公孫恭は正史三国志や後漢書に名前がある人物で、幽州遼東郡襄平県の出身です。
公孫恭の父親は公孫度であり遼東に一代勢力を築く事になります。
公孫度の後継者には兄の公孫康となりますが、公孫康が亡くなると公孫恭に後継者の座が回ってきました。
遼東公孫氏の三代目が公孫恭となります。
公孫恭は遼東太守となりますが、後に甥である公孫淵に位を奪われています。
公孫恭は身体的な問題があり、それが元で公孫淵に位を奪われたと伝わっています。
今回は遼東太守となった公孫恭の解説をします。
尚、三国志演義では曹操に敗れた袁煕と袁尚の兄弟が遼東に逃げてきた時に、兄の公孫康に袁氏の兄弟の首を斬り曹操に届ける様に進言した話があります。
しかし、正史三国志には公孫恭が袁煕と袁尚の首を斬る様に進言した記録がなく、三国志演義の創作だと考えた方がよさそうです。
後継者となる
公孫恭の父親の公孫度は、董卓配下の徐栄に推挙され、遼東太守となります。
当時は天下が荒れており、混乱した世の中で公孫度は、遼東に独立勢力を築きました。
曹操が献帝を奉り朝廷を掌握した時には、永寧郷侯に封じられていますが、公孫度は印綬を倉庫にしまっており、野心があった事は明らかでしょう。
204年に公孫度が亡くなると、公孫恭の兄である公孫康が後継者となり、再び永寧郷侯に封じられています。
公孫康ですが、何年に没したのかの記録がなく不明ですが、公孫康が没すると公孫恭が後継者となりました。
公孫康には公孫晃、公孫淵という二人の子がいましたが、幼かった事から公孫恭が後継者となったわけです。
尚、公孫康の時代に曹操に敗れた袁煕と袁尚が逃亡して来た話があり、それを考えると公孫恭が即位したのは207年以降となります。
公孫恭がいる遼東は中央から離れており、中央の使者が来て任命される前に公孫恭は、遼東太守を名乗ってしまったとも言われています。
後に曹丕が皇帝に即位すると、公孫恭は車騎将軍・仮節となり平郭侯に封じられました。
公孫恭は車騎将軍にも任命されたという事は、立場上としては魏の高官で臣下となりますが、実質的には独立勢力だったとも言えます。
曹丕としても遠方にある遼東で、反乱を起こされても厄介なので、公孫恭を懐柔する為の施策だったのでしょう。
管寧の予言
西暦223年に魏の司徒をしていた華歆が、遼東出身の管寧を推挙しました。
華歆の推挙を受けた管寧は、都に向かう事になります。
この時に管寧は公孫恭が柔弱で、公孫康の庶子である公孫淵が活発な事を目にします。
管寧は次の様に述べた話があります。
※傅子より
管寧「嫡子を廃して庶子を立てると、下の者に異心が生じるものだ。
これが乱が起きる原因となる」
管寧は遼東で混乱が起こる事を予知し、遼東から離れる為に中央への招聘を受けたわけです。
公孫恭の兄の子は公孫晃と公孫淵がいましたが、公孫恭は公孫晃を可愛がっていた話もあります。
公孫恭、公孫晃、公孫淵を見て、管寧は乱が起こると予測したのでしょう。
管寧は賢人として名高い人であり、公孫恭は南の境まで送り衣服や器物を贈りました。
公孫恭は管寧に対し礼を尽くしますが、管寧にとってみれば複雑な気分だったのかも知れません。
尚、管寧は公孫度、公孫康、公孫恭から贈られた物は全て封をして、海を渡った所で返却した話があります。
管寧は遼東で混乱が起こると予測しており、公孫恭との関係は清算しておきたかったのかも知れません。
因みに、劉曄にも遼東の反乱を予測していた記述が存在します。
公孫淵に地位を奪われる
公孫恭は君主としての資質に欠けていた様であり、子が作れない様な体になっていたとあります。
公孫淵は成人すると、公孫恭を強迫し地位を奪いました。
当時の儒教的な思想では、子供を生んで家を栄えさせるのが立派な人物だとされていたわけです。
それを考えると公孫恭は、男性器の病気で子を作る事が出来ず、君主としての役割を果たさなかったとも考えらえます。
公孫恭の病気を理由に、公孫淵が位を剥奪してしまったとも言えるでしょう。
228年に公孫淵は公孫恭から遼東太守の位を奪ったのですが、魏の皇帝である曹叡も公孫淵が立つ事を認めました。
この辺りは、公孫恭が魏王家から見捨てられた様にも見れなくもありません。
曹叡にしてみれば、当時は諸葛亮の北伐があり、魏に忠誠を尽くしてくれるのであれば、公孫恭でも公孫淵でも問題はなかったのでしょう。
蜀の諸葛亮が北伐をしてくるのに、公孫淵を糾弾し反乱を起こされるも嫌だったはずです。
司馬懿に助けられる
公孫恭は公孫淵から軟禁状態とされます。
公孫淵は孫権と結んだかと思えば、再び魏に臣従を誓うなど背面外交を繰り返しました。
公孫淵は司馬懿に敗れますが、司馬懿は公孫恭の軟禁を解き解放した話があります。
しかし、これを最後に公孫恭の記録は途絶えており、どの様な最後を迎えたのかも不明です。