室町時代

楠木正成は伝説の戦上手

2024年9月27日

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宮下悠史

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名前楠木正成(くすのきまさしげ)
生没年1294年ー1336年
時代鎌倉時代→南北朝時代
一族父親:楠木正遠 子:正行、正時、正儀
主君後醍醐天皇
年表1331年 赤坂城の戦い
1333年 千早城の戦い
1336年 湊川の戦い
コメント後醍醐天皇を批判しながらも忠義を尽くした

楠木正成は後醍醐天皇に仕え巧みな戦術により倒幕を成し遂げた人物です。

南北朝時代の南朝の代表的な人でもあると言えるでしょう。

建武の新政が樹立されると楠木正成は後醍醐天皇を諫めますが、聞き入れられる事は無く、湊川の戦いでは玉砕戦法とも呼べる方法で敗れ亡くなっており、不屈の忠臣としても名を馳せています。

しかし、近年の研究では楠木正成の数多くの伝承は史実かどうか疑問視される様になり、本当に忠臣だったのかと言うのも疑問視されている状態です。

ただし、楠木正成は後醍醐天皇を批判しながらも足利尊氏に寝返るわけでもなく討死している事から、忠臣としてみる事も出来ます。

現在では皇居に楠木正成の銅像がある事でも知られており、皇室の守護神になったとも言えるでしょう。

今回は皇国史観において最大級の忠臣とされた楠木正成を解説します。

尚、楠木正成は活躍が多いと思うかも知れませんが、実際に歴史の表舞台で活躍したのは僅か5年ほどしかありません。

儚き英傑だとみる事も出来るはずです。

楠木正成のゆっくり解説動画(YouTube)も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

楠木正成の出自

楠木正成の出自は不明な部分が多いですが、太平記では継体天皇の孫である敏達天皇の家系で、聖武天皇などに仕えた橘諸兄を祖とするなどの話が伝わっています。

楠木正成の先祖が皇室に本当に繋がっているのかは不明としか言いようがないでしょう。

楠木正成の出自を解明する重要な手掛かりとして挙げられるのが、後光明照院関白記の次の言葉です。

※南北朝武将列伝南朝編240頁より

楠木の根っこは鎌倉に成っているのに、なぜわざわざ鎌倉幕府軍はその枝切りに機内へとのぼってくるのだろう。

上記の歌は楠木正成が千早城に籠城し寡兵で、幕府の大軍を翻弄した時の歌であり、正成が鎌倉幕府の関係者だと述べている事になります。

こうした事情もあり楠木一族が元は駿河の入江荘内楠木村を名字の地とする鎌倉幕府の得宗被官であり、北条氏の得宗領である河内の観心寺荘を管理する得宗代官として送り込まれたのではないかとも考えられています。

現在では楠木正成は河内国の千早赤坂で誕生した可能性が極めて高いと考えられています。

楠木正成は本当に悪党だったのか

悪党と言うのは商業などを生業とする鎌倉幕府に属さない武士を指します。

悪党は数多くの社会問題を引き起こした存在でもありました。

楠木正成も悪党だったのではないかと考えられている時代もありましたが、楠木氏が鎌倉幕府の得宗被官なら楠木正成も御家人だったとみる事が出来ます。

楠木正成が明確に悪党と呼ばれた話は1回しかないとされており、正確に言えば楠木正成を悪党とみなす事は出来ないはずです。

ただし、楠木正成は悪党と呼ばれる人々と多くの人脈形成をしていた事もわかっており、それらを考慮すれば悪党という見方も出来るはずです。

楠木正成が明確に悪党として行動していたのかは不明としか言いようがないでしょう。

因みに、楠木正成は悪党に限らず多くの人脈形成をした事で、後醍醐天皇と結びつく事が出来たとも考えられています。

楠木正成と後醍醐天皇の出会い

1331年の8月に後醍醐天皇は笠置山に籠城し鎌倉幕府の軍と戦う事になります。

太平記では笠置山で籠城をしている後醍醐天皇が夢の中で日光・月光菩薩の化身に示された「木」と「南」の言葉を「楠」と解釈しました。

後醍醐天皇は近隣に楠を名乗る武士はいないかと調べさせると河内国金剛山の麓に「楠多聞兵衛正成」なる者の存在を知る事になります。

後醍醐天皇は側近の万里小路藤房を介して楠木正成に計略を訪ねました。

楠木正成は「後醍醐天皇が天下人になるには武力と智謀の二つが必要だ」と述べます。

さらに「合戦では勝ち負けが当たり前の様に一度の勝負を重視せずに、例え負けたとしても正成が生きていれば天運は開けると思ってください」と伝えました。

太平記の楠木正成の言葉に嘘はなく後醍醐天皇は笠置山の戦いで敗れて隠岐に流されても倒幕は諦めず、楠木正成も寡兵でありながら智謀をフル活用し幕府軍を悩ませる事になります。

太平記では後醍醐天皇が夢で楠木正成の存在を知ると言う運命的な出会いになっていますが、近年の研究では既に後醍醐天皇は笠置山に籠城する前から、楠木正成の存在を知っていたと考えられています。

楠木正成が最初に一時資料で確認が出来るのが1332年の「悪党楠兵衛尉」の話であり、和泉国の臨川寺領若松荘に押妨したという風聞により、和泉国守護代が当地を差し押さえたとする事件が起きた時です。

押妨と言うのは他人の所領に入り乱暴したり不当な課税を取る事であり、楠木正成が悪党として確認出来る事件で、若松荘は後醍醐天皇が側近の道祐に与えてもいました。

悪党楠木正成事件の背景には道祐と楠木正成の繋がりがあったと考えられ、楠木正成と後醍醐天皇は道祐により既に繋がっていたと考える事が出来ます。

尚、若松荘の事件は楠木正成の最初の挙兵前であり、後醍醐天皇が楠木正成に挙兵の為の軍資金として若松荘を与えたのではないかとも考えられています。

他にも、後醍醐天皇の側近の僧である隆誉と楠木正成は繋がっていたともされており、1322年の段階で後醍醐天皇と楠木正成は既にお互いを知っていたとする説もあります。

楠木正成の挙兵

楠木正成は1331年に赤坂城に籠り挙兵しました。

後醍醐天皇も笠置山に籠城していましたが、先に捕虜となっています。

鎌倉幕府の軍は笠置山城の戦いで勝利すると赤坂城を包囲し兵糧攻めを行い落城しました。

この時に楠木正成は死んだふりをして敵を欺き城を脱出し行方を眩ます事になります。

捕虜になった後醍醐天皇は隠岐に流され倒幕計画は護良親王を中心に進められる事になります。

千早城の戦い

千早城に籠城

1332年の12月に楠木正成は紀伊で再び挙兵し隅田荘を襲い河内へと転戦する事になります。

赤坂城は湯浅氏が接収していましたが、楠木正成は奪還しました。

その後に北上を始め摂津の四天王寺・渡辺で六波羅探題の軍と交戦しますが、撃破しています。

楠木正成は千早城に入り籠城戦を展開する事になります。

先に紹介した「楠木の根っこは鎌倉に成っているのに、なぜわざわざ鎌倉幕府軍はその枝切りに機内へとのぼってくるのだろう」の言葉が出たのは、千早城籠城戦の時です。

籠城戦を耐え抜く

千早城の戦いで楠木正成に従ったのは、石川判官代、平野但馬前司、渡辺孫六などの悪党乱入事件の人物であり、摂津、河内、大和へと繋がる街道などの交通の要衝を抑えていた武士たちでもありました。

楠木正成が様々な人脈形成により悪党も千早城の戦いに参戦していたわけです。

楠木正成は千早城での5カ月に及ぶ籠城戦を耐え抜き幕府軍を翻弄しました。

千早城を落せず播磨の赤松円心が京都を兵糧攻めにしたり、幕府軍の名越高家が射殺され足利尊氏が後醍醐天皇方に味方しています。

後醍醐天皇も隠岐を脱出し、足利尊氏が六波羅探題を滅ぼしました。

関東では足利義詮を擁立した新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条高時は自害し鎌倉幕府は滅亡するに至りました。

楠木正成が寡兵で千早城に籠り奮戦した事で幕府の求心力が低下し勝利に導いたとも言えます。

破格の恩賞

後醍醐天皇は京都に戻ると直ちに楠木正成を呼び出して恩賞を与えています。

建武の新政では一般の武士に対しては恩賞が遅れましたが、功績が分かりやすく武士たちに関しては比較的早い時期に恩賞を与えています。

武将名任せた地域国数
足利尊氏武蔵、常陸、下総
足利直義遠江
新田義貞上野、播磨
新田義顕越後
脇屋義助駿河
名和長年因幡、伯耆
楠木正成摂津、河内

六波羅探題を滅ぼした足利尊氏には武蔵、常陸、下総の三カ国を任せ弟の足利直義には遠江を任せました。

鎌倉幕府の本拠地である鎌倉を陥落させた新田義貞は上野、播磨を任せ子の新田義顕には越後、弟の脇屋義助には駿河を与えています。

名和長年には因幡、伯耆を与えるなど好待遇を見せました。

後醍醐天皇は楠木正成に対しても多大な評価をしており、摂津と河内の二カ国を与えています。

国を統治するのは国司と共に幕府が設置する守護がありますが、楠木正成がどちらに任命されたのかは不明です。

楠木正成は所領に関しても東北にまで所領を与えられた話もありますが、正成死後に室町幕府が推戴する北朝が領地を接収している事から、息子の楠木正行などに継承される事はありませんでした。

それでも楠木正成は結城親光、名和長年、千種忠顕らと共に三木一草とも呼ばれ後醍醐天皇の寵臣となったとされています。

建武政権で楠木正成は恩賞方や雑訴決断所なども任せられてはいましたが、基本的には武者所であり北条氏の残党などが引き起こした反乱の対処を行っています。

西園寺公宗を高師直と共に捕縛した話も残っています。

尚、高師直は足利尊氏の重臣であり、高師直を通じて楠木正成は足利尊氏と繋がりを持っていたのではないかとも考えられています。

後醍醐天皇と楠木正成

楠木正成の戦略眼

建武二年に信濃の諏訪氏に擁立された北条時行による中先代の乱が勃発しました。

足利尊氏は鎌倉にいた足利直義を救う為に近畿を離れ、中先代の乱が終わると建武政権を抜ける事になります。

足利尊氏は近畿を転戦しますが、北畠顕家、新田義貞、楠木正成らに敗れ赤松円心の進言もあり、九州に逃れる事になります。

この時に多くの武士たちが尊氏の後を追う姿を見た楠木正成は、次に足利尊氏と戦う時の敗戦を予感した話があります。

梅松論では楠木正成が戦いに勝利した後に、後醍醐天皇に向かって新田義貞を討ち九州の足利尊氏を呼び寄せ和睦する様に進言した話があります。

楠木正成は武士たちが支持するのは足利尊氏であり、後醍醐天皇では無い事を伝えたと梅松論に記載されています。

梅松論の楠木正成は後醍醐天皇の徳の無さを指摘するなど、辛辣な事も述べました。

後醍醐天皇は空気を読めず自分の理想を掲げ邁進する人物でしたが、楠木正成は物事を冷静に見ており、建武政権を安定させる為には足利尊氏が必要だと考えていたわけです。

楠木正成の頭の中では戦いに勝利した今なら、足利尊氏と有利な条件で講和出来るなどの狙いもあった事でしょう。

足利尊氏も後醍醐天皇を敬愛していた話があり、楠木正成の献策に従えば尊氏との講和が成立し変わった歴史になっていた可能性もあります。

楠木正成は自らが講和の使者になるとまで述べますが、後醍醐天皇は首を縦に振りませんでした。

後醍醐天皇としては「大勝したのに、なぜ相手に講和を申し込まなければいけないんだ」という状態だったのかも知れません。

楠木正成は後醍醐天皇とは別の考え方をしており、後醍醐天皇のやり方を危ぶんでいたとみる事が出来ます。

尚、楠木正成の子の楠木正儀は一貫して南朝と北朝の講和を望んでおり、既に楠木家では「和平交渉が最良、南北合一」などの考えが醸成していたとも考える事が出来るはずです。

後醍醐天皇は了承しませんでしたが、この戦略眼が楠木正成をして劉邦に天下を取らせた張良の様な人物だと評される結果なのかも知れません。

楠木正成の策

楠木正成が予想した通り、足利尊氏は九州で少弐頼尚の支援を受け多々良浜の戦いで勝利し復活しました。

足利尊氏は西国の武士たちを引き連れて大軍となり上洛したわけです。

楠木正成は後醍醐天皇が比叡山に入り京都を足利軍に占拠させ、新田義貞と共に挟撃する作戦を立案しました。

京都は守りにくい地形であり、実際に足利尊氏や足利義詮は戦力を温存させたまま、京都を南朝に占拠させた上で逆襲して敵を破る策を何度も行っています。

京都をわざと取らせる作戦が優れている事は歴史が証明しています。

しかし、坊門清忠は次の点を指摘し猛反対しました。

戦わずに首都を明渡すのは恥ずべき行為

1年間に2度も後醍醐天皇が比叡山に避難したら権威が傷つく

坊門清忠は体裁を気にし反対したわけです。

後醍醐天皇は楠木正成の戦略を却下し、新田義貞の救援を命じました。

楠木正成の進言は建武政権では理解されず、楠木正成は建武政権では孤立していた事も明らかでしょう。

後醍醐天皇への批判

楠木正成は戦場に向かう事になりますが「天皇が戦いに勝利する作戦も立てず、大軍に自分をぶつけるのは討死せよとの勅命である」と述べました。

さらには「義を重んじて死を顧みないのは『忠臣勇士』のする事ではないと吐き捨て京都を後にした話があります。

梅松論では尼崎から京都へ「後醍醐天皇は民衆の支持を得ていない。今度の戦いは必ず敗れる。自分(楠木正成)が生きていても無意味なので誰よりも早く戦死する」と伝えました。

この記述が書かれている梅松論は足利家寄りの書物であり全てを信用する事は出来ませんが、戦場に向かう楠木正成には大きな葛藤があった事は間違いないでしょう。

これが楠木正成の最後の出陣となります。

晩年の楠木正成は後醍醐天皇に対し、かなり批判的な目で見ている事が分かる内容です。

ここで楠木正成は足利尊氏に寝返るという選択肢もあったはずですが、実行せず負けると分かっている様な戦いに参加する事になります。

桜井の別れ

楠木正成は戦場に向かいますが、摂津国の桜井で戦場に行こうとする嫡男の楠木正行に対し、次の言葉を述べています。

※戎光祥出版・楠木正成・正行66頁より

今回の合戦で自分が討死すれば、足利尊氏の天下になるだろうが、決して降伏する事なく徹底抗戦して、命を賭して忠義を貫け。

それこそが父への忠義だ。

これが桜井の別れであり、楠木正成を不屈の忠臣に押し上げた逸話ともなっています。

しかし、桜井の別れが本当にあったのかは不明です。

尚、南朝の結城宗広も後継者の結城親朝に似た様な言葉を述べて亡くなっており、これが南朝に忠臣が多いとする理由にもなっています。

余談ですが、桜井の別れでは楠木正成は楠木正行に「大君に仕えて国の為に役だつ様に」と述べており、後醍醐天皇に仕える様には言ってはいません。

これらの事から楠木正成は結果として後醍醐天皇の為に討死する事になりましたが、実際に楠木正成が守ろうとしたのは皇統だったのではないかとする説もあります。

楠木正成の最後

楠木正成は寡兵で新田義貞の援軍として摂津に到着しました。

湊川の戦いでは楠木正成は玉砕戦法で敵に戦いを挑み敗れ去った事で有名です。

楚漢戦争で劉邦に天下を取らせた大戦略家である張良の様な人物だとされる楠木正成が最期に選択したのが玉砕戦法だったわけです。

兵数で圧倒的に劣る朝廷軍は戦いに敗れ楠木正季と刺し違えて、楠木正成は最後を迎えています。

この時に楠木正成と楠木正季は「7度生まれ変わっても朝敵を滅ぼす存在でありたい」と述べており、これらの楠木正成忠臣説の後押しとなっています。

湊川の戦いの様子を伝え聞いた興福寺の朝舜によると、楠木正成は一族28人と共に切腹し、正成の首を回収した足利尊氏は湊川付近の魚御堂に五十町の所領を寄進し楠木正成らの供養を行ったとされています。

太平記では尊氏が正成の首を得てから六条河原に晒した後に、その首を楠木正行に送ったとする話があり、足利尊氏は楠木正成に対し敬意を持っていた事が分かるはずです。

楠木正行と楠木正儀

戦いに勝利した足利尊氏は後醍醐天皇を比叡山に囲み、既に光厳上皇の院宣を獲得していた事から、室町幕府を開く事になります。

後醍醐天皇は花山院に幽閉されますが、吉野に逃れ南朝を開きました。

楠木正成の嫡男である楠木正行は何度か幕府軍を破りますが、四条畷の戦いで高師直に敗れ命を落としています。

楠木正行も父親と同時に忠臣として描かれています。

楠木正行の弟に楠木正儀がおり、後村上天皇を補佐しました。

楠木正儀は一時は北朝に鞍替えしますが、南朝に再び戻り後亀山天皇の時代に交渉役となり、室町幕府の足利義満との間で明徳の和約が結ばれた事で南北朝時代は終焉を迎えました。

楠木正成のお墓

楠木正成と足利義詮

楠木正成のお墓が宝筐院にあります。

楠木正成は後醍醐天皇に味方した南朝の武将ですが、隣には北朝で室町幕府の二代将軍である足利義詮が葬られています。

足利義詮と楠木正成は接点がない様に思うかも知れませんが、義詮は楠木正成の人柄を慕っており亡くなる時に楠木正成公のお墓に葬る様に命じたとされています。

因みに、楠木正成は後醍醐天皇に京都をわざと敵に取らせ奪い返す戦法を進言し取り上げられませんでしたが、足利義詮は何度も敵を京都に入れてから逆襲する方法で窮地を凌いでいます。

それを考えれば楠木正成の兵法の実践者が足利義詮だったとも言えるでしょう。

名前住所電話番号
宝筐院京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9075-861-0610

湊川神社

湊川神社の祭神は楠木正成となっています。

湊川神社に楠木正成のお墓がありますが、湊川神社が建立されたのは江戸時代です。

南北朝時代は北朝が大半が優勢であり南朝の為に忠義を尽くして亡くなった楠木正成の存在はタブーとされていた時代がありました。

伝承では地元民が楠木正成のお墓を密かに守り続けた事になっています。

楠木正成のお墓は民間でしか知られていませんでしたが、豊臣秀吉の太閤検地により発見されたと言います。

江戸時代になると水戸藩の藩主である徳川光圀は楠木正成を高く評価しました。

湊川神社は徳川光圀により建立される事になったわけです。

名前住所電話番号
湊川神社兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1−1078-371-0001

楠木正成が南北朝時代の最強の武将

YouTubeのアンケート機能を使いアンケートを取って見ました。

足利尊氏、楠木正成、新田義貞、北畠顕家、赤松円心の五人の中で最も戦が上手いと思うのは誰かという質問です。

結果として約6割が楠木正成が一番の戦上手だと考えている事が分かり、南北朝随一の戦上手は楠木正成だと言えるでしょう。

それと同時に楠木正成が日本人に如何に愛されているのかが分かる結果になったと感じています。

楠木正成の動画

楠木正成のゆっくり解説動画です。

YouTube動画で視覚的に分かる様に解説してあります。

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