皇甫酈は涼州安定郡の人であり、正史三国志や後漢書に名前が見える人物です。
皇甫酈は「こうほれき」と読まれる事もあれば、「こうほり」と読まれる事もあります。
皇甫酈は皇甫嵩の一族であり、朝廷の命令に従わない董卓を処刑しようと進言した話もあり、剛毅な性格を伺う事が出来ます。
董卓亡き後に、李傕と郭汜が争う様になると、献帝は皇甫酈を仲裁の使者として派遣しました。
皇甫酈の仲裁は失敗に終わりますが、皇甫酈が直線的な性格をしていた事が、分かる逸話となっています。
今回は皇甫嵩の甥にあたる皇甫酈を解説します。
董卓を罰する様に進言
董卓は朝廷より并州牧に任命され、兵士を皇甫嵩に引き渡す様に命じられました。
しかし、董卓は兵士を手放したら権勢が消失すると考えたのか、引き渡しを拒んだわけです。
この時に、皇甫酈は次の様に皇甫嵩に進言しました。
皇甫酈「現在、天下の兵権を握っているのは大人(皇甫嵩)と董卓だけです。
しかし、現在は仲違いしており、共存する事は出来ないでしょう。
董卓は詔勅を拒み上書しており、これは命令違反に当たります。
さらに董卓は都の混乱を利用し、軍を動かそうともしません。
董卓は叛逆の心を持っています。
大人は元帥なのですから、董卓を誅殺すべきです」
この時の董卓は皇甫嵩の配下におり、権限を使って董卓を処刑する様に、皇甫酈は進言したわけです。
皇甫酈は王国を討伐した時に、意見の違いから董卓が皇甫嵩を恨んでいる事を知っており、危機感を覚えたのでしょう。
しかし、皇甫嵩は「董卓を処罰するのは朝廷の仕事」だと思っていたのか、皇甫酈の意見を却下しています。
尚、皇甫酈の予言は的中し、後に董卓は少帝や献帝を押さえ権力を握ると、皇甫嵩を処刑しようと考えました。
ここでは、皇甫嵩の子である皇甫堅寿は董卓と仲が良く、涙を流し董卓を責めた事で周りも同情し、事なきを得る事になります。
李傕の説得に失敗
和睦に応じない李傕
192年に董卓が王允や呂布により殺害され、長安を急襲した涼州勢により、今度は王允が命を落し、呂布は関東に逃亡しました。
この時に皇甫嵩は既に入朝しており、皇甫酈も長安にいたのでしょう。
権力を握った李傕と郭汜が対立すると、献帝は皇甫酈に命じて、李傕と郭汜を和解させようとしました。
皇甫酈は謁者僕射であり、涼州の名門で使者として有能であると評価されていた事から、献帝は皇甫酈を使って李傕と郭汜を和解させようと考えたわけです。
皇甫酈が郭汜の元を訪れると、郭汜は和睦に応じています。
皇甫酈は李傕を説得しようとしますが、李傕は応じず次の様に述べました。
※献帝起居注より
李傕「儂は呂布討伐に功績があるし、帝の政治を補佐して4年になり、三輔地方は平穏が訪れた。
これを天下の人で知らぬ者はいない。
郭多(郭汜)は馬泥棒に過ぎない。
どうして馬泥棒の郭汜が堂々と位を受けねばならぬのか。
儂はあくまで郭汜の命を奪うつもりだし、其方(皇甫酈)は涼州の人間であるから、よく見ていて欲しい。
郭多は公卿たちを人質にしているし、やっている事が酷すぎる。
それに貴方が郭汜に利益を与えるつもりなら、儂にも考えがある」
李傕は皇甫酈の言葉に耳を貸さず、郭汜との和睦を望まなかったわけです。
李傕に理屈は通じない
李傕の言葉に対し、皇甫酈は后羿、董卓の例を出し説明し、張済、楊定などの動向も合わせて説得しようと試みました。
※献帝起居注より
皇甫酈「最近でも董太師(董卓)は強大であり、王公たちに内部を取り締まらせ、外は董旻、董承、董璜らが軍を指揮していました。
しかし、呂布が恩を仇で返し叛逆し、太師叛逆を企てると、短期間のうちに首は竿の先に吊り下げられたのです。
董太師がこうなってしまったのは、武勇があっても智謀が欠けていた事が原因となります。
現在の将軍(李傕)は上将の位にあり、鉞を手に節を杖つき、御子孫の方々は権力を握っておられます。
一族は天子の恩寵を受け、高官を占有なされています。
現在の郭多は公卿を人質としており、将軍は至尊を圧迫しておられるのです。
どちらの罪が重いと言えるでしょうか。
張済は郭多や楊定と共謀し、高官にも支持者がおり簡単に討ち取れるとは思えません。
楊奉は白波賊の頭目に過ぎませんが、それでも将軍の行為が正しくない事はわきまえているのです。
将軍が楊奉に恩を施しても、将軍の為に力を尽くすとは限らないでしょう」
皇甫酈は董卓の一族が後漢の高官を独占し、一族の董旻、董承、董璜らが兵権を持ち外を固めていたのに滅んだ状況が、現在の李傕の状況に似ていると説明したわけです。
さらに、張済、楊定、楊奉らが味方してくれるとは限らないから、郭汜との和睦が最適だと理屈で説明した事になります。
しかし、李傕は皇甫酈の話を聞くと激怒し、皇甫酈を怒鳴りつけて退出させました。
皇甫酈は李傕の説得に失敗したと言えるでしょう。
個人的な意見なのですが、李傕は李禎の話を見ても分かるような、単純な部分が多く見受けられます。
それを考えると、正論を告げるよりも戦時代の縦横家の蘇秦や張儀の様に、相手をもう少し持ち上げるような話を展開した方が良かったのではないか?と感じました。
長安を去る
皇甫酈は禁門まで行くと、李傕が詔勅に従わず、言葉は不敬であったと告げる事になります。
この時に侍中の胡邈は李傕に気に入られており、詔勅を取り次ぐ役人を呼び寄せました。
胡邈は李傕の不利にならない様に、詔勅の言葉を書き換えようとしたわけです。
この一件で皇甫酈と胡邈は言い争う事となります。
献帝は皇甫酈の言葉が李傕の耳に入る事を恐れ、逃亡する様に命令しました。
皇甫酈が営門から出た時に、李傕は王昌に命じて連れ戻す様に命令したわけです。
しかし、王昌は皇甫酈の人柄を知っており、皇甫酈を見逃した話があります。
皇甫酈は長安を去りましたが、これ以降の記録が無くどうなったのかは不明です。
尚、三国志演義では李傕が皇甫酈に激怒した後に、楊奉と賈詡が李傕を宥めますが、この後に献帝起居注の記述と同じように、胡邈と言い争いになります。
献帝はこの話を聞くと、皇甫酈を故郷の涼州に帰らせています。
ただし、三国志演義だと皇甫酈は涼州で、李傕の悪口を言いふらすなど、献帝起居注にも書かれていない事が記述されています。
三国志演義でも皇甫酈の記録は、ここで途絶えており、この後にどの様になったのかは不明です。