏は多々良浜の戦い菊池武敏を破り勢力を挽回させますが、大義名分が必要だったわけです。

九州に落ち延びる時に赤松円心が足利尊氏に入れ知恵をしており、持明院統の光厳上皇に目を付けました。

足利尊氏は光厳天皇ら持明院統の皇族を擁立し「錦の御旗」を掲げる建武政権に対抗しようとしました。

こうした動きに対し光厳上皇は、三宝院賢俊の働きもあり、新田義貞追討の院宣を発行する事になります。

光厳上皇が六波羅探題の滅亡で自らに地獄を見せた足利尊氏を助けたのかは不明ですが、花園上皇に教わった帝王学を実践したかった説や、持明院統には「軍事は武士に任せる」という風潮が強くあり、足利尊氏に味方したなどの説もあります。

足利尊氏は光厳天皇の院宣を獲得した上で、権威を利用し軍勢催促を多く行い武士たちの求心力を集めました。

足利尊氏が上洛軍を起こし湊川の戦いで大勝し、後に比叡山に籠った後醍醐天皇と和睦しています。

和睦したといっても実際には後醍醐天皇の降伏でもあり、建武政権は崩壊したと言えるでしょう。

建武式目も制定され室町幕府が発足される事になります。

治天の君

光厳上皇の弟の豊仁親王が践祚し光明天皇として即位しました。

治天の君は光厳上皇となります。

ただし、足利尊氏は後醍醐天皇を崇拝していたともされており、皇太子には後醍醐天皇の皇子である成良親王に決定しました。

仮に成良親王が天皇になった場合は、後醍醐天皇が治天の君となる予定でしたが、後醍醐天皇は満足せず吉野に出奔し南朝を開く事になります。

これにより光厳上皇を治天の君とし、室町幕府が実権を握る北朝と後醍醐天皇の南朝が出来た事となり、南北朝時代が始まりました。

北朝では足利尊氏を征夷大将軍としました。

光厳上皇は院政を布き定期的に評定も行っており、雑訴にも向き合うなど精力的に活動しています。

光厳上皇の牛車襲撃事件

康永元年(1342年)に美濃国の守護である土岐頼遠が、酒に酔い光厳上皇の牛車に弓を射て襲撃する事件を起こしています。

この時に土岐頼遠は「院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と述べ、光厳上皇を罵りました。

院と犬というのは、光厳上皇が幼き日に犬を可愛がっていた事を痛烈に皮肉ったともされています。

土岐頼遠は事件の重大さに気付き逃亡しますが、最終的には出頭する覚悟を固めました。

足利直義北朝治天の君である光厳上皇への狼藉を許す事が出来ず、土岐頼遠を誅殺しました。

尚、光厳上皇と足利直義はお互いを信頼しあっていた話もあります。

足利直義は支配構造をよく理解しており、室町幕府は北朝の軍隊になる事で正統性を見出せる事を知っていましたが、武士の中には理解できておらず、皇族に対し反発していた者も多かった証なのでしょう。

光厳上皇の受衣

幕府では後醍醐天皇の慰霊の為に天龍寺を建立しますが、光厳上皇は夢窓疎石を開山に指名しました。

夢窓疎石は足利尊氏や直義からも信頼が厚かった僧です。

こうした中で光厳上皇は夢窓疎石から、受衣の儀礼を受ける事になります。

光厳上皇は夢窓疎石に対し弟子の礼を取りましたが、出家したわけではなく、光厳院政を続ける事になります。

受衣の儀式だけであれば出家する必要もなく、剃髪する必要もありません。

尚、夢窓疎石を後醍醐天皇や光明天皇なども師と仰いだ話が残っています。

光厳上皇は北朝の治天の君であり、足利尊氏や直義に気を遣った結果として、受衣したと考えられています。

足利尊氏とも関係が深い夢窓疎石の元で受衣する事で、持明院統と室町幕府との間で一体感を創り出そうとしたとみる事が出来ます。

後年に光厳上皇は光明天皇や母親の広義門院(西園寺寧子)らと共に、再び夢窓疎石から受衣されました。

花園上皇の死

高師直楠木正行を破ると幕府内では、足利直義と高師直の対立が激しくなりました。

こうした中で北朝では崇光天皇が即位する事になります。

この時期に光厳天皇の師とも言える花園上皇が世を去りました。

光厳天皇は花園上皇の死を悲しみ盛大に葬儀を行いたかったようですが、実際には簡略化したものとなりました。

ただし、光厳天皇は花園天皇の子である直仁親王を「自らの子」だと宣言し、崇光天皇の皇太子として定めています。

観応の擾乱と北朝消滅

室町幕府が南朝に降伏

観応の擾乱が勃発すると、高師直との対立により足利直義が南朝に降る事件が勃発しています。

足利直義は保守的な人物であり、北朝を守るべき存在であった事から、光厳上皇ら皇族に暗雲が立ち込める事になります。

足利直義は高師直を滅ぼしますが、今度は足利尊氏義詮との対立に発展しました。

こうした中で足利直義は関東に移り、足利尊氏は後顧の憂いを断つために南朝に降伏する事になります。

室町幕府が南朝に降伏してしまった事で、南朝の四条隆資と洞院実世らが上洛し実務作業が行われ、北朝は消滅し後村上天皇は三種の神器を没収しました。

崇光天皇も廃位に追い込まれています。

これが正平一統と呼ばれている出来事です。

正平一統の裏を返せば、足利尊氏及び足利義詮が光厳天皇ら北朝を見捨てた事になるでしょう。

2度目の地獄行き

足利尊氏は関東で足利直義を破り観応の擾乱を終わらせますが、後村上天皇や北畠親房らは室町幕府の降伏が本心ではない事を悟っていました。

こうした事情もあり、南朝では楠木正儀らにより京都を攻撃させました。

足利義詮は皇族を置き去りにしたまま逃亡し、光厳天皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王らが南朝の捕虜となります。

これにより光厳院政も完全に終わりました。

後に足利義詮は逆襲し八幡の戦いで南朝の軍を破りますが、南朝の後村上天皇らは三上皇及び直仁親王を拉致しました。

一度目の地獄は足利尊氏による六波羅探題攻撃であり、二度目の地獄は足利尊氏の南朝への降伏だったと言えるでしょう。

光厳天皇は足利尊氏により、二度の地獄を見せられた事になります。

後光厳天皇の誕生

室町幕府は北朝の軍隊としての位置づけでしたが、光厳天皇らが南朝に拉致されてしまうと、存在が宙に浮く事になります。

足利義詮は佐々木道誉の進言もあり、残された北朝皇族で光厳天皇の子である弥仁王を即位させました。

治天の君である光厳上皇が不在であった事から、光厳天皇の母親である広義門院に天皇に指名させています。

これにより後光厳天皇が誕生し、北朝が復活しました。

後光厳天皇は上皇も三種の神器もない状態での即位であり、正統性の面で疑問を持たれている状態です。

尚、足利義詮が後光厳天皇を無理やり即位させた事で、北朝では後に後光厳流と崇光流の対立を生む事になります。

賀名生での苦しい生活

賀名生に連れ去られた光厳天皇ですが、1352年に出家した事が分かっています。

洞院公賢の日記である園太暦によると「突発的な事なのか、南朝を欺く為なのか、よく分からない」と書いてあり真意は不明です。

室町幕府では後光厳天皇を即位させると、光厳上皇らを取り返そうともせず、南朝の方でも財力の不足から冷遇する事になりました。

権威だけの存在とはいえ、京都で暮らしてきた光厳天皇らにとってみれば、辛く苦しい生活だったとも考えられています。

文和三年(1354年)になると、光厳法皇、光明法皇、崇光上皇らは金剛寺の行宮に移される事になりました。

河内の金剛寺であれば山奥にある賀名生に比べると、過ごしやすくなったのではないかとされています。

世俗との決別

1356年になると、光厳法皇は孤峰覚明から受衣した事が分かっています。

孤峰覚明は南朝専属の禅僧であり、後醍醐天皇や後村上天皇に受衣した禅僧でもあります。

ここから先の黒染めの衣を着る禅僧(黒衣の僧)として、光厳法皇は生きる事になります。

光厳法皇が孤峰覚明から受衣したのは、南朝に囚われの身になっていたからだともされていますが、受衣の直前に嫡子の崇光上皇に持明院統嫡流のシンボルとも言える琵琶の秘曲を全て授けました。

こうした事情から、光厳天皇の三度目の受衣は世俗との決別の意味があったのではないかとされています。

尚、京都にいる後光厳天皇は足利尊氏死後の1363年に夢窓疎石の弟子である春屋妙葩から受衣しており、楽器も持明院統の伝統がある琵琶ではなく、足利尊氏と同様に豊原龍秋から笙を学んでいます。

光厳法皇の京都帰還

晩年の足利尊氏北朝の皇族が京都に戻れる様に働きかけており、光厳法皇も1357年に河内の金剛寺から深草金剛寿院に戻りました。

光厳法皇は五年ぶりに京都に戻ったと言えるでしょう。

京都に戻った光厳法皇は公家衆らを距離を取り、伏見殿で中巌円月の講義を受けたりしています。

光厳法皇が京都に戻って暫くすると母親の広義門院も世を去りました。

この時には既に夢窓疎石も亡くなっており、光明法皇と共に七回忌の追善を祈りました。

光厳法皇は嵯峨小倉を住居とし、洞院公賢からは「小倉法皇」とも呼ばれています。

光厳法皇と後村上天皇

光厳法皇の旅路

太平記によると伏見に隠棲していた光厳法皇が順覚なる僧を一人連れて旅に出た話があります。

ただし、法隆寺の斑鳩嘉元記には光厳法皇が馬に乗り、法隆寺に参詣し、共の者は十数人いたとあります。

実際のところ北朝の治天の君までした国父とも言うべき、光厳天皇の共が一人というのは信じがたく、法隆寺の記録の方が現実味があると言えるでしょう。

ただし、当時の光厳天皇の心情としては、共は一人で旅に出たかったと思った可能性もあります。

光厳法皇は摂津に行き金剛山に入り、紀ノ川(和歌山県)では、無法者の武士に橋から突き落とされたりもしました。

その武士は後に後悔し、光厳法皇の弟子になりたいと志願しますが、光厳天皇は断りました。

その後に高野山に行き後村上天皇がいる吉野に向かう事になります。

後村上天皇との面会

光厳法皇は吉野で後村上天皇と多くの話を交わしたと言います。

後村上天皇が禅の修行をしている意味を問うと、近江番場での六波羅探題の滅亡の話や吉野に幽閉された話を涙を流ししたとあります。

六波羅探題の集団自決や吉野での幽閉生活は辛いものであり、室町幕府により無理やり君主にされてしまった事などを話します。

光厳法皇は奥深い山中に住み雲を友とし、松を隣人とし心健やかに人生を終わりにしたい念じていたと言います。

こうした事もあり出家し、今の生活をしていると告げました。

光厳法皇と後村上天皇の面会が終わると、後村上天皇は光厳法皇の為に馬を用意しますが、光厳天皇は断り草鞋を履き皇居を後にする事になります。

途中で幽閉生活の時に暮らした小屋を見つけますが「今ならば心安からに住めたはずだ」と述べています。

光厳法皇の最後

光厳法皇は京都の北にある丹波国山国荘に入り、成就寺を常照寺に改名し、自ら開山になり禅院生活をしたとあります。

自らを無範和尚と名乗り、隠遁生活をし女房衆にも暇を与えた話があります。

四条隆蔭が病に掛かり出家すると、自らが戒師となりました。

こうした中で1364年に光厳法皇は崩御する事になります。

崩御の前に光厳天皇は葬儀は派手な事を行う必要はなく、山中に埋葬してくれればよいとしました。

光厳法皇は自然豊かな場所で眠りたいと考えますが、人に迷惑が掛かる様であれば火葬でも構わないとしています。

この辺りは光厳法皇の人柄が出ていると言えるでしょう。

光厳天皇の動画

光厳天皇のゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は室町・戦国天皇列伝(戎光祥出版)、地獄を二度も見た天皇光厳院(吉川弘文館)をベースに作成してあります。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細